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冷や水にノーサンキュー

 翌日の朝。

 糸井アヤはこの日も早起きをして学校へ向かっていた。家から最寄りのバス停からバスに乗るのだが、他の友だちよりも一本早いバスに乗っている。そして、クラスメイトの誰よりも早く教室へ入るのだ。


 この習慣が始まったのは、昨年の夏休み明けからである。父コウジはそんな娘を、


「ずいぶんマジメに頑張っているんだな、アヤ。お父さんも嬉しいよ」


 と無邪気に喜んでいる。しかし、それはそんな殊勝な理由からではなかった。アヤは怖いのだ。


 それは理科の授業で実験室へ移動する時のことであった。クラスメイトたちと談笑しながら歩いていたアヤの足が止まる。


「どうしたの、アヤちゃん?」

「ごめん!私、ちょっとトイレに行ってくる!」

「う、うん」


 アヤが慌てた理由を、クラスメイトたちは知らない。彼女の前方から、たまたま緑川アキホが歩いてきたからだ。同じ中学校に通っているのである。アヤが2年生になったように、彼女は今では3年生だ。自分は緑川アキホの父親を死に追いやった。いくら悪魔化していたとはいえ、その事実はずっとアヤを苦しめ続けていたのである。


「はぁ……はぁ…………んくっ!」


 トイレの個室に引きこもったアヤが、ユリからもらった魔法薬の瓶の蓋を開ける。中にある紫色の液体は、魔力回復薬でもあり、精神安定剤でもあった。それを一気に飲み干したアヤは、徐々に心の落ち着きを取り戻していった。


(あっ……)


 トイレの個室から出ようとしたアヤが固まる。外に誰かいるのだ。他の誰かならともかく、アキホと鉢合わせするのは気まずい。アヤはしばらく中で待つことにした。


(…………?)


 様子がおかしい。トイレに用事があるのならば、隣の個室に入るはずだ。さもなければ洗面台の鏡を使うくらいなものだが、どういうわけか外の人物はそわそわとトイレ内を歩き回っている。しかし望みは叶わないと思ったのか、次の授業開始を告げるチャイムの音が鳴ると、やがて外に出ていった。アヤも、いつまでもグズグズはしていられない。


「あっ!」


 ドアから飛び出そうとしたアヤは、うっかり何かを蹴飛ばしてしまった。サニタリーボックスという、生理用品を廃棄するための、小さなゴミ箱だ。汚れたナプキンと共に外に飛び出た物体に、アヤが目を丸くする。


(えっ!?なんでここにユリちゃんの薬があるの!?)


 転がり出た、紫色の液体が入った瓶は見間違いようがない。ユリがアヤに渡した薬と、瓶の形状まで同じであった。しかも、半分飲みかけのまま。


(さっき外に居た子。たぶん、あの子が何か理由があって、魔力回復薬をここに隠してたのを取りに来たんだ。ということは、その子も魔法少女なのかなぁ?)


 アヤは顔をしかめながら、生理用品と魔法薬の瓶をサニタリーボックスに戻した。謎の少女(と断定していいだろう、女子トイレにいたのだから)の正体も気になるが、それより授業に急がなければならない。トイレから飛び出したアヤは、廊下を走っていった。


 放課後。

 帰宅部としても、アヤは優秀であった。教室でクラスメイトたちが談笑しているのを尻目に、さっさと教室を後にする。もしも緑川アキホがそうするタイプなら、逆にアヤはだらだらと教室に居残っていただろう。しかし、アキホが毎日、図書館で自習をしてから帰る習慣があることを、アヤは知っている。


「………………」


 アヤはバス停で携帯電話を耳に当て続けていた。電話をかけている相手はユリだ。しかし、呼び出し音ばかりが鳴り続け、結局ユリの声は聞けなかった。


「電話にでんわ……」


 アヤはそんなダジャレを口にしながら、バス停に来たバスに乗り込んだ。その後、しばらくバスに揺られていると、アヤの携帯電話が、バイブレーションで着信を持ち主に知らせる。


「あ、ユリちゃん。これから一緒に遊ばない?」


 アヤが小声でそう尋ねると、携帯電話から申し訳なさそうな声が返ってくる。


「ごめーん、アヤちゃん!私、これから聖歌の練習があるの!先生が勝手に私を聖歌隊に入れちゃって……」

「そっかー、それなら仕方ないね」

「また今度ね。ところで、アヤちゃん。薬はまだ大丈夫?」

「それなんだけど……」


 アヤがユリを誘ったのは、今日トイレで見つけた魔法薬についてユリの意見を聞きたいという思惑もあった。だが、ふとバスの乗客と目が合い、アヤは口をつぐむ。魔法少女の秘密を話すのはまずい。


「ごめん、なんでもない。それじゃあ、練習がんばってね」


 ユリとの通話を終えたアヤがバスの行先表示を見上げる。自宅の最寄りバス停は、もう過ぎてしまっていた。このまま行けば、ユリとよく遊んだ総合スーパーのバス停に到着する。


(少し遊んでいこうか)


 バスから降りて総合スーパーへと入ったアヤは、ゲームセンターで時間をつぶすことにした。ダンスゲームや、クレーンゲームに興じる。流行りのゲームに登場するモンスターのぬいぐるみがアームからこぼれ落ち、携帯電話の時刻表示を見たアヤがため息をついた。


(まだこんな時間。一日って、こんなに長かったかなぁ?)


 一年前は違った。こうして遊びに回るのは、閃光少女のパトロールも兼ねていた。悪魔を見つけて、その場で戦うこともあった。しかし、今やアヤは、悪魔に出くわさないことを祈っている始末だ。


(私……閃光少女になんか、向いてなかったんだ……)


 アヤは意気消沈したまま、スーパーの3階へとエスカレーターで上がる。そこは飲食店が集まる区画である。ファミレスに入ったアヤが注文したケーキを待っていると、やがて小柄な女性店員が彼女のテーブルにそれを置いた。


「こちら、ご注文のミルクレープとコーヒーのセットになります」

「あ、はい」


 アヤは顔を上げないまま、ケーキの皿を手元に引き寄せる。しかし、店員の次の言葉を聞いて、アヤのフォークを持つ手が止まった。


「久しぶりだね、アヤちゃん」


 アヤがハッとして顔をあげる。身長が145cmしかない、見ようによっては小学生にも見える少女が、癖の強い長髪を掻き上げながら微笑む。アヤはその少女を忘れたことなどない。


「本郷さん!」


 孤児院アモーレに住んでいる、本郷チドリだ。事実上、アモーレのもう一人の院長と言っても過言ではない。チドリは微笑みながらアヤに語りかける。


「あれ?前はチドリちゃんって呼んでくれたのに、やめちゃったの?遠慮することなんてないのに」

「あ、うー……」

「ところで、アヤちゃん」


 チドリがアヤの耳元にささやいた。


「どうして、アキホちゃんを避けているの?」

「!」


 アヤの心臓がドキンと跳ね上がる。バレていたのだ。どうしてチドリがここにいるのかわからないが、アモーレの仲間をないがしろにされて、彼女が怒らないわけはないとアヤは想像する。たまらなくなったアヤは、注文伝票を鷲掴みにして立ち上がった。


「ちょ、ちょっと私は急用を思い出して……!」

「待って」

「うっ!?」


 チドリに手首を掴まれたアヤは、その場でズッコケた。チドリに足払いをされたと気がついたのは、膝を床につけた後である。チドリはすぐさまテーブルの上に置いてある水差しを取ると、アヤの頭の上にゆっくりと冷たい水を浴びせた。


「ええーーーーっ!?」


 緑川アキホを避けていたのは事実だが、そこまでするのか!?


 そう思ったアヤは、思わずそう叫んでいた。


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