命の花が散った時
時は遡る。
アカネと別れた井上シズカは、そっと下山プリンスホテルの非常口から外に出た。午前中ほどではないにしろ、雨はまだ降り続いている。シズカは傘を開いて歩き出した。
(必要な情報は伝わったはず!あとは、グレンバーンさんがケンジ君の漫画を見つけてくれさえすれば、何とかしてくれる!)
となると、この村から早く逃げなければならない。下山駅に向かうのだ。乗る電車は、登りだろうと下りだろうと、どっちだっていい。山の魔女から逃げるのだ。下山駅には、ここから歩いて30分ほどかかる。だが、それは普通の道を使う場合だ。シズカがアカネに言った通り、人目につかない裏道を歩かなければならない。15分くらい余分にかかるだろうが、そっちの方が安全だ。
シズカは路地裏を歩き、時には他人の私有地を抜けながら、やがて駅の側にあるビルの影に身を寄せた。小さな駅が見える。しかし、どうしてもそこへ行くまでには、見晴らしのいい道路の、横断歩道を渡らなければならない。影の中でシズカは辺りをうかがう。午前中から振っていた雨は小雨に変わっていたが、幸い人通りは無いままだった。それでもなお、シズカは傘で顔を隠すようにしながら横断歩道を早足で歩いた。
駅に着いた。切符を切る駅員がたった一人しかいない、こんな田舎の駅が、すごく安全な場所だと感じられた。シズカはほっと安堵のため息をつき、さしていた傘を畳む。すると、それによって開けた視界に一人の少女の姿が映った。シズカはハッと息を呑む。
「しーっ……」
シズカにとって見知らぬその少女は、唇に人差し指を当てて、そうシズカを制する。首を左右に振って誰もいないことを確認するとシズカを手招きした。シズカが怪訝な顔をしていると、その少女は唇だけで「グレンバーンのおともだち」と言った。
シズカの顔がパッと明るくなった。
(そうか、グレンさんが私にボディガードをつけてくれたんだ!)
同時刻、キャンプ場。
「ツグミくーん!」
ジュンコが郷土博物館から戻ると、テントがもぬけの殻だった。
「まったくどうしたんだろう?電話にも出ない。無線機にも反応しない。反抗期とやらになったんだろうかねぇ?……おや、これは?」
ジュンコはメモ書きを発見した。「ツグミより」と最後に書かれているので、おそらく彼女がジュンコあてに残していったものだ。
「……5チャンネルを追ってください?」
ミニバンに乗ったジュンコは、無線機を5チャンネルに合わせて、液晶の光点に向かって走り始めた。距離はそこまで離れていない。車を走らせ始めたジュンコはすぐに気がついた。
「これは駅へ向かう方向だねぇ」
下山駅構内に入ったシズカは時刻表を確認する。直近でこの駅を発する電車は30分待たなければ無い。田舎の駅なんてそんなものだ。だが、それくらいの時間なら大丈夫だろう。きっとグレンバーンの友人が守ってくれる。シズカはそう思いながら、ひとまず一番安い切符を自動券売機で購入した。どこまで電車で逃げるかはともかく、差額は到着した駅で精算するつもりだ。
「……あれ?」
「どうしたの?」
シズカがグレンの友人に答える。
「いつも切符を切ってくれる駅員さんがいないんです」
「ああ、それなら探しても無駄ですわ」
「はい?」
シズカはそう言う彼女を見る。長袖長ズボンの、リュックを背負った、山ガールの格好だ。すらっとした、自分より背の高いその少女は、高校生だろうか?緑がかったストレートロングの髪が、蛍光灯の光に反射して輝いている。その顔に、優しい微笑みを浮かべながら、少女は言った。
「窓口の奥で倒れていますわ。もう死んでいますの。死因は、心臓発作」
シズカの顔が青ざめたのは言うまでもない。心臓が早鐘を打っている。
「あ、あなたは……!?」
「どうかしまして?まるで人殺しでも見るような目つきでワタクシを睨んで」
シズカは震える指先を少女に向ける。こいつだ!この人だ!田口ケンジ君たちを消した犯人が、今、目の前にいる!
「ど、どうして!?私をずっと見張っていたんですか!?」
裏道を知っている自分を、気づかれずに尾行するなど不可能なはずだ。シズカはそう思っていた。
「いいえ、ちっとも。ただの偶然ですわ」
ミドリは肩をすくめる。
「グレンバーンさんがホテルに泊まっている。この村の人間は誰しもそれを知っていますわ。だからワタクシは考えたの。もしかしたら、誰かがこっそり彼女に告げ口をするんじゃないか、と。ワタクシはただ、待っていただけですわ。逃げるために駅へと駆け込んで、ホッと安堵のため息をつくような、誰かを」
ミドリはシズカが抱きしめているノートを見た。表紙に『感想ノート』と書かれている。それで事情を察した。
「あなたの考えていることはわかるわ。グレンバーンに、田口ケンジ君が描いた漫画を見つけてもらえば、ワタクシを探しだせると思ったのでしょう?残念ながら、ケンジ君の漫画はワタクシが全て処分しました。だから、もう危険はないの。ワタクシの事を探ろうとする、あなたのような者さえ居なくなれば」
ミドリはシズカに迫る。
「あなたの名前がわからなくたって、いつかは誰かがあなたを見つけるわ!」
「ふふふ、それは無理な相談ね」
ミドリは祈るように両手を重ねると、閃光少女の姿に変身した。深緑色の修道服のような衣装に変わったミドリが、さらにシズカに迫る。
「ワタクシは閃光少女。この服は、人の認識を阻害する魔法が込められていますの。事実、あなたはワタクシの容姿を知らなかったでしょう?容姿でワタクシを特定することなどできません。もっとも、直接変身するところをあなたのように見られたら効果はありませんが……これから死にますから関係ありませんわね」
シズカは唖然としながらそれを聞いている。
「ワタクシの正体をずっと探していたのでしょう?ワタクシの名前は草笛ミドリ。『クサナギミツコ』のモデルはワタクシですわ。ほら、他の人にも教えてさしあげなさいな。ワタクシが人殺しの犯人です、って」
シズカは口を一文字に結び、ミドリを睨む。
「……ワタクシの呪いの秘密を知っていましたのね。そこは、予想外ですわ。ですが、素直に口にした方がいいでしょう。ワタクシなりの慈悲ですのよ?」
ミドリはちらりと駅の時計を見る。
「もう間もなくですわ。この駅を通るのは、何も普通の電車だけではない。時々、コンテナを積んだ貨物列車が通りますの。当然ですが、この駅に止まることなく、高速で通り過ぎますわ。そこで、ワタクシはその列車の前にあなたを落とす。その後、ワタクシは閃光少女の衣装を脱いで立ち去るだけでいい。わかるでしょう?誰もワタクシを追いかけることなどできないと。ワタクシはどちらでもいいの。あなたに死に方を選ばせてあげる」
シズカは沈黙して、恐怖に震えていた。だが、やがて意を決したように、その瞳に光を宿す。
「私は……あなたの名前を言っていない……!」
「んっんー?」
ミドリは、だから何なんだといった調子で、鼻で笑う。
「全部……あなたの口から出た言葉なんです……自分の本名だとか……人殺しの犯人だとか……閃光少女の服を着たのも、あなたが自分からやったことなんです!」
「それが、どうしたっていいますの?」
シズカは、ミドリの後方を指さしながら叫んだ。
「そこのお姉さん!!ここから逃げて!!」
「はぁ!?」
ミドリは振り返った。そこには、シズカから『お姉さん』と呼ばれたツグミがいた。しかし、ツグミは逃げようとしない。それどころかこちらに駆け寄りながら、水筒に入っていた液体をミドリにぶちまけた。
「きゃああっ!?な、なんなのよ、コレ!?」
「ランタンに使う灯油です。あなた……その子に何しようとしてたんですか!?」
ツグミは即座に、手持ち花火に火をつけた。ミドリの動き方次第では、それで彼女の体を燃やすつもりだ。
「や……」
シズカがツグミに叫ぶ。
「やめてください!!逃げてください!!普通の人間が、閃光少女に敵うはずがない!!」
「……ワタクシも、それに同意いたしますわ」
そう言うやミドリは、変身を解除した。つまり、灯油が染み込んでいた閃光少女の服装から、そうではない長袖長ズボン姿に戻ったのだ。したがって、ツグミは花火の閃光を向けたが、引火しなかった。ミドリはツグミの持つ花火をはたき落とすと、両手で彼女の首を締め上げようとした。
「ワタクシを誰だって思っていますの!」
しかし次の瞬間、ミドリの目から火花が散った。ツグミが左拳をこめかみに叩き込んだからだ。いつの間にか手が首から外されている。ミドリは柔道でいう肩車投げの体勢でツグミに抱え上げられ、そのまま勢いよく窓ガラスに叩きつけられた。粉々に砕かれたガラス片と共に、ミドリの体が駅の外へと転がり出る。すぐにツグミが窓枠を乗り越えて、倒れているミドリの傍に立った。その右手に鋭利なガラス片を持ち、そして、氷の表情を浮かべながら。
「あなたこそ……私を誰だと思っているの?」
四つん這いになりながら体を起こすミドリが、突如高笑いを上げる。
「ふふふ……あはははははは!ついに本性を現しましたわね!あなたのような殺人鬼に、ワタクシを断罪する資格がありまして!?」
だが、その語気の強さとは裏腹に、ミドリはそれ以上戦う力は無いようだった。もっとも、魔法を除いてだが。ツグミが無言のまま手に持ったガラス片を振り上げた時、それは起こった。
「いやあああっ!!」
「!?」
悲鳴を耳にしたツグミは、即座に駅の中へ引き返した。見ると、先ほど助けた少女が、彼女自身の右手から生えている薔薇から伸びる蔦によって、体中を締めつけられている。痛みに悲鳴をあげながらも、少女は自分へ近づこうとするツグミに向かって叫ぶ。
「だめよ!!近づいちゃだめ!!あなたまで死んでしまう!!」
「落ち着いて!!大丈夫、助けるから!!」
「……無理よ」
シズカは首を横に振った。薔薇の呪いが、自分自身と同化していくことにより、この化け物の狙いが、シズカ自身にもわかった。殺すつもりはないのだ。少なくとも、目の前にいる少女を蔦で巻き込むまでは、自分を死なない程度に痛めつけるつもりだ。だったら、この人を助ける方法は一つしかない。
「行って!!証拠は処分されてしまった!!あの女の正体を知っているのは、あなたしかいないの!!」
はたしてミドリが説明していた通り、この駅に向かって貨物列車がやってくる。時速は90キロぐらいだろうか?十分だ。それなら、十分だ。
「あなたや……グレンバーンさんなら……きっとあの女を倒せる……!やって!!私たちの仇をとって!!みんなのうらみを晴らして!!」
「待って!!」
ツグミが制止するのも聞かず、シズカは線路に飛び降りた。人間の肉が砕け散る音が駅に満ちる。間もなく貨物列車が緊急ブレーキをかけるが、実際に止まったのは200メートル以上も進んでからだった。真っ赤な鮮血の花が咲いた線路を見つめ、ツグミはその場にへたりこんだ。その背後に、びっこを引きながらミドリが近づいてくる。
「あなたが……この駅に来た理由が……やっとわかりましたわ……」
その手には無線機が握られていた。それを一瞥するツグミの手にも、同じ形状の無線機が握られている。その無線機は発信機も兼ねている。ミドリが持つ無線機の液晶画面にも、チャンネルが合わせられた別の無線機の位置を示す光点が点滅していた。
「リュックの中に入っていました……いつかしら?温泉に一緒に入ったときから?あなた、ワタクシを疑っていましたの?」
「……疑っていたわけじゃなかった」
ツグミが立ち上がりながら振り返る。
「ただ……あなたが、グレンちゃんに対してサプライズがしたいと言った時、私は、グレンちゃんにもサプライズをする権利があるんじゃないかと思った。それだけだったの。私はあなたが、ずっと山に住んでいるとばかり思っていた。山の中で課題があるから離れられないって……でも、今あなたは山にいなかった。だから不審に思ったんです」
「そう……」
ミドリは無線機を無造作に投げ捨てる。
「なら、あなたもその無線機で、仲間にワタクシの名前を伝えたらいかがですか?いくらあなたが強くても、ワタクシが魔法を使えばあなたは死ぬ。漫画とあの女を始末した今、ワタクシの名前を知っているのはあなただけ」
ミドリは再び閃光少女の衣装を身にまとった。灯油が染み付いているが、今なら、ツグミが火を使うまえに魔法で殺せると考えたのだ。
「本当に、残念ですわ。ワタクシがオウゴンサンデーと敵対しているのは、嘘ではなかったの。あなたの事、本当に同情していましたのよ?お友達になれたのに……」
ツグミはしばらく無線機を見つめていた。そして、首を横に振った。
「あなたとは友だちになれないよ……ジュンコさん」
「は?」
ミドリは、そんな名前で呼ばれる筋合いなどなかった。だが、ツグミにはその名前を呼ぶ理由があった。液晶画面に映る光点が、ツグミの現在位置と重なっている。
「ジュンコさん、犯人はその人です」
「了解した」
ミドリは、その冷たい声が聞こえた方向に顔を向けた。赤く光る二つの瞳が自分を見据えている。白衣を来た女性が、自分の眉間に短い竹筒を向けていた。まるで拳銃のように。
「Trick or Treat」
ジュンコがそうつぶやくと、竹鉄砲が火を吹いた。口径20ミリの、粘土で作られた弾丸が、秒速300メートルで射出される……とジュンコは想定していたが、発射したとたん砲身|(和紙で固めた、ただの竹)が破裂したため、おそらくそこまでの初速は出ていない。だが、目の前の女の頭蓋骨を、木刀を振り下ろされたスイカよろしく、粉砕するには十分だったようだ。火薬から生じた燃焼ガスが灯油に引火し、花のようにパックリ開いたミドリの頭を乗せた体が、糸が切れたように炎の中に崩れた。
「ジュンコさん……」
「だいたいの事情は無線機越しに聞いていたよ。ご苦労だったね。しかし早く撤収しなければ。いくら田舎とはいえ、これだけ騒ぎを起こせば、そのうち人が集まってくるはずだ」
「これ……」
「うん?」
ツグミは一冊のノートを拾っていた。表紙には『感想ノート』と書かれている。ツグミはそのノートの、とあるページをジュンコに見せた。
「……なるほど。君の目の前で死んでしまった少女は、私たちに残そうとしたんだねぇ。名前を言ってはいけない女の名前を」
そのページには、シズカの血で書かれたメッセージが残されていた。人差し指を噛み切って、それをノートに押し付けて書いたのだろう。『クサブエミドリ』という名前が、痛みに震える手で、大きく書かれていた。
グレンから無線機で連絡が入ったのは、このすぐ後のことだった。ジュンコの運転するミニバンの助手席に揺られながら、ツグミは応答する。
「どうしたの、ツグミちゃん?なんで泣いているの?」
「……犯人の名前……私たちもわかったの。それで……犯人はもう死んだよ……」
「えっと……それなら……」
「女の子が……殺されてしまった……あの子が命がけで、ノートに犯人の名前を残してくれたの……」
「ねぇ、ツグミちゃん……もしかしてそのノート……表紙に『感想ノート』って書かれていたりする?」
「……どうしてそれを知っているの?」
小降りになっていた雨が、ふたたび勢いを増した。線路に残された少女の血潮を洗い流そうとするかのように。




