宿題にさようなら
光陰矢のごとし、と言う。
それから幾日もたち、アヤの夏休みは、いつの間にか終わりが近づいていた。そんなある日の午後、アヤはちゃぶ台の上に広げられた問題集とにらめっこしていた。
「ほらほら、頑張って!アヤちゃん!」
すぐ横では、ユリがそうやってアヤを励ましている。
「夏休みの宿題が終わらないと、お父さんに遊びに連れて行ってもらえないよ?」
「う~、むむむ……」
アヤがやっているのは、今までずっとほったらかしにしていた夏休みの宿題であった。絵日記は捏造し(みんなもそうしたよね?)、自由研究はユリから、アサガオの観察日記を共同研究という事にさせてもらった。ただし、算数の問題集だけは自力で解く必要があった。ユリの方はというと、このしっかり者の少女は、毎晩少しずつ問題集を解き、今は自由の身である。
「ねえ、アヤちゃん?」
「うん?」
「魔法少女になっても、頭は良くならないの?」
「グサーッ!」
アヤが自分の心臓を手でおさえた。
「なにそれ?」
「今!ユリちゃんの言葉のナイフが!心臓に刺さった音!」
「それとも、頭が良くなってコレなのかなぁ?」
「グサ!グサ!グサーッ!」
ユリに言葉のナイフで滅多刺しにされて、アヤが気を失いかける。そんな彼女の背中をユリが何気なくポンと叩いた。
「まあ、大丈夫だよ!私が何でも教えて……」
「ぎゃっ!?」
「えっ、また今度は何?」
「いや、その……まだ背中の傷が治ってないから」
「背中の傷ですって?」
ユリが服の隙間からアヤの背中を覗いた。なんと、悪魔と戦った時、背中を引っ掻かれた傷がまた残っているではないか。
「どうして?アヤちゃん、回復魔法を使えたじゃない」
悪魔に重傷を負わされた母猫を回復魔法で救ってから、もうずいぶん日がたっている。自分の傷を放置している事を、ユリは奇妙に感じたのだ。
「背中だから、手が届かないの?」
「う~ん……というより、自分の体は回復できないみたいなの」
「そっか~、自分を回復させるのは違う魔法なのかなぁ?」
「そうなのかなぁ?私も、魔法についてはまだよくわからないから……」
そう口にするアヤの耳元に、ユリが小声で尋ねる。
「ねえ、アヤちゃんのお父さんにはバレてないよね?アヤちゃんが魔法少女だってこと」
「うん、それなら大丈夫。お父さんは何も気づいていないから」
人間に化ける事もある悪魔と戦う魔法少女は、基本的に正体は秘密にしておくものだ。そういう常識をアヤたちは知らなかったが、こういうのは秘密にするものだと、魔法少女アニメから無意識に学んでいる。
「だといいけれど……それにしても、ふふっ!自分は回復できないなんて、アヤちゃんらしいね」
「なにそれー?遠回しに私の事また頭悪いって言ってない?」
「ちがうちがう、そうじゃないよ」
ジト目で自分を見つめるアヤにユリが釈明した。
「なんというか、アヤちゃんって優しいんだなって思ったの。そういう、自分を後回しにしているところが、ね」
そんなやりとりをしつつも、夕方までにはなんとかアヤも夏休みの宿題を終わらせていた。無事に終了を見届けたコウジが、笑顔でうなずく。
「うん、よろしい!では約束通り、明日は川へ行ってバーベキューだ!」
「「わーい!」」
ユリがアヤを励ます時に言っていたのはこの事だ。夏休みの宿題をちゃんと終わらせたら、アヤとユリの二人を川遊びに連れて行ってあげるとコウジが約束していたのである。
翌朝、ユリは父親と一緒に石坂カコ宅を訪れた。ユリの父はついて行かないので、一人娘を預けるコウジに丁重に挨拶する。
「それでは、ご迷惑をおかけしますが、娘のことをよろしくお願いします」
「迷惑だなんて、とんでもない。ユリちゃんには、娘のアヤこそお世話になっていますからね。楽しんでくれるといいですが」
「きっと楽しいよ!」
と言ったのはユリだ。
「じゃあな、ユリ。気をつけて、楽しんでおいで」
「うん!」
ユリが笑顔で父にそう応え、家に帰るその背中に手を振った。
「さて、早速だが二人とも。車にバーベキューの用意を積むのを手伝ってくれ」
「あ~私、車酔いで頭がフラフラと……」
「まだ一秒だって車に乗っていないじゃないか!」
そう言ってコウジがアヤの頭をペシッと叩くと、ユリがクスクスと笑う。
「それじゃあ、気をつけるのよ!」
やがてアヤの祖母である石坂カコに見送られ、コウジたち三人は車で川へと向かった。
一方、その頃。
いつもアヤたちと遊んでいる男子三人が、またしても山中の洞穴の前に集まっていた。性懲りもなく、またしてもカブトムシを洞穴の前に捧げる。しかし、今日は何の反応もなかった。
「あれ?」
首を傾げたシンジが、かわりにクワガタムシを置いてみる。しかし、やはり反応が無い。好みの問題ではないらしい。
「どうしたんだろう?」
「中に居た奴……どっか行っちゃったのかな?」
少年たちが、恐る恐る洞穴へ入ろうとする。その背中に向かって怒号が飛んだ。
「こらああああっ!!」
「「「うわああっ!?」」」
少年たちが慌てふためく。彼らが振り向いた先にいたのは、近所で有名なイジワル爺さんだった。老爺は釣り竿を振り回し、少年たちに怒鳴り散らす。
「ガキどもが!!こんなところをウロチョロするんじゃあない!!」
「わーっ!逃げろーっ!!」
わけもわからず、少年たちが蜘蛛の子を散らすように退散する。一人になったイジワル爺さんは、満足そうに鼻息を鳴らした。
「やれやれ、ワシだけが知っている絶好の釣り場をあいつらに見られたらどうしようかと思ったぞい。さ、早く鮎釣りを……」
「ピーカブー」
「あん?なんじゃ?」
何か奇妙な音を聞いた気がした老爺が辺りを見回す。もしや、と思って洞穴の入り口を凝視した老爺であったが、急に自分の腰から下に冷たい感触を覚えて飛び上がった。
「ひゃあっ!?」
見ると、肩からさげたオトリ缶(鮎釣りに使うオトリの鮎を入れる容器)に穴が空いていた。水が止めどなく溢れ、しかも中に居たはずの鮎の姿も無い。
「天狗じゃあ!!またしても天狗の仕業じゃあ!!」
すっかり取り乱した老爺は、ガニ股でヨタヨタと、その場から逃げて行った。洞穴から、満足そうな声が響く。
「ピー……カー……ブー…………」
余談だが、後にその老爺がいくら村の者にこの出来事を話しても、やはり誰も信じなかったそうだ。