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童貞のララバイ

 緑川アキホの乗る車が、いつものように、アモーレから少し離れた場所で停車した。


「パパ……それじゃあ、またね」


 アキホが笑顔で車から降りると、珍しく、『パパ』と呼ばれるスーツ姿の男もまた車から降りた。なにかたまらないように、アキホを抱きしめる。


「好きなんだ……アキホのことが!」

「わかってるよ、そんなこと」


 男がアキホと唇を重ねる。やがて名残惜しい様子の男は、次の逢瀬に期待して車で走り去った。


 手提げカバンからウエットティッシュを抜き取り、丁寧に唇を拭うアキホに別の少女が声をかけた。


「へぇ。アキホちゃん、ああいう人が好きなんだ」

「チドリちゃん!?」


 本郷チドリである。そういえば、数日前にもここで車から降りるところを見られている。チドリはそれ以来、どうしても心にそれが引っかかっていたのだ。だから、糸井アヤを彼女の家までバイクで送った後、ずっとここで待ち伏せしていたのである。


「アキホちゃん、今日はお昼からずっと塾の先生に勉強を教えてもらうって言ってたっけ。すごいね。最近の塾の先生は、ああいう事も手取り足取り教えてくれるんだ」

「……皮肉を言うのはやめて」


 アキホが不機嫌な顔をチドリに向けるのは、彼女がアモーレに引き取られてから初めての事である。チドリの方は表情にこそ出さないが、不愉快なのは彼女も同じであった。アキホとあの男が、純粋なカップルと思えるほどチドリは純情ではない。援助交際。そういう名前の児童売春を、アキホがしていた事にチドリは憤りを覚えていた。


「チドリちゃんに、私を批判する筋合いなんてない。あなただって、私がもらったお金で生きていけるんじゃない」


 チドリはハッと悟った。


「銀行に振り込まれていた大金……あれは、アキホちゃんが……!」

「アモーレの子どもたちに、たまにはオモチャでも買ってあげたらいいと思う」

「そのために、あなたが男のオモチャにされるのを見過ごせると思うの!?」


 アキホはチドリから顔を背け、山へ沈む夕陽を見つめながら口にする。


「……お金が欲しかっただけよ。勘違いしないで、チドリちゃん。あの人が、私をもてあそんでいるわけじゃない。私が、あの人をもてあそんでいるだけ。純粋なあの人を……」

「純粋だって!?」


 チドリが憤然と反駁する。


「15歳の女の子に、お金を払ってセックスをする男の、どこが純粋なの!?アキホちゃん、騙されている!あるいは自分で自分を、そうやって誤魔化しているんだよ!」

「いいじゃない!どっちだって!それでアモーレの生活が続けられるのなら!」

「良くないよ……アキホちゃんが自分を大切にしないで……それで得たお金で、笑って暮らせるわけがないよ……良くないよ……」

「じゃあ、私が出ていけばいいんでしょ……?」


 アキホはそんな極論に走った。


「さようなら、チドリちゃん。短い間だったけれど、楽しかったわ……」

「…………」


 チドリは沈黙してアキホを見つめていたが、やがて彼女に背を向けると、夕闇の中を歩いて去っていった。やがてエンジン音が唸りをあげ、その音が小さくなっていく。チドリがバイクで走り去ったのだ。そうとわかったアキホは身震いをした。


「寒い……」


 日中は12月にしてはよく晴れた温かい日であったが、日が沈み、風が吹いてくれば寒さが身にしみる。


 アキホは近くの公園まで歩いた。公園の中央に、タコの形をした遊具がある。プラスチックの空洞は、寒さをしのげる場所としては落第点もいいところだが、直接風にさらされるよりはマシだ。


「…………」


 アキホは遊具の中で膝を胸に寄せて座り、顔を伏せた。チドリはこう言っていた。15歳の女の子に、金を渡してセックスをする……それは異常である、と。


 アキホ一人であれば、どのようにも自分に言い訳ができたのだ。純粋な交際と思い込むこともできた。お金はあくまで生活に困っているアモーレへの応援である、と。あるいは、自分は男をもてあそぶ小悪魔というロールプレイもできた。しかし、信頼しているチドリから面と向かっておかしいと言われた今となっては、そのどれもが幼い自己弁護としか思えないアキホであった。


 アキホは手提げカバンから、紫色の液体が入った小瓶を取り出す。発端はこれなのだ。ある日、いつものように図書室での自習を終えたアキホは、道で若い女性に声をかけられた。


「栄養剤の試供品を配っています!よろしければ、少し試してみませんか?」


 アキホが見たその時の女性は、真面目な薬局の店員のように見えた。一口それを飲んだ時の驚きは、今でも忘れられない。アキホが感じていた悲しみや不安が、一気に吹き飛んだからである。


「これ、どこで買えますか!?」


 そうアキホが食いついたのがまずかった。次にその女性に会った時、彼女は初対面と違い、本当の姿は不良ワルだったのだ。


「あとは金がものを言う……」


 薬品の対価として、アキホは高額の金銭を要求された。薬品欲しさに援助交際を始めるようになったのも、その女の紹介からである。だが、その薬品にはそれだけの価値があるようにアキホには思えた。それに、薬品を買った余りのお金で、アモーレの家計にも少しは貢献できる。


「『魔剤』って言ってたっけ……」


 瓶の蓋を緩めようとしたアキホの手が止まった。この薬で今の罪悪感を消し去るのは、あまりにもチドリに対して申し訳がない。


 その時、不審な物音に気づいたアキホが固まった。タコの遊具に、外から何かが入ってくる音がする。最近は、野良猫の数より悪魔が多いのだ。未だに襲われたトラウマをもつアキホが恐怖をおぼえるのも無理はない。


 しかし、違った。


「アキホ姉ちゃん、俺だ」

「あっ!シロウ君……」


 アモーレに住む子どもの一人、結城シロウだ。子どもとは言うものの、彼は現在、小学校6年生である。年齢からいえば、アキホと3歳しか違わなかった。だが、確かめるまでもなくシロウは童貞である。その一点があるが故に、アキホには彼がひどく幼く見えた。


「何やってんだよ?」

「いや、べつに……」

「何だよ、それ?」

「風邪薬だよ」


 アキホはそう言いながら魔剤をカバンに片付ける。


「早く帰ろうぜ」


 そう催促するシロウに、アキホは首を横にふった。


「私……帰らない」

「なんでだよ?」

「私は不潔だから」

「だったら風呂で洗えばいいだろ」


 こういうところは子どもだな、とアキホはシロウに思った。アキホは、どう説明したものかと頭をひねる。


「ねえ、シロウ君。お茶を飲むコップが汚れたら、どうする?」

「洗剤で洗う」

「うん。だけど、そこにそう……猫のフンが入っていたら?もう一度洗って使う?」

「それは、なんか嫌だな……」

「私が言う『不潔』って、そういう意味なの」

「ああ、猫のフンを踏んだのか」

「もう!そういうことじゃない!」


 アキホは例え話をつかって自分が『けがれ』た事を理解させようとしたが、無理だと悟った。そのため、アキホはシロウに正直に打ち明けることにした。


「私はね、シロウ君。お金のために、男の人とセックスをした。それがチドリちゃんにバレたのよ……」

「…………」


 アキホがシロウの顔をチラリと見る。チドリとは違い、シロウはあけすけに嫌そうな顔をしていた。とはいえ、彼は前向きだ。


「アキホ姉ちゃんがそれを汚いと思うなら、やめちまえよ」

「……でも、もう二度と同じ私には戻れない。私は、永遠に変わってしまった」


 アキホがシロウの目を見つめた。


「私のこと、好きだったんでしょ?」

「は」

「嫌いになったでしょ?」

「ふざけんな!」


 シロウが思わず怒気を発する。


「俺がどう思おうが関係ないだろ!」

「じゃあ、なんで私にこだわるの……」


 と、ここまで口にしてアキホは気がつく。シロウは、アキホに好意を抱いていることは否定していない。


「アキホ姉ちゃんは汚くなってねえよ!でも、俺はまだ子どもだから、それを証明できないんだ!」

「証明って、何を?」

「……キスするとか」


 ここまで口にして、とうとうシロウの我慢が限界をむかえる。


「いいから!帰るんだよぉ!」


 シロウはアキホの手を引いて、無理やり遊具の外へ引っ張りだした。だが、アキホは本気で抵抗しているわけでもなかった。しかし、気になることがある。


「でも、チドリちゃんが許してくれるかしら……?」

「おかしな事言うなよ。俺はチドリ姉ちゃんに迎えに行けって言われて来たんだぜ?」

「あ、そうなんだ……」


 アキホたちが少し歩いた先で、チドリがバイクにもたれかかっていた。歩いてくる二人を見つけたチドリは微笑を浮かべると、さっとバイクにまたがる。


「あっ!」


 シロウが声をかける間もなく、チドリは走り去ってしまった。


「なんだよ。アキホ姉ちゃんを乗せて帰れば良かったのに」

「ねえ、シロウ君」


 アキホが笑いながら呼びかける。


「キスは大人になるまで、待ってるから」

「うるせーな!」


 怒るシロウに手を引かれて歩くアキホは、先ほどまでよりもずっと、寒くないと思った。


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