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ペットの時

 老人ホームめぐみの玄関前に立ち、何度もチャイムを鳴らしていた中村ジュウタロウが振り返った。彼の背後には氷川が立っている。


「誰も返事をしませんなぁ」

「ですが、ここは老人ホームですからね。誰もいないなんて事は無いでしょう。まあ、ここで働いていた少女が誘拐されたのですからねぇ。色々と身代金とかの準備をして……」


 氷川が玄関のドアを開き、めぐみの内部をうかがう。各部屋へと続く廊下に人気は無く、暗く、静かだ。何事かを勘づいた氷川は、そっとドアを閉めた。


「うん、誰もいませんね!」

「えっ?」

「署に帰りましょう」

「帰りましょうって……」


 氷川の突然の変わりようにジュウタロウが困惑する。


「誰もいないなんて事は無いと言ったのは氷川さんじゃありませんか」

「いないものはいません!誰もいなければ、聞きこみもできませんねぇ!」

「しかし、ここにいないとしたら、北島カエデの家族や入居者たちはどこに……?」


 その時、めぐみの内側から誰かがドアを開けた。その人物は、氷川にも見覚えがある顔であった。


「あ、中村さんじゃないですか」

「ああ、お疲れ様です。増田さん」


 ジュウタロウがそう応じた増田は刑事課所属の中年男性である。大柄なジュウタロウとは違い、身長は女性の氷川と同じくらいで、そのかわりとばかりに横幅の広い刑事であった。


「聞き込みですか?」


 と増田。


「ええ、はい。ですが、増田さん。みなさんはどちらに?入居者の方たちは?」

「ご家族の方が今朝から続々と来られましてね。みんな親類の家に一時避難していますよ」


 増田刑事はジュウタロウの質問にそう答えた。


「では、北島カエデのご家族は?」

「北島ミツコ……誘拐された北島カエデからすると叔母にあたる人物ですね。今はミツルギ銀行に身代金を下ろしに……ああ、そうだ!氷川さん」


 増田が沈黙している氷川に声をかけた。


「北島ミツコ氏が12時に銀行へ行ったきり戻ってきません。お手数ですが、パトカーで銀行まで見に行っていただけませんか」

「はい!お安いご用ですよ!」


 氷川がニッコリと笑う。


「それじゃあ中村さんも……」


 と氷川がジュウタロウの袖を引くより早く、増田がジュウタロウを手招きしていた。


「とにかくあがってください。今わかっている情報を共有しておきましょう」

「はい。それでは、お邪魔して……」


 ジュウタロウが玄関を上がり、増田に招かれるまま廊下を歩いていく。二人が食堂へ入るのを見届けた氷川は、無言でパトカーへと向かった。


 食堂には庭に面してガラス戸がある。そこから外を見ていた増田は、氷川が乗るミニパトカーが走り去るのを見届けてからジュウタロウに着席をうながした。


「さあ、どうぞ。立ち話もなんですから、ひとまず座ってください」

「…………」

「中村さん?」

「変ですなぁ」


 ジュウタロウが鼻をひくひくさせる。


「血の匂いがしますよ」

「…………」

「それに、吐しゃ物の匂いが……一月ひとつき前にあった連続殺人事件を思い出しますなぁ。現場にずっとこんな匂いが……どうも私は、この匂いが苦手で……」

「ははっ!刑事なのにそれだと大変ですね」


 増田は何事でもないようにそう笑った。


「ここは老人ホームですよ?そりゃ誰かが出した汚物の匂いがすることもあるでしょう」

「血の匂いもですか?」

「……野暮だなぁ、中村さんも」


 増田は困ったような顔をした。


「北島カエデは若い娘さんですからね。ほら、その……わかるでしょう?」

「ああ、生理用品の匂いですか?」


 増田が苦笑いすると、ジュウタロウは首を横に振った。


「違うでしょう」

「えっ?」

「私には年の離れた妹がいましてね。そういうのはナイロン袋で二重に密閉して捨てていましたよ。まあ、女の子なら気になってそうするでしょう」

「…………」

「もっとも、北島カエデ一人が変わっている可能性までは否定できないでしょうが」


 そう口にするやジュウタロウは隣の部屋へと続くドアに近づこうとした。


「中村さん、どちらへ?」

「増田さん。もしも私の見間違いでなければ……」


 ジュウタロウがわずかに開いたドアの隙間を指さす。


「あの隙間から見えているのは、人間の手じゃありませんか?」

「さ、さあ?この施設には我々二人しかいないはずですが……」

「おかしいなぁ……?」


 ジュウタロウが無防備にドアへ近づいていく。その後頭部を、拳銃を抜いた増田が狙っているなどとは、つゆ知らず。


 1発の銃声が響いた。


「あっ、えっ?」


 驚いたジュウタロウが振り返る。それ以上に驚いた顔をしていたのは増田の方だった。拳銃を握った彼の右手だけが、手首からちぎれて床に落ちている。油汗を流しながら、ぎこちない動きでガラス戸に振り向いた増田が見たのは、庭で自動小銃アサルトライフルを構えている氷川の姿であった。ガラス戸に、穴が一つあいている。


「どういうつもりですかねぇ……私の同僚に手を出すなんて……!」


 氷川は続けて3発、増田の胴体に銃弾を叩き込んだ。合計4発の弾丸が貫通し、ついにガラス戸の方も粉砕される。割れたガラスの上を土足で踏み越えながら、倒れた増田に近づいた氷川は、トドメとばかりに至近距離から頭に1発浴びせた。


 我にかえったジュウタロウが氷川に尋ねる。


「なにをするんですか、氷川さん?どうして増田さんを殺し……?」

「そうしないと中村さんが死んでいたからですよ」


 そう言っている間に、増田の体が泡となって消えていく。ここでようやく、ジュウタロウも増田の異常に気がついた。


「増田さん、溶けてしまいましたね」

「というより、増田刑事の偽物ですよ。本物は死んだと思ってください。ほら」


 氷川が増田の持っていた拳銃をジュウタロウに投げてよこした。多くの刑事にとっては何の変哲もない官給品のリボルバーだが、それさえ普段からジュウタロウが所持していないことは氷川も知っている。氷川の構える銃と比べるとまるで玩具のピストルにしか見えないが、それでも丸腰よりずっとマシだ。


「それにしても、なんですか氷川さん?その銃は?まるでゴルゴみたいじゃないですか」

「ふふっ、漫画で例えるのは中村さんらしいですね。アメリカ軍のМ4カービンですよ」

「どうしてそんな軍隊が持つような銃を……?」


 日本の特殊部隊SATが1996年の時点で存在することはジュウタロウも知ってはいるが、仮に氷川がその一員だったとしても、あまりに過剰な火力だ。さらに、ジュウタロウには知るよしもなかったが、そんな銃をいつでも使える状態で、ミニパトカーのトランクに積んでおくような事を警察官がするはずがない。氷川はジュウタロウに自分の正体を隠すのをあきらめることにした。


「いいですか?落ち着いて聞いてくださいね?」

「はい」

「私は魔法少女による世界征服を企むオウゴンサンデーの部下で、暗殺部隊のリーダーでもある、魔女のタソガレバウンサーです」


 ジュウタロウはあっけにとられて思わず拳銃を落とした。落ちた拳銃が足の甲にぶつかり、ジュウタロウが苦悶の表情を浮かべる。


「あ痛たたた……」

「もう、ほら。しっかりしてくださいよ、中村さん」

「えーっと、その……」


 落とした拳銃を再び氷川に差し出されたジュウタロウは、その乏しい表情でなんとか困った顔をつくる。


「それって、すごく秘密なんじゃないんですか?」

「ですので、黙っていてください」

「できるかなぁ……?こんなすごい秘密、今まで隠したことなんてありませんよ」

「でしょうねぇ」


 氷川はしばし考える。やがて名案とばかりに口にした。


「飼うか」

「はい?」

「上司のオウゴンサンデーに、中村さんを私のアジトで飼ってもいいか相談してみますよ。それなら口封じをしないで済みますからねぇ」

「はあ、私が氷川さんのペットにですか?」


 要するに外界との接触を断って秘密を守ろうという魂胆である。


「嫌ですか?ならばここで口封じを……」

「い、いやいや、死ぬほど嫌なんてことはありませんから」

「ならば結構ですねぇ」


 氷川が自分に向けた銃口を下ろしてくれたので、ジュウタロウはひとまず安心する。


(しかし、サナエに何て説明しようかな?兄さんはあなたと同じくらいの年齢の女の子のペットになりましたなんて、話が通じるかなぁ……?)


「中村さん?」

「あ、はい」

「私のこと、もしかして嫌いになりました?」

「ああ、いいえ。滅相もない」


 ジュウタロウは、嘘はつけない男である。


「少なくとも、氷川さんが味方のままだとわかったので、安心しましたよ」

「……まあ、今はそれでいいですよ」


 氷川は銃を構え直した。


「ひとまず、あなたにはここから脱出してもらいましょう。メグミノアーンバルとは、私が話をつけます」

「メグミノアーンバル?」

「質問はもういいから、ついてきてください」


 臨戦態勢のままスルスルと歩く氷川の後ろを、ジュウタロウがトボトボと追った。


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