もう人間ではなくなった時
(今日もよく晴れそうね)
バス停に立っていた女子高生が手をかざしながら、まぶしく光る太陽を透かして見上げた。登校時間である。バス停には彼女の他に何人もの女子高生達や男子生徒達がいた。それぞれが複数人のグループに分かれ、好きなドラマの俳優や流行しているJPOP、そして昨夜の事件について話している。しかし、彼女だけがただ一人、他の学生達からは遠巻きにされていた。どうしても近寄り難い雰囲気があったからだ。
まず背が高い。身長は170cmもある。高校1年生の女子としては破格の身長だ。端正な顔立ちは、美人というよりもハンサムと形容する方が適切に思える。赤みがかったロングヘアを後頭部で結んでいるが、その位置が高すぎるためか、ポニーテールというより、本人の雰囲気も相まって、生まれる時代と性別を間違えたサムライのようだった。
そして、強い。もともと中学1年生の頃から空手の全国大会に出場し、熾烈な優勝争いを繰り広げていたのは、知る人ぞ知ることである。なぜか中学2年生になったある時期から空手をぱったりやめてしまったが、むしろその強さを示すエピソードには事欠かなかった。たまたま寄ったコンビニで出くわした強盗を、犯人の方が警察へ保護を求めるほどめちゃくちゃに叩きのめした他、3年生の女子グループに校舎裏へ呼び出された時は、四人揃って保健室送りにしている。その中には柔道部の男子生徒も含まれていた。ただ、そんな彼女に不思議な魅力を感じるのか、彼女から言わせると「とちくるった」感覚を持つ一部の女子生徒が、下駄箱にラブレターを入れ、むしろ単純な暴力よりも彼女を困らせたりしたが。
彼女の名前は鷲田アカネ。この4月から、バスで県立の高校に通っていた。
「アカネちゃーん!おはよー!」
アカネが名前を呼ばれて振り向くと、はじけるような笑顔の(あくまでアカネと比べれば)小さな女の子が勢いよく手を振りながら、こちらへ走ってくるのが見える。
彼女の名前は糸井アヤ。アカネと同じ高校、同じ学年、同じクラスの友人だ。入学当初から孤立していたアカネにも、なんら恐れることなく接してきた数少ない女子生徒である。まだ数週間の付き合いだというのに、二人はすっかり親友だった。
「おはよう、アヤちゃん。リボン変えたの?」
アカネはアヤのポニーテールをまとめている薄紫色のリボンを指さす。彼女のチャームポイントだ。
「そうそう。かわいいでしょ?新しいの、初めて使うの!」
「アヤちゃーん!」
アカネとアヤが他愛も無い会話をしていると、誰かがアヤに向かって叫んでいるのが聞こえた。二人が同時に振り向くと、アヤよりもさらに小さな女の子が、ナイロン製の包みを持って走ってくるのが見える。なんとなくデジャブを見るようで吹き出しそうになったアカネだったが、走ってくる少女の容姿を見るほど、顔が変わった。
身長は145cmくらいだろうか?黒々とした艶やかな髪が腰にかかるほど長く伸び、それでいながら癖毛が強く、あちこちで飛び跳ねながら自己主張をしている。そんな気弱そうな少女だ。一生懸命走ってきたのか、息を激しく切らしながら、追いついたアヤにナイロン製の包みを突き出す。
「アヤちゃん、お弁当を忘れてる!」
ツグミである。
「あ!ごめんごめん!」
アヤは申し訳無さそうな顔で頭を掻きながら笑顔で受けとった。そして、自分の横でアカネが妙な顔をしている事に気がつく。
「どうしたの?」
「あ、いや」
アカネに見られていることに気づいたツグミは、軽く会釈した。なんとなく、背が高いアカネが怖いらしい。
「えーっと、アヤさんのお姉さんでしたっけ?」
アカネがそうツグミに話しかけると、アヤが肘でアカネを突っつく。
「ツグミちゃん、だよ。ときどき会ってるじゃん。なんで今朝に限ってジロジロ見るの?」
そういえばそうかもしれない。アヤがお弁当を忘れることは今に始まったことではない。きっとその度に、この『ツグミちゃん』が走って届けていたはずだ。まったく忘れていたアカネは少し気まずさを感じながら、なんとか誤魔化す方法を考える。
「昨日、城南駅にいなかった?」
「え、あなたもあそこにいたんですか?大変でしたね」
ツグミはちょっとビックリしている。意外なところで同じ事件に出くわした仲間がいたものだ。
「え、ええ。アタシは全然、安全な場所にいたものですから、大丈夫でしたケドネ」
おそらく嘘にはなっていないはずだ。同じ危険地帯でも、戦う能力を持っている者の方が断然護身には有利なのだから。
何を思ったのかツグミはアカネの両手を握って、こんな事を、いたってマジメに語り始めた。
「死に囚われてはダメですよ。それが悪魔を呼ぶことになりますから。生き残った人は、死んでいった人達のためにも、心を明るくして、強く生きていかなければならないのです」
「は、はぁ」
こんなやり取りに背を向けていたアヤが道路の彼方を指さして叫ぶ。
「バス来たよー!」
アカネは救われたような気持ちで、着いたばかりのバスにそそくさと乗り込む。アヤはツグミと話していた。
「今日も塾だったよね」
「うん、学校から直接行くー。今日の時間割なら7時には帰れると思う」
そうしてバスに乗り込んだアヤは「あれ?バスがなんか違う」と不思議そうにキョロキョロした。アカネはアヤを自分の隣席へ手招きする。
「連絡聞いてなかったの?城南駅はめちゃくちゃだから、学校から直通のバスが出ているのよ」
学校へ向かうバスの中でも、サッカー部の朝練を横目で見ながら校門に入る時も、アカネが迷惑そうな顔で十何通目かのラブレターを下駄箱から取り出す時も、話題は自然とツグミのことばかりになった。そこでやっとアカネはツグミの身の上がわかってきたが、むしろもっと彼女のことが知りたくなってくる。
「記憶喪失か……アタシにも何かツグミちゃんのために協力できることはあるかしら?」
もう呼び方まで変わっている。
「お父さんが言うには、無理に思い出そうとしない方がいいんだって。なんというか、自分の心を守るために、過去の記憶を無意識に封印しちゃう人もいて、ツグミちゃんもそうなんじゃないかって。そういうのって、本人がその過去を受け入れられる準備ができたら、自然に思い出すとか」
「そっかぁ」
「今度家に遊びに来なよ!アカネちゃんなら、きっとツグミちゃんと仲良くなれるよ!」
「そうね」
アヤから家の住所と簡単な手書きの地図を受けとったアカネはうなずいた。郊外にある。近くまで行けばクリニックの看板が目印になるはずだ。
正午のチャイムが鳴った。教室の生徒達は、思い思いに自分達の机同士をつなげ、昼食の弁当を開いている。
「これ、すごくおいしいわ。ツグミちゃん、いいお嫁さんになるわね」
「お嫁になんか、あげないもん」
アカネとアヤがおかずを交換しながら仲良く弁当をつついていると、突如教室の扉が勢いよく開け放たれた。アカネは思わず「ゲッ」と辟易した表情になる。そこには中背ではあるが、胸も、肩も、首も、おまけに顔もでかい筋肉質な男性が、小麦色にやけた顔に満面の笑みを浮かべて立っていた。
「押忍!!久しぶりだね、アカネ君!」
「寺田先生……こっちの学校に来てたんですか?」
「まさか君と再びこうしてめぐりあえるとはな!やはり運命というものを感じるしかない!」
(相変わらず暑苦しい……)
体育教師の寺田である。アカネ達の高校では空手部の顧問でもある。アカネが中学校時代に空手をしていたのは前述の通りだが、その中学校で出張顧問として空手部を指導していたのがこの寺田だ。アカネの才能に惚れ抜いていた寺田が、2年生になってから急に空手をやめてしまったアカネを、毎日のように口説いていた伝説は、OBの中で知らない者はいない。
「アタシ、もう空手はやりませんよ」
ズカズカとこちらに歩み寄ってくる寺田に、アカネが先制口撃をしかける。
「ちょっと待ってくれ。僕はまだ空手部の勧誘をしていないじゃないか」
「あ、うーん、まぁ、たしかに……」
「今からやる。アカネ君!空手部に入らないか!?」
「あーん、もう!!」
これからまた三年間毎日、寺田による空手部への勧誘が始まるのか?そう考えたら、アカネは頭を抱えるほかない。
「まあ待て、話を聞いてくれ」
寺田がアカネに手を向けて制する。
「まさか僕だって、中学の時みたいな馬鹿の一つ覚えをしようなんて思っちゃいない。そこで僕なりに考えた。なぜアカネ君が空手への情熱を失ってしまったのか?それは……」
「それは?」
寺田がビシッとアカネを指さす。
「ライバルがいないからだ!!」
「な、なんですって!?」
完全に見当ハズレである。だが寺田はかまわず続ける。
「前の中学では君と肩をならべられるような実力の部員は一人もいなかった。そんな中で空手へのモチベーションを維持しろという方が、どだい無理なのだ!しかし、我が城南高校空手部は違う!この層の厚みは、まさに高校空手界のバームクーヘン!」
「バームクーヘンっておいしいよね!」
見当違いな発言をするアヤを横目に、アカネは不機嫌な顔を容赦なく寺田に向ける。
「話が見えてこないのですが?」
「つまり、一度うちの部員と手合わせしてみてほしい。そうすれば、君のくすぶるハートに、再び炎が燃え上がるはずだ!」
アカネにとって迷惑千万極まりない提案だった。しかし、ふと思いついた事を言ってみた。
「……じゃあ、もしアタシが空手部で一番強~い先輩から一本を取れたら、どうします?」
「そうなると、つまり君を満足させられる強者はいないというわけだな!もしそうなら、空手部への勧誘など、夢のまた夢」
「ほ~う?」
「アカネちゃん、なんだか目が怖いよ」
「じゃあ約束してくれますね。アタシが勝ったら、空手部へ勧誘するのは諦める、って」
「わかった!約束しよう」
それだけ言って寺田はやっと教室から出て行く。
「空手部の稽古は放課後の4時からだ!楽しみに待っているぞ。ハーッハッハッハ!」
そんな寺田の高笑いが、廊下にいつまでもこだました。
「アカネちゃん、大丈夫?あの先生すごく自信がありそうだったよ?」
「やるしかないわよ。三年間あいつにつきまとわれるなんてごめんだわ」
「よっぽど空手をやりたくないんだねー。なんで?」
もっともな質問である。アカネは少し考え、窓の外を見ながらつぶやく。
「アタシって、野生の熊みたいでしょ」
「へーえ?」
アカネのよくわからない返答に、アヤもまたよくわからないリアクションを返した。
「なんなのよ……コレ」
高校の武道場は、約束の午後4時をむかえる30分も前には、既に人だかりで入り口が埋め尽くされていた。
「あの先生、声が大きかったもんねー」
既に体操服のジャージに着替えたアカネに、一緒についてきたアヤがささやく。そんなアヤまでなぜかジャージに着替えていた。
尾ひれはひれの付いた最強伝説をもったアカネが、ついに城南高校空手部に殴りこみをかける!そんなビッグマッチを、娯楽に飢えた高校男児達が見逃すはずがなかった。アカネのクラスの一人が二人に話し、二人が四人に話し、四人が無数に話しを広げれば、こうもなろう。中には脚立まで持ち出して、窓の外から覗いている輩さえいる。
「来たぞー!アカネさんだー!」
入り口にいた男子の一人がアカネを見つけ、そう叫んだ。アカネが無言で武道場の入り口に歩いて行くと、モーセが渡った時の紅海のように、男子生徒の波が左右に割れる。
(昨日といい、今日といい、どいつもこいつも野次馬根性が強すぎるわ)
「正面に、礼!!お互いに、礼!!」
空手部の面々は顧問の寺田の号令に合わせて座礼をした後、二人組にわかれて柔軟体操を始めていた。寺田はアカネの姿を認めると、笑顔で彼女を迎え入れた。
「ようこそ空手部へ!よく来てくれたねアカネ君!みんなにも紹介しよう、鷲田アカネ君だ!99年の姫路大会決勝で見せた胴回し回転蹴りは、君たちにもビデオで何回も見せたように……」
「いいから、早く始めませんか?アタシとやるのは一体誰です?男子ですか?」
入り口で男子達がどよめきを上げる。通常女子と男子は、腕力の差がありすぎるため試合をしない。もしも男子が相手なら、とんでもないジャイアントキリングが見られるかもしれないと沸き立つ。
「いいや、女子だ。君が試合をする相手は向こうにいる。アカネ君もよく柔軟をしておきたまえ」
寺田の指さす先で、空手部でも数が少ない女子部員のうち二人が、互いに協力して柔軟体操をしていた。体が小さい方の女子部員がアカネに会釈する。
「手伝おうか?」
アヤがそう聞いたがアカネは首を横に振った。
「いえ、いいわ」
アカネは靴下を脱いで素足になり、板敷きに座って柔軟運動を繰り返す。アカネの胸が床に付きそうになるほど足が曲がる度に感嘆の声が外野からあがったが、アカネの意識はもう対戦相手であろう女子部員に集中していた。お互いに座っているためわかりにくいが、身長は自分と同じく170cm前後ありそうである。しかし、恰幅はまるで違った。胸も、肩も、首も、そして顔も大きかった。そして道着の名札には『寺田』と書かれている。アカネは大いに納得した。彼女なら自分と良い勝負ができると考えて当然だろう。
「先生の娘さんですか?」
練習試合用の防具類を持ってきた顧問の寺田にアカネが尋ねた。
「ああ!僕によく似ているだろう!その上、美人だ!」
「そうですね」
アカネは前半部分だけを素早く肯定した。
「しかし君の相手は私の娘ではない」
えっ?とアカネが驚いていると、寺田娘と一緒に柔軟体操をしていた、体の小さな女子部員がとことこ歩いてきた。
「3年の神埼です。よろしくお願いします」
アカネは、爽やかに挨拶をしてきた神埼と名乗る少女をよく見た。黒帯こそ巻いているが、体の線は細く、身長も150cmに届かないように見えた。彼女の姿は、どこか今朝見たツグミを連想させる。
「やめましょう!体重が違い過ぎます!」
アカネは思わず寺田にそう叫んだ。しかし寺田はアカネを睨んで言った。
「アカネ君。君はもしも組手の相手が私の娘だったら、体重差を理由にして断ったのかね?」
「あっ……」
顧問寺田の言葉は正鵠を得ていた。アカネは改めて神埼に向かい合い、十字を切って頭を下げた。
「たいへん失礼な真似をしました。鷲田です。よろしくお願いします」
拳足のサポーターと面ガードを付けたアカネと神崎が、道場の中心で向かい合った。二人が付けているこれらの防具は、それぞれ、手と足に付ける空手用ボクシンググローブのようなものと、透明なヘルメットを想像すればいい。胴体の防具は、神埼とアカネ双方の希望により付けないことになった。
「なんだよ~これって勝負になるのか~?」
観客となっている男性生徒らが、そんな野次をとばしている。無理もない。アカネと神崎が対峙している様子は、まるで大人と子供の勝負に見える。ビッグマッチを予想して集まった彼らの目に、物足りなく映るのも無理はないだろう。そんな彼らも空手部顧問の寺田が睨むとさすがに黙ったが、しかし当の寺田は口角を歪ませている。
(まぁ、見ているといい。神埼の実力を)
審判となるのは当然、顧問の寺田だ。アカネ達二人に礼をさせると、道場の中央に立って激をとばした。
「始めぃ!!」
号令と共に、アカネは体を斜めに開き、半身に構えた。仮に、いくら空手の実力があるからといって、寺田が何も企まずに、小柄な神埼を自分にぶつけるとは思えなかった。何か裏があるに違いない。もしそうなら、考えられるとしたら反則技だ。面ガードの上から目突きを狙ってくるとは思えなかったので、あり得るとしたら金的蹴り。それをさばけるようにあえて横向きの姿勢に構えたのである。しかし、神埼の動きはアカネの想像を超えたものだった。
「えっ?」
神埼の姿が消えた。と同時に突然眼の前に拳が現れる。激しい衝撃と面ガードを覆うポリカーボネートが軋む音を感じながら、アカネは床の冷たさを背中に味わった。
「一本!」
審判の寺田が高らかに宣言する。野次馬の生徒達がどよめく。
「マジかよ。あの神崎って先輩、アカネさんを簡単に倒しちゃったよ」
「度胸あるよな。始まってすぐ低くなって飛び込んでいって」
「速すぎだろ!時間でも止めているんじゃあないか!?」
もともとこの野次馬達は、アカネが空手部の強豪を打ち倒す姿を期待した集まった連中だ。しかし今や、逆に小柄な神埼がアカネを打ち倒す番狂わせを期待している。顧問の寺田は満足そうだった。
「アカネ君、まだやれるかね?」
「あたり前でしょ!」
アカネは尻もちをついたまま面ガードのズレを直しつつ叫ぶ。すると神埼が近づいてきてアカネに手を差し伸べた。
「大丈夫?」
「あ、ええ、はい」
神埼はアカネを助け起しながら、小声で「集中して」と励ました。そんな様子に、何人かの生徒は拍手さえ送っている。
「神埼!組手の相手に情けは無用だ!」
「はい!すみません!押忍!」
寺田に叱られながら神埼は再び開始位置に立つ。アカネは考えを改めた。
(戦略とか、策略じゃない。あの神崎先輩は、本当に強いから、寺田がアタシの相手に選んだんだ)
そうであれば、中途半端なやり方をしては不覚を取るのは必至だ。
「始めぃ!!」
再び神埼は低い姿勢をたもってアカネの懐へ飛び込んでいった。アカネは膝蹴りで迎撃する。
(硬い!)
よく腹筋が鍛えられている。こういうタイプはえてして打たれ弱いものだが、神埼はひるまずアカネのボディを拳で突く。至近距離での拳による応酬になったが、アカネのようにリーチが長いタイプは、神埼と比べればインファイトには不向きだった。
(それなら……!)
アカネはバックステップで距離をとることに決めた。が、その瞬間に天地がひっくり返った。
(えっ!?)
気づけばアカネはまたしても床に叩きつけられていた。投げられた!そう気づいたのは一瞬遅れてからだ。見上げると、神崎がアカネの片腕の関節を極めてこちらを見下ろしている。
「せあっ!」
神埼がアカネの面ガードに、寸止めの突きを決めた。観衆は歓声を上げて神埼をたたえる。やられた!アカネは、空手の試合なのだから相手が投げや関節技を使ってくるわけがないと思いこんでいた。戦士として、そういった士道不覚悟は、まったく恥じ入るしかない。これで二本をとられてしまったかと思いきや、意外にも審判の寺田は神埼を叱った。
「神埼君!我が会では、そういった技は認められていない!」
「はい!つい、その、すみませんでした!」
いいえ、私の不徳です。とはアカネは言えない。三年間の平穏な学校生活がかかっているのだ。それにしても、と思う。神埼の戦い方は、アカネが知っている空手のそれとはかなり異なる事に今さら気づいた。投げや関節技などは、空手の片手間に習得できるほど甘い技術ではない。突き方も空手の正拳突きとは違い、手の甲を横に向けた縦拳突きだった。低い姿勢で飛び込むダッシュも、そのままアカネの足をすくえばタックルに早変わりするだろう。伝統的な武道のようであり、それでいながら最近流行りの総合格闘技のようでもあった。
「始めぃ!!」
「神埼せんぱーい!がんばれー!」
「いける!倒せるよー!」
三本目の手合わせが始まった時には、観客達はほぼ全員神埼の味方になっていた。本当なら、アカネは神埼から一本だけしかとられていない。だが、観客も、そしてアカネ自身も、神埼から二度不覚をとり、もう後が無いような気分になっていた。
アカネの戦い方が変わった。開始早々にバックステップで距離をとり、長い手足で神埼を寄せ付けないスタイルをとったのだ。この作戦は、試合に勝つという意味では大成功だった。アカネの長い手足が突き刺さるたびに、神埼は確実に弱っていった。時々は神埼の回し蹴りもアカネに当たるが、アカネにはダメージがまるで入っていない。観客のテンションがどんどん下がっていく。彼らはライオンがウサギを痛めつける光景を見たくて集まったわけではない。そして何より、苦しそうにあえぎながらも諦めないで闘争を続ける神埼を見て、アカネ自身が悲しくなってきた。
特に打撃系格闘技においては、小兵がそのハンデをくつがえすのは難しい。神埼の鋭い技のキレといい、鍛え上げられた腹筋といい、肉体のハンデを補うために何年も人一倍激しく自分を鍛え続けてきたのは手に取るようにわかることだ。もしも中学1年までのアカネであれば、そんな相手を打ち倒せるのは喜び以外の何物でもなかっただろう。しかし、今は違う。ここにいる誰一人知らないことだが、鷲田アカネは閃光少女グレンバーンなのだ。
無論、試合中に魔法を使っているつもりはまったく無い。それでも、肉体は魔法に耐えられる器として強化されているし、無意識に能力を使っていないとも限らない。閃光少女としての度重なる戦闘経験は、身長や体重の差よりも、致命的な才能の差を生み出しているに違いない。
(フェアではない)
アカネの足刀蹴りを受けて、神埼の体がくの字に曲がる。もう何度目かの光景。
「TKOだろ、TKO!誰かタオルを投げろよ!」
そんな野次も飛んでくるが、アカネも神埼に諦めてほしかった。しかしその時、神埼の目に光が宿る。
(ダメよ……)
アカネは首を横に振る。この試合で4度目となる高速ダッシュで神埼はインファイトに持ち込もうとした。しかし、スタミナの大半を失っていた彼女のソレは、姿勢が今までよりずっと高くなってしまっている。
(ダメなのに……!)
渾身の突きを放つ。しかし、神埼の目に映っていたアカネの上半身が消えた瞬間、前方に宙返りするアカネの踵が神埼の頭上に落ちる。カウンターで決まったアカネの胴回し回転蹴りが神埼の面ガードに深々と突き刺さり、彼女の頭ごと床に叩きつけた。
「一本!」
寺田は高らかにそう宣言したが、動かなくなった神埼がさすがに心配になって彼女の様態を確認した。
「失神しているな。おい、面ガード外せ」
寺田娘が神埼の面ガードを外して戦慄している。
「わ、割れてる……!」
厚いポリカーボネート板を破壊するのはただ事ではない。
「一年!長机を持って来い!神埼を乗せて保健室に運ぶんだ。氷も持って来い!」
そう指示を飛ばしてから寺田は、面ガードを外している最中のアカネに歩みよる。
「いやぁ、近年稀に見る良い試合だった!残念ながら君を満足させることはできなかったようだな!君の勧誘は約束通り諦めよう。しかし、どうかな?この試合を通して、君のくすぶるハートに再び炎が燃え上がったのならば、我々空手部はいつだって君を……」
「いいえ」
アカネは冷たくそう言い放ちながら面ガードを寺田に押し付け。脱いでいた靴下を拾って武道場の出口へ向かった。そこにかたまっていた観衆達は、むしろ逃げるようにアカネが通るスペースをつくる。
「アカネちゃん!」
心配そうな顔をしたアヤがアカネを追いかける。アカネは振り返りもせず靴を履いているところだ。
「ごめん、アヤちゃん。今日はアタシ、一人で帰るわ。一人にさせてほしいの……」
「アヤちゃん……」
アカネはただまっすぐ前だけを見つめて武道館を後にした。
(もう、アタシは人間ではない)
夕焼け色に染まる彼女の背中に集められた視線は、ただひたすらに冷たく感じられた。