祝福の時
老人ホーム『恵』では、今日も朝からアカネが張り切って働いていた。
「あわわわっ!」
洗っていた食器がアカネの手から滑り落ちる。だが、皿が割れることはなかった。その様子を見ていたカエデが思わず笑う。
「ふふっ、良かったですねアカネさん。プラスチックのお皿で」
「もーっ!笑わないでよ、カエデ!」
二人は今日も、本当の姉妹のように仲良しであった。お昼休憩の時に、アカネはずっと気になっていたことをカエデに尋ねた。
「ねえ、ミツコさんはあなたにとって叔母さんなのよね?ご両親も近くに住んでいるの?」
「家族は事故で死にました」
「……ゴメン、悪いこと聞いちゃったわね」
「そんなことないですよ。アカネさんと同じってことです。もっとも、アタシの場合は、まだ赤ん坊でしたからね。その自動車事故の件は、叔母さんから聞いて知っているというだけです」
「それから叔母さん、つまり、ミツコさんと暮らしているのね」
「ええ」
カエデがうなずく。
「アタシにも姉がいたそうです。もしも生きていれば……アカネさんと似ていたかもしれませんね」
「前にも言ったけれど、あんたは妹のモミジにそっくりなのよ。不思議ね」
「それが人の縁というものよ、きっと」
「あっ、ミツコさん」
いつの間にか二人のそばに北島ミツコが座っていた。アカネに語り掛ける。
「人間は誰しも、余っている心と欠けている心があるものよ。そうね、ちょうどジグソーパズルのピースのようなものだわ」
「パズルのピース……ですか」
熱心に耳を傾けるアカネの隣で、カエデが無言でアカネを見つめる。ミツコは続けた。
「私はね……家族って、血のつながりが全てじゃないと思う。お互いに足りない心を補い合うことができる人たちが、つながりあって一つの絵画のように『家族』となる……うふふ、ジグソーパズルとは我ながら良い例えだったわね。自画自賛だけど」
「そういう考え方、素敵だと思います」
アカネはそう応えた。
「だからきっと、二人が出会ったのは運命だったのよ。カエデはこういう性格だから弱音を吐くことはないけれど……きっと、いるはずだった姉妹がいなくて寂しかったと思うわ。だから、アカネちゃん。これからも仲良くしてあげてね」
「あの、叔母さん。そういう言い方はなんだか……恥ずかしいです……」
「あら、いいじゃないべつに」
顔を赤くして小さく抗議するカエデであったが、ミツコは気にしなかった。
「そうだ!アカネちゃん、明日の夜は空いているかしら?」
「あっ、はい。バイトのシフトですか?」
「いいえ、違うの。お祭りがあるでしょ?」
「えっ?お祭り?」
近所の神社で夏祭りがあるそうだ。毎年恒例の行事なのだが、アカネは今まで気にしたことがなかった。
(夏祭り……子どもの頃に家族で行ったっけ……)
その頃は、両親も仲が良かった。妹のモミジも元気だった。なにより、アカネ自身が閃光少女ではなかった。悪魔から人間を守る戦士になって以来、殺伐とした生活は、そんな余裕をアカネから奪っていたらしい。
「カエデと行ってきたら?」
ミツコは気軽にそう言った。カエデが口を挟む。
「でもホームの仕事が……」
「一晩くらいは私がなんとかするわよ。あなたも、たまには息抜きが必要よ」
「……ありがとうございます」
「まあ、大袈裟なんだから」
頭を下げるカエデに、ミツコが笑った。アカネもミツコに頭を下げる。
「カエデちゃんの事……アタシ、幸せにしますから」
アカネのその言葉を聞いたミツコもカエデもキョトンとした。
「えーっと……一緒に夏祭りに行くだけよね?やーね、もう、アカネちゃんも大袈裟なんだから」
ミツコはそう言って無理に笑った。カエデは顔が真っ赤になっている。
「アカネさん……まさか他の人にもそういう事を言っているなら、気をつけた方がいいですよ」
「?」
アカネはカエデの忠告の意味がわからなかった。アカネとしては、ただ本心からカエデを幸せにしたいと伝えたまでである。
その夜。
アカネはすでに自分のアパートへ帰っていた。そして、老人たちが夕食後の歓談を楽しんでいた食堂は、今は誰もいない。皆、寝室で寝ているのだ。だが、そこへ一人の老婆が入ってきた。『恵』の入居者の一人、鈴木である。
(ブルーシート?)
鈴木が気になったのはまずその点だった。食堂にあった椅子とテーブルは端に寄せられ、床一面がブルーシートに覆われていた。鈴木は奇妙な胸騒ぎに慄きながらも、手に持った懐中電灯で食堂のあちこちを照らす。
「あの……ミツコママ?」
彼女は食堂の端にいた。常夜灯の明かりしかない暗い食堂で、椅子に座って待っていたのだ。この時間、ここに来るようにと伝えておいた鈴木がやってくるのを。鈴木はおずおずと尋ねる。
「ミツコママ……私に話って、何でしょうか?」
「鈴木さんに、お別れを言おうと思いまして」
「えっ、お別れ?」
「あなたの貯金……尽きたのですよ」
ミツコは鈴木に、彼女自身の預金通帳を差し出した。鈴木は懐中電灯の光を当てて明細を見つめる。月々に百万円以上引かれていった彼女の財産は、今月になってとうとう尽きたことが、わかった。鈴木の手がプルプルと震える。
「残念ね、鈴木さん。お金が払えないようじゃあ、もうここには置いてあげられないわ」
「ま、待ってください。ミツコママ……いえ、ミツコさま!」
普段とはまるで違う冷たい声のミツコに鈴木が懇願する。
「お、お金は必ず用意しますから……!」
「どうやって?」
「それは息子が……あっ!マスオ!」
鈴木はいつの間にかミツコのそばに立っていた、自分の息子の姿に叫ぶ。
「な、なんとかしておくれ!どうか!どうか働いてお金を……!」
「ハァン!それは無理よ、鈴木さん」
ミツコが鼻で笑う。
「忘れたの?……いいえ、そういえば私が忘れさせてあげたのよね。じゃあ、思い出させてあげるわ」
ミツコは椅子から立ち上がると、鈴木の頭を両手で挟んだ。封印されていた、彼女の記憶が徐々に蘇っていく。
「ああ……あああっ……!」
「あなたの息子さんなら、とっくに死んでしまったのよ?会社にこき使われて……精神を病んで……あなたに当たり散らしたあげくに、首を吊って死んだじゃない」
「やめて……お願い!やめてっ!」
「その息子さんが残したお金と、会社からの慰謝料、それに保険金……全てを捧げて、あなたは私から夢を買ったのよ。ええ、楽しい夢だったでしょう?でも、これでもうお終いなのよ」
「息子が……死んだ?じゃあ……あんたは誰なんじゃ……!?」
自分の息子と同じ姿をしたソレが笑ったように見えたのは一瞬だけだった。口が耳まで裂け、横向きに開く昆虫の顎のような、鋭い牙が大きく開く。
「ひいっ!?」
腰を抜かしながら後ずさる鈴木が誰かとぶつかった。振り向いた先にいたのは、他の入居者たちの家族……少なくとも鈴木がそうだと思っていた、偽物たちであった。さらに、その中にはもっとよく知った顔も見える。
「あんたは……私……!?」
鈴木の偽物もまた、昆虫の顎のような牙を開いた。
「ぎゃっ……!?…………!!………………」
悲鳴が出たのは一瞬だけであった。鈴木の体は蟲たちの餌として、鋭い顎で瞬く間に解体されていった。その惨劇を見つめていたミツコの顔にも返り血が跳ぶが、彼女は意に介する事もなく、固定電話の子機に手を伸ばす。
「もしもし……山田さん?夜分遅くに申し訳ありません。『恵』の北島ですが…………はい、一人空きができまして…………ご契約内容はよく読んでいただけましたか?…………はい、では契約成立ということで、お待ちしておりますよ」
次の養分を確保することができたミツコは、自分の獲物へ祝福の言葉をかけた。
「あなたにも……恵みがありますように」




