禁断の言葉が響く時
田口ケンジ、13歳。城北地区下山村、市立下山西中学校に通っている中学生だ。
見た目はどこにでもいるごく普通の少年だが、彼にはある特技があった。
「ケンジー!サッカーしに行こうぜ!」
二階の自室にいたケンジは、その声に反応して外を見た。家に面する道路に二人の男子が立っている。
「うーん、僕はいいよ」
ケンジは決して学校の友達を嫌っているわけではないし、クラスメイトたちもまたケンジを嫌っているわけではない。ただ、彼は外で遊ぶよりも、漫画を描くことに熱中していた。実際、幼少から描き続けていた彼の漫画の腕は、すでにアマチュアの域を超えていた。本気で、将来は漫画家になろうと夢を見ていたのである。同級生はそんな彼のことを、たまに『先生』と呼んだ。彼らはケンジの作品の、最初のファンになったのだ。
「また先生が執筆中ですかー!?後で見せてくれよなー!」
「うん、またね」
ケンジは二階から、サッカーボールを持って走り去る友人二人に手を振る。
「あら?あなた、ずいぶん絵がお上手ですのね」
「えっ?」
放課後。近くの山で、たまたま風景をスケッチしていた時のことだった。草地に腰を下ろしてスケッチブックを開いていたケンジの後ろに、突如その少女は現れた。すらっとした、自分より背の高いその少女は、高校生だろうか?緑がかったストレートロングの髪が、木漏れ日に反射して輝いている。その顔に、優しい微笑みを浮かべながら。
「それに、これ」
スケッチブックの端に描かれていた、ドレス姿の少女を指さす。
「閃光少女のグレンバーンさんではありません?」
「あ、はい!えっと……お姉さん、知っているんですか?」
少女はケンジの両肩に手を置き、背後からスケッチブックに顔を近づける。自然、彼の顔とも近づき、ケンジはどぎまぎした。
「グレンバーンさん。炎をまとった拳足による空手技で悪魔を粉砕する閃光少女。かっこいいですわよねぇ。ワタクシも憧れますわ」
「で、ですよね!僕もそう思います」
ケンジもまたグレンバーンに憧れている少年の一人だった。別に彼だけが特別ではない。女児ばかりではなく、男子からも人気があったのがグレンバーンだ。さながら、少年がプロレスラーや、武器を持った兵士に憧れる気持ちに似ている。
「実は僕、たまたまグレンバーンが戦っているシーンを撮ることができたビデオを持っているんですよ!かっこいいですよね!僕、もう何回も巻き戻して見ちゃって!」
「あら、そういうビデオでしたら、ワタクシは何本も持ってましてよ?」
「お姉さんが!?」
ケンジが振り向くと、少女と自分がキスしそうな距離まで顔が近づいていたことに気づき、彼の心臓が早鐘を打つ。さらに少女はケンジの顔を撫で、耳元にそっとささやく。
「………………今のがワタクシの名前ですわ。ワタクシはグレンバーンさんの友人ですの。もしもあなたがワタクシの名前を誰にも話さなければ、ワタクシは明日、この時間、この場所で待っていますわ」
「は、はい!約束します!」
少年は恋を知った。それから毎日、放課後の決まった時間になると、彼は必ずその少女に会いに行った。少女はたしかにグレンバーンの友人らしい。閃光少女の秘密をこっそり教えたり、時にはビデオカメラを持ってきて、グレンバーンの動画をケンジと二人で見た。二人の逢瀬には、ただ一つだけルールがあった。少女の名前を誰にも言わないことだ。紙にすら書いてはいけない。ただその一つのルールさえ守れば、ケンジは彼女に会うことができた。
「僕はお姉さんのことが好きです!」
ケンジの告白を聞いた少女は、しばし沈黙する。真顔でしばらく見つめ合っていたが、やがて少女は輝くような笑顔を見せた。
「うれしい!ワタクシもケンジ君のことが好きですわ」
「お姉さん、どこに行くの?」
ケンジは少女に手をひかれ、どんどん山の奥へ入っていく。
「この山の奥には温泉がありますの。道が険しすぎて誰も利用していませんが、ワタクシは良い道を知っていますわ」
「温泉?お姉さんと一緒に入るの?」
「いけなかったかしら?」
「……」
ケンジは赤面してうつむく。しかし、歩みを止めることはない。
やがて二人は乳白色に濁った泉へ到着した。ときどき沸騰したような泡が水面に浮かんでくる様子は、たしかに温泉のようだ。ケンジは着ていた服を脱ぎ、おそるおそる温泉へと入っていく。そこに少女の姿は無かった。さすがにケンジの着替えを覗いたり、自分が服を脱ぐ姿を見せるつもりは無かったらしい。さすがにそれはそうだとケンジも納得するが、妙な期待をしてしまう自分の心を抑えられなかった。
「わっ!?」
誰かに後ろから抱きつかれて驚くケンジ。
「うふふ、びっくりさせちゃいましたわね」
裸のお姉さんの体が自分の背中に密着している。ケンジは興奮を隠せなかった。
「気持ちいいでしょ?」
「えっと、何が?」
「温泉よ」
「ああ、はい」
二人はしらばく体を重ねて乳白色の泉をただよっていたが、やがて少女はケンジの耳元にささやく。
「ケンジ君……ワタクシと一つになりませんこと?」
「えっ、お姉さんと一つ?それってどういう?」
「言葉通りの意味ですわ。ワタクシと一心同体になる。それはとても気持ちのいいことですわ。温泉よりも」
「でも、僕にはそんなこと……わかりません」
「ワタクシに全てをまかせてくださいまし。でも、ワタクシはケンジ君が好き。だから、あなたの合意無しにそんなことは致したくありません。だから返事を聞かせて……『はい』か『いいえ』か……」
「……はい」
その瞬間、ケンジの世界が変わった。少女との体の境界線が解けていき、自分がこの大地と一体化したような全能感を覚えた。体がどんどん柔らかくなって溶けていく。
「ワタクシとずっと一緒に生きましょうね。ケンジ君……」
田口ケンジの捜索願が出されたのは、それから3日後のことだった。
「あ、悪魔じゃあああっ!!ワシの孫は、山に住む悪魔に殺されたんじゃああっ!!」
ケンジの祖父、田口トモゾウが涙ながらに訴える。
「どうして警察はワシの言うことを信じてくれんのじゃあっ!?なぜあいつを野放しにするんじゃ!?この世の正義があてにならんのなら、一体ワシらは誰を頼ったらええんじゃあああっ!?うぅ……」
それから1年。田口ケンジの消息は、現在も未だ不明である。
城南地区自然公園の近くに一軒家がある。大きなその家は、とある不動産会社の社長が、冬の間ときどき別荘として利用するものだ。その家に一人で住んでいる社長の娘、神埼ヒカリは市立城南高校の3年生である。しかし、今日も学校を休んで病院に行っていた。珍しく診察が正午までに終わってしまい、遅めの昼食をとった彼女は、少し時間を持て余した。
和室に正座して本を読んでいたヒカリは、ふと窓から見えるガレージに目を移す。両親が不在なので、そこに駐車されるべき車は無い。そのかわり、そこにはサンドバッグが吊るされている。格闘技の稽古をするためだ。
(しかし、主治医からは止められていましたね……)
ヒカリは再び本に目を落とす。
ヒカリは城南高校空手部に所属していた。身長150cm、几帳面に揃えられたボブカットを乗せた童顔の彼女は、他校の多くの選手に誤った印象を与えた。つまり、弱そうに見える。が、強い。彼女は病欠が多いためキャプテンでこそなかったが、空手部の誰よりも速く、強かった。もっとも、最近は手痛い敗北を経験しているが。
午後4時を過ぎた。その時、玄関のチャイムが鳴る。
「はーい!」
そう返事をしたヒカリであったが、しかし奇妙に思った。
(今は5月。両親を訪ねてくる客などいないはずだし、空手部の人たちが来るにしても、部活が終わってから来るのだから午後5時は過ぎるはずです。誰でしょう?)
「今開けます」
内側からドアを開いたヒカリには、最初何が視界に入ったのかわからなかった。自分の目の高さにあるのが女性のバストであることにやっと気づくと、視線を上に向ける。その顔には見覚えがあった。
「あなたは1年の鷲田アカネさん」
「すみません、神埼先輩。突然お邪魔しちゃって。最近、病欠ばかりしていると聞いて、お見舞いに来たんです。ご迷惑でしたか?」
鷲田アカネ。同じ城南高校に通う1年生の女子だ。身長は170cmもあり、武勇伝には事欠かない。空手部顧問の寺田先生が、彼女を空手部へ勧誘するために自分と試合をさせたのは最近のことだ。結果、善戦はしたつもりだが、彼女の胴回し回転蹴りに敗れている。あれほど綺麗に負けるのは久しぶりだった。
そんなアカネが殊勝な態度でその大きな体を丸めている。なんだかその様子がいじらしく見えたヒカリは快く彼女を招じ入れることにした。
「迷惑だなんて、とんでもない。ちょうど時間を持て余していたところです。どうぞ中へ」
「それでは、すみません。お邪魔します」
アカネが神埼邸へ訪問しようと思っていたのは、ヒカリと試合をしてからすぐのことだった。しかし、最近の魔女騒ぎに翻弄され、すっかり時期が遅れてしまったのだ。
「すごい、大きいお屋敷ですね!」
「両親の別荘で、今は私が一人で住んでいます。贅沢ですけどね。父も母も仕事の都合で職場の近くから離れられないのですよ」
「どうして一人で?」
「病院が近いからです。城南の中央病院は設備がいい。だから、最近城西から引っ越してきました」
たしかに、ところどころの部屋に、まだ開封されていないダンボール箱が積まれていた。
和室にアカネを案内したヒカリは、彼女を上座に座らせる。さっきまで見ていた本を片付けようかと手にとるが、思いなおして、その本をアカネの方へ寄せた。
「お茶を淹れてきます。退屈でしたら、その本でも読んでいてください」
「そんな!悪いですよ、先輩!せめて手伝います!」
「ふふ、お茶を淹れるのに何のお手伝いですか?私はそこまで病弱ではありませんよ」
ヒカリは面白そうに笑いながら席を立った。
「ただし、緑茶しかないことには文句を言わせませんから」
「恐れ入ります……」
そう頭を下げて部屋から出ていくヒカリを見送ったアカネは、ヒカリに差し出された本のタイトルを読む。
『日本武道史』
内容は文字通り、日本の古代から現代までの武道の歴史をまとめた本のようだ。なんだかヒカリ先輩の勤勉な人柄がうかがえるようだ、とアカネは思った。
まもなく座卓を挟んでヒカリとアカネは茶を喫した。ヒカリはピシッと正座の姿勢を崩さない。アカネは、さすがにここで自室のように大あぐらをかくわけにはいかないので正座をしているが、少し足がしびれるのか、ときどきもぞもぞと動いた。
「テレビ、置いていないんですね。退屈しません?」
「私は本を読む方が好きですので」
最初はそんな他愛のない話をしていたが、自然に話題は以前やった試合のことになった。
「あの蹴りは強烈でしたね。あの胴回し回転蹴りはビデオで何度か拝見していましたが、見るのと自分で受けるのとでは大違いで」
「その節はいろいろと失礼しました。お体に差し障りが無ければよかったのですが……」
「たしかに強烈でしたが、まぁ空手をしているとよくあることです。別に後遺症はありませんよ。病院通いは前からの持病のようなものです」
「でも、あの時は納得できる勝負にならなかったというか……」
「はい?」
ヒカリは少し怪訝な顔をする。
「アカネさんが勝ったではありませんか」
「たしかに試合には勝ちました。でも、勝負には負けていたと思います。最初に油断して一本をもらい、投げられてからの突きで一本。私は最後に消極的な戦いをして一本を取り返しただけです」
「アカネさん」
ヒカリが自分の湯呑を座卓へ置いた。
アカネがヒカリの顔を見ると、そこから笑みが消えていた。怒っている、というのとはまた違う、真剣な顔がそこにある。
「アカネさんは私を侮辱するためにここに来たのですか?」
「い、いいえ、違います!すみません、言葉使いが悪かったのでしたら謝ります」
ヒカリは首を横にする。
「あなたと私は、お互いに自分の才を尽くして戦った。それなのに、あなたがその勝利に疑問を感じていては、私の立つ瀬がないではありませんか」
アカネは気まずそうにうつむいて、耳を傾ける。この場合、むしろ怒鳴られないことの方が辛い気がした。
「きっとあなたは、私より空手の才能があったことに負い目を感じているのでしょう?ですが、それは無用な同情というものです。才能がある者がその才能を存分に振るって戦うのは当然のことです。私は強くなりたいから空手をやっています。しかし、強くなりたいというのは、つまり今の自分が弱いと認めることでもあります。今に私は努力してあなたを超えたいと思っているのです。あなたもしっかりしてください」
「本当にすみません、アタシ……神崎先輩を、無自覚に見下していたんですね……」
座卓に重ねた両手に視線を落として顔も上げられないアカネはやっとそう言った。そんなアカネの両手を、そっと包むようにヒカリは手を乗せた。いつの間にか、ヒカリの顔に微笑みが戻っていた。
「きっと、あなたは私が空手をやめるかもしれないと心配してここに来たのでしょう?その心配はありませんから安心してください。それに、空手には無い投げ技を受けて、不覚をとったと思えるその根性は好きですよ」
アカネの顔が少し赤くなった。ヒカリが立ち上がる。
「戸棚にクッキーがあったのを思い出しました。持ってきますね」
「ところで、その空手には無い技について聞きたかったんです」
「ああ、あれですか」
クッキーをつまみながらヒカリが答える。
「以前習っていた古武道ですよ。投げや寝技、関節技もあって、油断するとクセで出てしまうのです」
「アタシはその技を使う魔法少女に助けられました」
「うん?」
話が変な方向へ行ったな、とヒカリは思った。
「その人は、低い姿勢で敵の懐に飛び込んでいって、すごい速さで縦拳突きを連打したんです。それで相手が逃げようとしたら、ちょうど先輩と同じように投げ倒して、腕を極めてから上からの突きを……」
「ちょ、ちょっと待って!」
ヒカリがアカネの話をさえぎる。
「話が見えてきません!もしかして、あなたはその魔法少女の正体が私だと思っているのですか!?それにその手……」
アカネの右手に、いつの間にか赤い宝石の指輪がはめられている。
「先輩、少し広い場所はありませんか?可燃物が置いていないような」
ヒカリと一緒にガレージへと入ったアカネは、空手の型で精神を集中させる。
「先輩、見ていてください。アタシの……変身!!」
アカネの体が炎に包まれてヒカリは驚愕した。さらに驚愕したのはアカネが閃光少女であったとわかったからだ。炎から現れたその戦士の名前をヒカリは当然知っている。
「グレン……バーン……!?」
「そうです。アタシは閃光少女のグレンバーンです。だから先輩も教えてください。先輩は蜘蛛の魔女と戦った暗闇姉妹、トコヤミサイレンスなのですよね?城西地区でも蝙蝠の魔女を倒したんですよね!?どうかアタシたちの助けになってほしいんです!」
その言葉を聞いたヒカリは心底申し訳ない顔をつくる。
「本当に、本当に申し訳ないのですが……私はアカネさんが思っているような魔法少女ではありませんよ……」
「えっ!?」
驚いたアカネは自然と変身が解けてしまった。
「でも、いくら変身していても戦い方まではごまかせないですよ!先輩以外にあんなすごい戦いができる人をアタシは知りません!」
「偶然でしょう……私が習っていた武術、澤山流拳法は、何も私一人だけが知っている格闘技ではないのです」
「そう……ですか」
「ごめんなさい、期待を裏切ってしまったみたいで……」
「そんな、先輩が悪いんじゃないですよ。アタシが一人、勝手に空回っただけのことです」
そうは言うものの、アカネは落胆を隠せなかった。きっと、尊敬の念を抱いた先輩が、暗闇姉妹であってほしいという願望が自分にあったからこうなったのだ。
「秘密を明かしてくれたお返し……というほどの事でもないのですが、私の話を聞いてくれますか?」
「あ、はい。もちろんです」
アカネに背を向けて、吊るされたサンドバッグを撫でながらヒカリがそう尋ねると、アカネはすぐに同意した。
「実は私は、あと数年くらいしか生きられないのです」
「うそっ!?」
あまりに衝撃の告白でアカネはそれ以上言葉が出ない。
「私も医者ではないので、くわしくは説明できないのですが。筋萎縮性なんとか……だとかで。だんだん筋肉が衰えていって、最後には体が動かなくなって死んでいく病気です。今のところ、発症を遅らせることはできても、治療はできないそうです」
「そ、そんな……」
残酷なことがあるだろうか?拳を交えたアカネは、彼女が強くなるためにどれだけ厳しい鍛錬を積み重ねてきたか手にとるようにわかっている。その成果が、このような神のいたずらのごとき病気でぶち壊されるのだ。理不尽というしかない。
「落ち着いてください、アカネさん。人はいつか死ぬものです。鍛錬の成果も例外ではありません」
「でも……でも、あと数年だなんて、早すぎます!どうして先輩は希望をもって生きられるんですか!?」
「絶望とは状況ではなく、心の状態でしかないからですよ」
そう言って振り向いたヒカリの顔は笑っていた。この世にこれほど眩しい笑顔があるのだろうかと、アカネは泣きたくなった。
「『死ぬときは例えドブの中でも前のめりに死にたい』という坂本龍馬の言葉がありますよね?」
「はい、有名ですよね」
「あれは嘘ですよ」
「へ?」
アカネは面食らう。
「坂本龍馬がそういう言葉を残したという記録はありません。でも、いい言葉でしょう?本当に坂本龍馬が言っていたとしても不思議とは思えない、いい言葉。この言葉が私の座右の銘なのですよ。例え最後はどうなっても、私は死ぬ瞬間が来るまで、この生命の意味を高めていきたい。強く生きたい」
しばらく沈黙していたアカネがやっと口を開いた。
「どうして、それをアタシに教えてくれたんです?」
「たぶん、あなたの人柄を尊敬したからですよ。いみじくもあなた自身がそう言ったように、戦い方に現れる人格はごまかせないものです。それに、なんだか私だけあなたの秘密を知っているのは不公平でしょう?あなたがフェアな戦いを望んでいるように、私だって、閃光のように生きた人間が他にもいたんだぞ、って憶えていてほしいと思ったのです。他ならぬ、あなたに。学校のみなさんには内緒ですよ?同情されるのは苦手ですからね」
「……わかりました」
アカネはヒカリに握手を求めた。
「アタシ、神埼先輩と出会えて良かったです。あなたの事を心から尊敬しています」
「ヒカリでいいですよ、アカネさん。私もグレンバーンと会えて光栄でした。閃光少女としてのあなたがどんな問題を抱えているかわかりませんが、正義は勝つと信じていますよ」
ヒカリは玄関までアカネを見送る。
「先ほどお貸しした本、『日本武道史』にも澤山流拳法が載っています。あなたが探している人のヒントになるかわかりませんが、読んでみてください」
「なにから何まで、本当にありがとうございました。いろいろあったけど、ヒカリ先輩のおかげで元気が出ました」
「元気になれるなら、いつだって遊びに来てください。待ってますから」
アカネが帰ったあと、ヒカリは空手着に着替えて、ガレージにあるサンドバッグの前で構えた。
「死ぬときは例えドブの中でも前のめりに、閃光のように」
まもなく鋭い気合がガレージに響いた。
「正義は勝つ、か……」
アカネは帰りのバスの中でそうつぶやきながら、手元の可愛らしいナイロン袋に目を落とした。食べきれなかったクッキーをヒカリ先輩が包んでくれたのだ。暗闇姉妹トコヤミサイレンスの正体を探る目的は果たせなかったが、アカネはすっかり満足していた。
(かなわないなぁ、ヒカリ先輩には。きっと、初めて拳を交えたあの日から、アタシはずっと、あの人が好きだったんだ)
アカネを乗せたバスが夕日の光に飲み込まれていった。きっと帰ったらツグミが夕食を用意してくれているはずだ。クッキーはツグミと一緒に食べようとアカネは思った。
城北地区、下山村。現在。
パソコンが設置されている書斎である。失踪した田口ケンジの祖父、田口トモゾウは、甥が操作するパソコンの画面を静かに見つめていた。
「見つかりましたよ、おじさん。このホームページで間違いないようですね」
トモゾウの甥はインターネットブラウザーに表示された画面をトモゾウに見せた。
「ああ、間違いない。これじゃろう……!」
孫を探し続けて焦燥しきっていたであろうトモゾウが、しかしその目に再び暗い炎をとりもどす。モニターにはこう表示されている。
一筆啓上、差し上げます。
あなたの力で晴らせない、だれかの怨みを晴らします。
あなたに代わって許せない、人でなしども消し去ります。
いかなる相手であろうとも、どこに隠れていようとも、仕掛けて追い詰め始末します。
天罰代行、暗闇姉妹 かしこ
そのホームページの名前は『天罰必中暗闇姉妹』である。トモゾウがその噂を偶然耳にし、甥にこうして調べてもらったのだが、はたして噂は本当であった。甥がトモゾウに問いかける。
「しかし、おじさん。これはどう考えても……」
「わかっておる。金銭次第で命を奪う。これはまさに悪魔の所業よ。だがなぁ……」
トモゾウは握りしめていた紙を甥に押し付ける。そこには失踪事件について、トモゾウが知る限りの情報が書き連ねてある。この情報をパソコンが使えない自分にかわって甥に打ち込んでもらうのだ。ただ最後に「この怨みをどうか晴らしてください」と付け加えて。
「神も仏もこの世にいない。この世の正義はあてにはならない。悪魔が微笑むこの時代、ならば仇は悪魔で討つ!例えその結果、わしは全てを失おうとも……!」
薄暗い整備工場の中で、一人の女性が『天罰必中暗闇姉妹』に書き込まれた新しいスレッドに目を通す。
「ふーん、なるほど。城北地区、下山村ねぇ」
彼女はハンガーにかけていた白衣に袖を通した。
「どうやら、我々が本格的に動き出す時期が来たようだ」