供養の時。生きる明日への観音経
リツのアパートのすぐ前に一台のタクシーが停まった。
それを呼んだのは京木ユウジロウである。髪型を完璧なオールバックへと整え、いつもの高級スーツに身を包んだ京木は、険しい顔をしたままタクシーの後部座席へと乗り込んだ。
「音無さんですね?」
タクシーの運転手がそう確認する。京木は『音無ユウジロウ』という名前でタクシー会社に電話をかけたのだ。
「お客さん、どちらまで?」
「行き先は……」
京木が白金屋敷の住所を告げる。
「あの大きな家があるところですか?」
「そうだ」
「へー!」
タクシーの運転手が驚いたとばかりに声をあげる。
「あの家って、ヤクザの大親分の自宅でしょう?もしや、お兄さんも組の人ですか?」
「無駄口はいいから、早く車を出せ」
「はい。これは失礼しました」
運転手は「音無さん、白金さん宅」と無線で連絡すると、車をそっと発進させた。
「まったく、これだから女は……」
ユウジロウは自分の女運の無さを嘆くように、そんな言葉を吐き捨てる。今回タクシーを運転するのも、奇しくも女性であった。
白金屋敷の前に、一台のタクシーが停まった。中から高級スーツに身を包んだ一人の男が降りてくる。タクシーの運転手は、その男からは金を受け取らなかった。玄関から出てきた渡辺シンゾウが、そういった事は万事、すでに手配済みだからだ。
「いらっしゃいまし!お連れの二人は、すでに中でくつろいでおりやす」
「そうですか」
「あっしが案内いたしやしょう」
そう言われた京木の仲間の一人、ジョーは、シンゾウに案内されて屋敷の中へと入っていった。
夜になっても暑いため、各部屋の障子は開け放たれている。ジョーが歩いていると、その部屋にいる若衆たちが彼を睨んだ。
「勘弁しておくんなさいよ」
ジョーの前を歩くシンゾウが詫びる。
「親父やあっしたちのような連中はともかく、下の奴らは、やっぱりあんたたちに遺恨がありやしてね」
「構いませんよ、シンゾウさん。むしろ、みんなニコニコしてたら、それこそ罠だと疑うところでしたよ。人間として、当然の反応です」
「ご理解いただき助かります。さ、こちらです」
シンゾウがとある部屋の障子を開けると、そこでは先に到着していたマツとヒデが、瓶ビールを飲んですでにくつろいでいた。シンゾウは、
「では、膳の用意ができたらお呼びいたしますんで、ごゆっくり……」
と言ってその場を去った。障子を閉めていたのは、おそらく若衆に見られないための配慮だろうが、その部屋にはエアコンが付いているため、暑くはなかった。
「京木さんは?」
「まだみたいだな」
「ヒデ、最後に会ったのはお前だよな?京木さんは何か言っていたか?」
「いえ、俺は遅れるなんてことは一言も……」
「そうか」
ジョーが瓶ビールをコップに注ぎ、それをまじまじと見つめるとヒデが笑う。
「やだなぁ!俺たち、ずっとそれを飲んでいるんですよ。毒なんて入っていませんよ」
「うーん……」
ジョーは首をひねる。
「お前ら、ボディチェックは受けなかったか?俺も受けなかったが、銃は?」
「俺たちもべつに……」
そう言ってヒデはショルダーホルスターに入ったオートマチック拳銃をちらりとジョーに見せる。ガンマニアのマツは、手持ちのバッグから四角い物体を取り出した。
「それは?」
「見てなよ」
マツがその物体を手で広げると、銃の形へと変形する。
「折りたたみ式のサブマシンガンさ。映画のロボコップにも出てた銃だぜ。面白いだろ?」
「相変わらずだな、お前も。ところで、黒波組の親父は本当に、この屋敷にいるんだろうな?」
ジョーたちにとって、それは文字通り死活問題だ。庇護者である黒波組の組長がいなければ、自分たちは飛んで火に入る夏の虫、である。
「今は茶室で白金の親父と一緒だ。あの人がいる限り、俺たちの命は大丈夫だ」
「ならいいんだが……ん?」
ジョーの鼻腔が奇妙な匂いを察知した。マツとヒデの二人も怪訝な表情をしているということは、殺人に対する後ろめたさから生じる、錯覚などではないらしい。
「これは……?」
「線香の匂いか?」
「こっちの部屋からだ」
そう言ってヒデが隣の襖を開ける。そこには、白い布を顔に被せられた二人の遺体が、布団の中へ丁寧に安置されていた。
「なんでこんなところに……?白金組の関係者か……?」
ジョーとマツが、その布を取り、二人の遺体の顔を見てギョッとする。
「村田マオだ……!」
「こっちは刑事の一条……!」
だが、線香が焚かれているのは、さらに隣の部屋かららしい。しかも、そこから小さな声で、お経を読む声が聞こえてくる。
「……仮使興害意推落大火坑念彼観音力火坑変成池」
「おい!なんだお前は!?」
襖を乱暴に開けたマツの顔を、小さな机の上に線香を立て、合掌して座っていた小柄な尼僧が見上げた。
「なんだい?あたしが仏に読経してちゃあ、おかしいかい?」
「マツさん!」
障子を開けて外の様子を見たヒデが叫ぶ。
「何かおかしいですよ!さっきまでいた若衆たちが……いない!誰もいない!みんな消えている!」
「なんだとぉ!?」
ジョーたち三人が狼狽している様子は、屋敷内に無数に設置された監視カメラが漏らさず捉えていた。茶室に持ち込んだ何台ものモニターに映るその映像を見ながら、白金ソウタロウは、自分の隣に座っている、紫色のスーツを着た大男に改めて尋ねた。
「やっちまっていいんだな?黒波の」
そう呼ばれた大男。黒波組の組長はハッキリとうなずく。
「お前の娘が二人の仏をこっちに持ち込んできたのには驚いたが……」
黒波組組長が、ソウタロウが差し出した茶碗を片手で掴み、その茶を一気に飲み干した。村田マオたちの末路は、白金ソウタロウの娘、和泉オトハからすでに聞いているのだ。
「極道にも仁義がある!外道を飼うわけにはいかねえ!かまわねえ!やっちまいな!」
黒波組組長は、茶碗を叩きつけるようにして畳に置いた。
尼僧が立ち上がり、マツたちに向かって言う。
「観音経を、知っているかい?」
「ああ!?なに言ってやがる、このババア!」
「観音経は、生きている人間たちのための祈り……これからを生きる女たちのために、お前らはここで地獄に堕ちるのさぁ!!」
「このやろう!」
ジョーが折りたたみナイフを取り出しておばさんに斬りかかるも、流れるような動きで軽くあしらわれ、畳の上に転がされた。うつぶせになったジョーは村田マオの死に顔を間近で見ることになり、「ひっ!」と小さく悲鳴をあげる。
「慌てるんじゃないよ。あんたたちを殺るのは、あたしの娘の仕事さ」
「俺に任せろ!」
マツがマシンガンを乱射するが、それより速くおばさんは畳を返し、銃弾を防いだ。しかも、部屋中の畳がどんどんひっくり返っていく。
「あはははははははは!!」
そんな高笑いだけを残し、おばさんも、マオたちの遺体も消えてしまった。畳が元に戻り、机の上に線香だけが燃えている。
「くそっ!なんだったんだ、あのババア!?」
「いや!それより早くここから逃げなければ……理由はわからんが、俺たちはきっと黒波組に売られたんだ!」
「……ちょっと待て……なんだ、この……耳鳴りは……!?どんどん大きくなっていく……!?」
三人の男たちは、同時に鳴り始めた、お互いの耳鳴りに恐怖を覚えた。
「やばい……ヤバイ!何かが、こっちに向かってくるぞ!」
東西に約140メートル、南北に約60メートル。総面積8400平方メートルのその広大な敷地に、まるで大名屋敷のように立っている日本家屋が、白金組組長、白金ソウタロウの屋敷である。漆喰の壁に四方を囲まれ、南向きの正門の他、西側にある門もまた、京木の仲間三人を逃さないために、固く閉ざされていた。だが、東門だけはまだ開いている。その小柄な少女は東門をくぐり抜けると、やはり三人が逃げられないように、そこを閉鎖した。その右手には、黒い宝石が付いた金の指輪が輝いている。
「変……身……」
少女の体を幾重にも影のような包帯が包み込み、黒いドレスを形作る。この屋敷には、茶室にいる組長二人を除けば、もう殺しのターゲットしか残っていない。命を弄んだ男たちへ沈黙をもたらすべく、魔法少女へと変身を完了した村雨ツグミ/トコヤミサイレンスは、そっと屋敷内へ足を踏み入れた。




