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石坂ユリにさようなら

 その日の夕方。

 コウジはアヤとユリを乗せた車を運転し、石坂カコ宅に帰るところであった。うんと遊んで疲れたのか、助手席のアヤは居眠りしている。


「ユリちゃん、今日は楽しかったかい?」

「ええ、とっても!」


 コウジが後部座席に座っているユリにそう呼びかけると、まだまだ元気そうな彼女の返事が帰ってきた。


「それは良かった」

「ねえ、おじちゃん」


 ユリのコウジに対する呼び方も、少し砕けたものに変わっている。


「また、ノアさんの話を聞いていい?」

「ああ、いいとも」


 コウジは前を向いたままそう返事をした。ユリの父と、コウジの妻であるノアは従妹の関係にあたる。ユリがノアに興味を持つのは当然だと、コウジは解釈していた。


「何が聞きたいんだい?」

「最初に好きになったのはどっち?」

「あはは、思い切った質問をするね」


 そういえば、アヤはそんな質問をしないが、この年頃の少女が恋愛に興味を持つのは自然だなとコウジは思い、まじめに答えることにする。


「ノアの方から言い寄られて……と言いたいところだが、アタックしたのは僕からだったよ。優しい人だったけれど、どこか他人と距離を取りたがるところがあってね。僕に対しても最初はそうだったが、そのうち受け入れてくれるようになったのさ」

(……やっぱり、ノアさんは魔法少女だったから、自分の事を隠そうとしてたんだ)


 そう確信したユリが、さらに踏み込んだ質問をする。


「ノアさんとキスしたんでしょ?」

「そりゃ、まあ……だからアヤが隣にいる」


 質問の内容に少し動揺したコウジが、ある意味間違っていない答えを口にした。コウジはアヤに助けてほしそうな素振りを見せるが、相変わらず彼女は夢の中だ。


「コウジさんからしたの?」

「僕からというか、なんというか……そういうのはお互いの同意の上でやることだから……」

「じゃあ、もしも私がおじちゃんにキスを迫ったら……」


 コウジがルームミラーを見上げると、後部座席のユリと目が合った。夕焼けの光の加減だろうか。その目の奥に怪しい光を見た気がするコウジが言葉を詰まらせる。


「断るんだよね?ノアさんのために……」

「その、ユリちゃん」


 コウジはなるべく、優しい声のトーンを心がけてユリに答えた。


「大人をからかったりしたらいけないよ」

「……そうですね、ごめんなさい」

「いや、かまわないさ」


 沈黙したユリを気遣って、コウジが言葉を付け加える。


「ユリちゃんにも、きっといいボーイフレンドがそのうち見つかるよ」

「うん?」

「ああ、アヤ」


 助手席でアヤが目覚め、寝ぼけまなこをゴシゴシと手でこすった。


「何の話をしてたの?」

「べつに、たいしたことじゃないさ」


 コウジが再びルームミラーを見上げると、ユリは横を向いて景色を眺めていた。その目には、先ほど見た魔性は無い。


(気のせいだったのかな?)


 コウジはそれ以上深く考えず、やがて石坂カコ宅の庭へ車を停めた。


「おばあちゃーん!ただいまー!」


 アヤが玄関でそう叫ぶと、カコがニコニコとした顔で出迎える。


「ユリちゃん、車で家まで送ろうか?」


 そう言うコウジにユリが手を振る。


「いえ、いいですよ。私の家、すぐ近くだから」

「そうか」

「おじちゃんたち、明日には帰るんですよね?」

「ああ、お昼には出発するつもりだよ」


 アヤたち親子は、明日城南に帰るのだ。横で聞いていたアヤが不満顔をする。


「夏休みが終わるまで、ずっとここにいればいいのにー」

「そういうわけにもいかないよ。家の改装が終わったんだから、片付けにいかなくちゃ」


 カコもまた名残惜しそうな顔をする。


「さみしくなるわねぇ」


 ユリが笑顔で言った。


「それじゃあ、また明日!お父さんとアヤちゃんたちを見送りに来るからね!バイバーイ!」

「ユリちゃん、バイバーイ!」


 ユリは元気よく手を振りながら、自宅へと駆けていった。


 ユリの自宅は、石坂邸から歩いて数分の市営住宅だ。ユリは父親から、今日は仕事の書類整理のためにずっと家にいると聞いている。何も考えずにドアノブに手を伸ばしたユリの体が凍りついた。


 女の声が聞こえるのだ。きっと、例のおっぱいの大きな女にちがいないとユリが確信する。苦悶の声とも、笑い声とも、あるいは喜びの声ともつかない女の叫び。それを耳にした時、ユリの心は、父親に裏切られたという怒りでいっぱいになった。


 気がつくとユリは駆け出していた。何が目的で、どこを目指しているのかさえも、自分でわからない。最初は怒りを感じた。次に、悲しみを感じた。今は、どちらの感情なのか、それとも別の感情なのかもわからない。肺が焼けつくように熱くなり、とうとう木の影でユリが嘔吐する。少し冷静さを取り戻したユリが辺りを見回すと、そこは男子たちが時々虫取りに来ている山だと気がついた。


「……私、何してるんだろう?」


 ユリは自分を納得させようとした。自分の父親だって、男なのだ。まだ肉体的にも若いのだから、新しい恋人をつくりたいだろうし、それを否定する権利は自分にはないはずだ。ユリはそう理屈では考えてみるのだが、しかし、心の奥底ではそれを強く拒絶する自分がいるのだ。


「お母さん……」


 引き裂かれそうな心を胸に秘めたまま、ユリはあてもなく山中を徘徊する。


「…………?」


 やがてユリは洞穴を見つけた。北向きに空いた洞穴は夕焼けの光も射さず、底なしの闇だけをたたえている。


「ピー……カー……」

「!?」


 ユリが闇から聞こえてきた鳴き声に戦慄した。その声は紛れもなく、アヤたちを襲った悪魔のそれだ。


(まだ生きていた!?)


 しかし、やがてその声はユリ自身の声へと変わった。


『どうしたの?なんで泣いているの?』

「えっ……?」


 心の中へ直接語りかけてくるようなその声が、ユリの緊張をほぐす。


「あなた、言葉がわかるの?」

『おなかがすいた』

「……わかるのね?」

『食べる物がほしい』


 ユリが腰にさげた自分のカバンをまさぐる。中にはまだ一つだけ、猫缶が残っていた。


「いいよ。食べ物をあげる」

『本当に?』

「そのかわり……私の話を聞いてくれる?」


 ユリは猫缶の蓋を開けた。洞穴の中から()()が這い出して来た時、石坂ユリの人生は、永遠に変わることになる。


 翌日。

 今日はアヤたちが城南へと帰る日である。ユリとその父親が、糸井親子を見送りに現れた。石坂親子の様子は、川遊びに行った日と何一つ変わらないように見える。


「じゃあね、ユリちゃん!元気でね!」


 アヤは無邪気にユリに手を振った。


「アヤちゃんも、私のこと忘れないでね」

「もちろんだよ!私たち、もう親友じゃん!」

「うふふ、親友かぁ」


 そう口にするユリの目に怪しい光を見た気がしたアヤが、思わず尋ねる。


「……どうしたの?今日はちょっといつもと雰囲気がちがうよ?」

「こんな感じの私は嫌い?」

「まさか!嫌いだなんて、そんな……」


 ユリがそっとアヤを抱きしめたので、アヤが言葉を切る。ユリはアヤだけに聞こえるよう、小声で耳元にささやいた。


「今度は私の方から城南に行くからね。その時には、きっと私も魔法少女になっているから……」

「う……うん!うん!」


 やがてコウジとアヤは車に乗って出発した。アヤの手には、ユリからもらった酔い止めの薬が握られている。


「バイバーイ!みんな、元気でねー!」


 石坂カコと、ユリと、その父親の姿が見えなくなるまで、アヤは車から手を振り続けた。やがて父親と二人きりになったアヤにコウジが語りかける。


「楽しかったな、アヤ」

「うん!」

「来年もまた来ようかな?」

「それもいいけれど、今度はユリちゃんが城南に来るって言ってた!」

「そうか……その時は我が家で歓迎してあげなくちゃな」


 糸井親子は笑いながら、城南への帰り道を楽しんだ。しかし、ふとアヤが我に返る。


(ユリちゃん、魔法少女になるって言ってたけれど、何かアテがあるのかなぁ?)


 石坂カコ宅。

 アヤたちを見送った後に、家の電話が鳴った。受話器を持ち上げたカコが、帰ろうとしていたユリの父を引き留める。


「え、俺?」

「そう、あなたあての電話なのよ」

「もしもし?…………」


 やがて通話を終えたユリの父が、青い顔をして玄関から出てきた。


「どうしたの?誰からの電話だったの?」


 とユリが尋ねると、彼女の父親がボソボソと口を開く。


「病院からだ……その……俺の知り合いが……事故だとかで……」

「それって女の人?」

「う、うん……まあ、そうだが……どうしてそれを?」

「偶然だよ。だって、世界には男の人か、女の人しかいないんだから」

「そ、それもそうだな……」

「早く行ってあげたら?」


 ユリは感情の無い顔で父親にそう告げる。


「生きているうちに会ってあげなくちゃ、かわいそうだよ?」

「あ、ああ!悪いが、家で留守番を頼むぞ!」


 走り去る父親の背中を見送ったユリが、空を見上げながら一人つぶやいた。


「さあ、今度は私が約束を守らないと……待っててね、アヤちゃん」


 1998年の8月が終わろうとしている。誰にとっても、去年と代わり映えの無い夏だったのだ。ただ二人の少女を除いて。


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