暴君の時
中村ジュウタロウが見たという人間の手の正体はすぐにわかった。食堂から少し奥へ進んだところへ、老爺が一人、うつ伏せになって倒れているのである。
「た……たすけてくれえぇ……!!」
老人はそう言って氷川たちに手を伸ばす。
「どうなっとるんじゃ……わしの息子も……小泉さんの孫も……安倍さんの妹のサトさんも、みんな怪物になってしまった……!?喰われちまったんだよぉ、みんな……!?神も仏もおらんのか……わしを助けて……!!」
「さあ、私の手に掴まって……うっ」
手を差し伸べるジュウタロウの手が止まった。老人の腰から下が、無くなっていたからだ。
「助けて……助けて……!!」
「ええ、助けますとも」
そう言うと氷川は、先ほどとは違うオートマチックタイプの拳銃を取り出す。
「北島ミツコはどこにいますか?」
「二階の一番奥の部屋がミツコママの部屋じゃ……あんた、一緒に入ったじゃろうが……?」
「私が一緒に?……まあ、いいでしょう。どうも、ありがとう」
氷川は冷酷にも老人の眉間を拳銃で撃ち抜いた。即死である。当然、ジュウタロウは驚いた。
「なにをするんですか!?」
「もう助かりません。だから楽にしてあげたんです」
「でも、だからって……」
「中村さん、とにかく歩いてください。さあ、階段へ。二階へ行きましょう」
「…………」
「納得できませんか?……そうですね。次からは、あの怪物と私、どちらに殺されたいか事前に聞いて手を下すことにしますよ」
ジュウタロウが振り返る。氷川に肩を貸しているジュウタロウにさえ追いつけない重甲蜂怪人である。だが、氷川が殺した老人を掴み、頭蓋骨ごとむさぼり噛み砕くその姿を見ると、追い詰められたら命が無いことを意識せずにはいられなかった。
「しばらくは、ああしてエサに夢中でしょう。良い時間稼ぎになりました」
「私にはそうしないんですか?」
「何ですって?」
「いや、その……私を殺そうとしないのはなぜですか?口封じとか、時間稼ぎとか……それに、氷川さんの怪我は、私をかばったせいでしょう?」
「質問ばかりですねぇ、中村さんは。死なせたくないから死なせない。それだけですよ」
「だから、その理由を知りたいんです」
「いちいち説明できませんよ!そんなこと!」
氷川が怒鳴った。
「野良猫にエサをやり、ゴキブリを踏み潰す!人間はそうして、自分の好きな命を選別しているんです!そんな簡単な事に理由を求めだしたら、頭がおかしくなっちゃいますよ!」
そこまで言い切って、氷川は急に不安になった。なぜそう感じたのか、氷川には理由がわからない。
(……どうしてでしょうね?もしかして、私は中村さんに嫌われたくないと思っているのでしょうか?)
もちろん、中村ジュウタロウに対して恋愛感情などはない。そんなものは、どう自分の心を分析しても、微塵もないことだ。
「氷川さんは、人間より強いのに、人間と同じことをしているんですね」
そう言われた氷川は、ひどく自分が小さい人間のように思えた。
(よくわかりませんね。私は中村さんに褒められたかったのでしょうか?)
そんな氷川の心中を知ってか知らずか、ジュウタロウが話題を変える。
「ねえ、氷川さん。もう一つだけ教えてもらえませんか?」
「……なんですか?」
「あなたの上司、たしかオウゴンサンデーと言いましたね」
「そうですが?」
「あの、もしかして……」
ジュウタロウが氷川の耳元にささやいた。
「まさか、田中警部補がオウゴンサンデーなんですか?」
「へ?」
「いや、その……どう見ても中年のオッサンにしか見えませんが、実は魔法少女に変身したりするんですか?」
「ぶわっはっはっは!!」
氷川が吹き出した。
「お、落ち着いてください。階段から足を踏み外しそうです」
「な、中村さん、マジで言ってるんですか!?ひひひっ!笑わせないでくださいよ!背中が痛いんですよー!あはは!」
階段を登り、奥の部屋に到達した時、重甲蜂怪人はまだ階段を登っている途中であった。ジュウタロウがドアを閉めた時、重甲蜂怪人と目(?)があった気がして、ゾッと身震いする。
「中村さん、何をするつもりですか?」
「いや、とにかくあいつを止めるバリケードを……」
「ああ、気がききますねぇ」
ジュウタロウは息を切らしながら、ミツコの部屋にある本棚を、ドアの前に動かした。ミツコ本人は、その部屋にはいなかった。おそらくは、もうここから脱出したのだろう。しかし、ミツコ自身が人間ホイホイから脱出する秘密が隠されているとしたら、この部屋に違いないと氷川は思った。
(『鏡の国のアリス』……?)
ジュウタロウの足元に、そんなタイトルの本が一冊落ちている。その時、ドン!と強い衝撃がドアに加わり、ジュウタロウは二、三歩後ろによろめいた。ジュウタロウは部屋を見回し、とにかく重りになりそうな家具をドアの前に重ねていく。
「あ、あれ?」
ジュウタロウが壁にかかった姿見に手をかけながら首をひねった。
「これ、外れませんね?」
「中村さん、もうけっこうですよ」
そう言って、ミツコのベッドに腰掛けていた氷川が立ち上がった。右肩から背中にかけて、骨まで見えていたはずの氷川の肉の裂け目が埋まっている。再生魔法だ。とはいえ、治せるのは肉体だけである。ちょうどジュウタロウの目前にある姿見で自分を見た氷川はため息をついた。
「あーあ、せっかくのスーツが台無しですねぇ。それじゃあ、もう一つのスーツに着替えましょうかねぇ……!」
氷川の右手に、黒い宝石のついた指輪が出現した。ジュウタロウにも、それが何かわかっている。魔法少女の印だ。
「変……身……」
そうつぶやいた氷川の体を黒い影が包んでいく。やがて彼女は、黒いニンジャ風ドレスの魔女、タソガレバウンサーへと姿を変えた。
「あの……すみません、つい変身を見てしまいましたが……」
ジュウタロウがバツの悪そうな顔をしていると、氷川あらためタソガレは笑いながら、ジュウタロウの肩をバシバシ叩いた。
「はははは!気にすることはありませんよ、中村さん!自分のペットに着替えを見られて、気に病む飼い主なんていませんからねぇ!」
「あ、はい。もう私、そういう扱いだったんですね……」
再びドアに強い衝撃が走る。重甲蜂怪人がバルケードを突破するのは時間の問題だろう。この部屋はどん詰まりである。よって、敵を倒してしまわなければジュウタロウたちの命は無い。
「そんなに心配そうな顔をしないでくださいよ、中村さん」
タソガレはドアに向かって、いつでも撃てるように自動小銃を構えた。
「これでも、殺しは犬の散歩より得意ですからねぇ……!」