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口づけにありがとう

 時は流れ、1999年5月。


 石坂ユリが糸井邸を訪ねたのはゴールデンウイークに入ってからだった。約束の時刻は午前10時。少し早めに着いたユリを、もちろん、アヤの父コウジは歓迎した。


「こんにちは、おじちゃん!」

「やあ、ユリちゃん!久しぶりだねぇ!元気……とはいえないのかな」


 コウジはユリの境遇を思い出す。


「君のお父さんの事は、アヤから聞いているよ。気の毒な事だったね」


 事実、ユリの父の死からまだ一年も経っていないのだ。だが、ユリの表情は明るい。


「私なら、大丈夫ですよ。それに、城南にいる間は、おじちゃんが私のお父さんです!」

「そうか……頼ってもらえて嬉しいよ。さ、中に入るといい」


 コウジにリビングへ案内されたユリがキョロキョロと見回す。


「おじちゃん、アヤちゃんはどうしたんですか?」

「いや、申し訳ない。朝ごはんを食べた後、自分の部屋で二度寝しているんだ。せっかくユリちゃんが来てくれているのに……今すぐ起こし」

「あ!いいです!私が行きますから!」


 コウジの返事も聞かず、ユリはずんずんと二階へ上がっていった。


「…………あれ?どうしてユリちゃんは、アヤの部屋が二階にあるのを知って……まあ、いいか」


 コウジは、ユリとアヤが魔法少女仲間であることを知らない。ユリはコウジが寝ている間に、窓の外からアヤの部屋へ入ったことがあるのだ。


「おはよう、アヤちゃん!」

「……!」


 アヤはすぐに布団をはねのけ、ユリを見て目をパチクリさせる。


「どうしたの、アヤちゃん?今日、遊びに来るって約束してたじゃない」

「あ、うん……もしかして悪魔が来たのかな、と感じて」

「…………」


 アヤは神経過敏になっていたが、それには理由がある。ユリが尋ねた。


「バルキリーさん……まだ連絡がつかないのね」

「……うん」


 ここ一週間ほど、閃光少女のグレンバルキリーが行方不明になっているのだ。実のところ、閃光少女が音信不通になるのは珍しいことではない。敵は悪魔なのだ。戦いでいつ死んでもおかしくないし、魔法少女特有の秘密主義が災いして、生死さえ定かにならないことはざらだ。


「……仕方がないよ、アヤちゃん。閃光少女として戦うってことは、そういうことも前もって覚悟しないと。私たちもね」

「でも……やっぱり怖いよ。友だちがいなくなるのって……」

「悪魔もどんどん強くなっている……いつかすごい戦争になるんじゃないかな?私たちも、それに備えないと」

「だから、ヤジンライガーと付き合っているの?」


 またその話かとユリが苦笑いする。アヤは友人であるユリが、いわゆる不良魔法少女のライガーと交流があることに不満なのだ。


「あの子、乱暴だから嫌い」

「たしかに、そうかも。でも、あれでけっこう可愛いところもあるのよ?私のことを姉御あねごだなんて……いや、それより」


 ユリがアヤの肩をポンと叩く。


「閃光少女の目的はただ一つ。悪魔を倒すこと。そのためには、みんなで協力しなくちゃ。閃光少女は助け合いでしょ?」


 いつもの決め台詞をユリに言われたアヤは、それ以上何も言えなかった。


 アヤと日が沈むまで遊んだユリは、やがて糸井邸を辞した。ガンタンライズとの友情を表とすれば、日が沈んだ後は裏の交流が待っている。


 郊外に、とある貸倉庫がある。

 そこは、閃光少女サンセイクレセントのアトリエだ。全身をレインコートで隠した彼女は、今日もまた一心不乱に、キャンバスと向き合っている。彼女は芸術家なのだ。倉庫には、そうした情熱の結晶である作品が、あちこちに置かれていた。


 誰かが倉庫の照明スイッチを押したことで、クレセントはようやく、太陽がとっくに落ちていることに気がついた。石坂ユリが変身した魔法少女、クマネコフラッシュが弾むような足取りで閃光少女の画家に近づく。


「こんばんは、クレセントちゃん。今日も熱心ね」

「ああ、フラッシュさん」

「何を描いていたの?」


 そう聞かれたクレセントは嬉しそうだ。


「『閉塞』を」

「『閉塞』?」


 キャンバスには無数の枠が描かれている。抽象画の素養のないフラッシュにはただの落書きにしか見えないが、フラッシュはそれを口にはしない。


「こう……ぶつけているのね?あなたの心の中にある風景を」

「フラッシュさん、ちょうど良かった」


 クレセントが隠してあったキャンバスを一枚持ってきた。


「フラッシュさんを描いたんだけど、どうかな?」


 幸い、こちらならフラッシュにもわかる。キャンバスに描かれているのは、フラッシュの精巧な似顔絵だ。こういう絵ばかり描けばいいのに、という本音は隠しながらフラッシュがニッコリと笑った。


「わー!すごい!ありがとう!こんなに綺麗に描いてくれて、私、嬉しい!」

「あの……フラッシュさん」


 絵には自信があっても、自分の容姿には自信がないクレセントがもじもじとうつむく。


「あなたと友だちになれて、僕……すごく嬉しいです」

「私もよ!」


 クマネコフラッシュがサンセイクレセントに会ってから、かれこれ三週間ほど経っていた。二人の出会いは、ヤジンライガーからの紹介によるものだ。素行の悪さゆえに他の閃光少女からはみ出した存在であるライガーは、どういうわけかクレセントには気を許している。サンセイクレセントが、同じように他の閃光少女と馴染めないためだろう。そして、クレセントが他の閃光少女と馴染めないのは、おそらく彼女の性的嗜好が原因だとフラッシュは考えている。


「でも……ああ、僕は悪い奴なんだ!」

「どうして?」

「僕は……あなたを……その…………」

(犯したいのね)


 と、さすがにフラッシュは口にしないが、クレセントの心は手に取るようにわかった。というより、クレセントの性癖を理解した上で、そう仕向けたのはフラッシュ自身である。フラッシュはクレセントと出会って以来、彼女の芸術の、良き理解者として振る舞っていた。その心を鷲掴みにするために。


「たいへんだよね……女の子なのに、女の子を好きになるのって……」


 今もそうやって、その態度を崩そうとしない。


「本当に……ごめんなさい」

「いいのよ、クレセント。私は、あなたの期待には100パーセントは応えてあげられない。それでも、これで良ければ……」


 フラッシュが右手の甲をクレセントに差し出す。クレセントは、震える指でその手を取ると、フラッシュの魔法少女の指輪に口づけをした。


「ヒューッ!」


 冷やかすようにそう口にしたのは、いつの間にか倉庫に入ってきたライガーだ。そのたくましい腕の筋肉で、大きなダンボール箱を二つも抱えている。


「いつの間にかずいぶん熱い関係になってるじゃねえか、クレセント!」

「もう……やめてよ」


 クレセントは恥ずかしそうに、そう抗議した。ただ、どちらかといえばライガーのような態度をとられる方が、クレセントとしては気が楽なのだ。だからこそ気を許している。ただしヤジンライガーは、恋人として見るには好みのタイプではないらしい。

 ライガーがフラッシュに尋ねる。


「この荷物、ここに置けばいいのか?」


 そう言ってライガーがドスンと倉庫の床にダンボール箱の一つを置くと、フラッシュがそれを睨んだ。


「ライガー、その中身は割れやすいのよ。気をつけて」

「あ、ああ……すまねぇ、姉御」


 その瞳に恐怖の色を見せたライガーが、もう一つの箱をそっと床に降ろす。フラッシュはニッコリ笑った。


「ありがとう、ライガーちゃん!」

「これくらい、お安いご用だ」


 フラッシュの機嫌が戻り、ライガーはひとまず胸をなでおろした。


「ところでフラッシュさん、それ何?」


 サンセイクレセントが尋ねる。自分のアトリエを、フラッシュも使っていいと快く許可しているが、その目的までは聞いていない。


「私もクレセントちゃんみたいに、創作活動をしたいなーって」


 そう口にするフラッシュの表情がなまめかしく見えたクレセントは、思わず顔を伏せた。


 時には恐怖で、そして時には甘い誘惑で魔法少女たちの心を操るクマネコフラッシュ。糸井アヤ/ガンタンライズは、まだその正体に気づいていない。そして、その目的にも。それが最悪の結末を招くなど、知る由もなかった。


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