リツが『女』になった時
リツのアパート。
部屋の中が夕闇に染まっていく中で京木ユウジロウが目を覚ました。
(……眠っていたのか?)
蛍光塗料が塗られた時計の針に目を走らせる。もしも白金屋敷の酒宴に行くのであれば、そろそろ出なければ遅刻する時間だ。だが、ユウジロウは急ぐ気配もなく、ぼんやりと部屋を見回した。
「!?」
ユウジロウは、暗闇の中で自分を見つめる瞳に気がつき、息を呑んだ。そこには、じっと自分を見つめ続けるリツがいた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもない。ずっと寝ている俺を見ていたのか?」
「はい」
「どうしてだ?」
「…………」
リツは沈黙して答えない。その様子が、まるで番犬のようで愛らしいと感じたユウジロウが、彼女を手招きすると、リツはベッドに腰をおろした。
「リツ……お前は、いい目をするようになったな」
「そうでしょうか?」
「ああ……お前は本当に、いい女になった……」
「なにをなさるのですか?」
ユウジロウがリツをそっと押し倒す。
「わかっているくせに……」
ユウジロウがリツの首元に顔を近づけた時、何かが閃いた。
「なっ!?……リツ!」
短刀の刃だ。リツがその手に握る短刀の切っ先は、リツの喉へ向けられていた。
「ユウジロウさんでも、それはなりません」
無理に致そうとすれば自害する。その脅しに、ユウジロウの頭に血がのぼる。
「俺はお前の命の恩人だぞ!……うっ!?」
刃の先が、今度はユウジロウの喉へ向いた。
「そうであろうと、ならぬものはならないのです」
ベッドから身を起こしたリツが、ユウジロウの喉元へ向けた短刀で、彼をジリジリと後退りさせる。壁際まで追いつめたところで、冷や汗を流すユウジロウの耳にリツがささやいた。
「これから中村ジュウタロウを殺してきます」
そしてリツは、やっとユウジロウの喉元から短刀を離した。
「次は、中村サナエ。その次は誰を殺したらいいんですか?」
「暗闇姉妹全員だ」
「その次は?」
「その次だと……!?」
薄暗い部屋の中でもハッキリわかるほど、音無リツはゾッとするような笑みを浮かべた。ユウジロウは言葉を失う。
「殺すターゲット……ちゃんと考えておいてくださいね?でないと私……我慢できなくなって、あなたを殺してしまうかも……!」
「わ、わかった!わかった!よくわかった!……さあ、早く行け!」
ユウジロウは、そう言ってリツを送り出すのが精一杯だった。リツがアパートから出ていくと、京木はやっと胸をなでおろす。
「リツのやつ……どうなっているんだ?いつから……あんな怪物みたいな女に……?」
そうなったのは、結局のところ京木ユウジロウが原因である。
(私は『女』になった)
道を歩きながら、リツは以前、村田マオとした『女』についての問答を思い出す。マオは言っていた。それは、気がつけばなってしまう。そして、『女』になる前には決して戻れない、と。
(あなたの言う通りでしたね、マオさん)
リツは『女』になった。この世で最も恐ろしい怪物へと変わったのである。そして、もう二度と過去の自分へは戻れないことは、誰よりもリツ自身が一番よくわかっていた。
時刻は19時を過ぎた。暗い城南署前のバス停に、一人の女が座っている。
音無リツである。彼女が待つ男が、やがてトボトボと警察署の方から歩いてやってきた。
「やあ、リツさんじゃないですか」
中村ジュウタロウである。怪我が治ってしまった以上、いつまでも病院にいる理由はない。明日から職場復帰するために、今日は自分のデスクを整理していたところだった。
「ジュウタロウさん。少し私に付き合ってもらえませんか?」
「いいですとも。リツさんのためなら、どこへでも行きましょう」
ジュウタロウはリツに従い、自然公園へと移動した。
「リツさん?どこまで行くのですか?」
「…………」
リツはジュウタロウの言葉を無視して、奥へ奥へと進んでいく。街灯も無い暗い石のベンチの前でリツが立ち止まった。周りにはまるで人気が無い。
「ジュウタロウさん。あなたに差し上げたいものがあるのです」
「ほぉ、何でしょうか?」
「今は申せません」
「リツさん」
「はい?」
ジュウタロウがリツの顔を指さす。
「あなた、笑えるようになったんですね」
無邪気なジュウタロウは、リツの笑顔の意味もわからずに、そう言って自分も笑う。リツには、それが耐えられなかった。
「……見ないでください」
「あっ、はい。どうもすみません」
ジュウタロウがリツに背中を向けたところで、彼女は言葉を続ける。
「ここで待っていてくれませんか?少し時間がかかるかもしれませんが……必ず帰ってきますから」
「わかりました」
ジュウタロウは石のベンチに腰を掛けた。
「私はリツさんが帰ってくると、信じていますから」
「ありがとうございます、ジュウタロウさん……」
リツがくるりと振り向いて、元来た道を歩きだす。見るな、と言われたジュウタロウは、リツを見たいのを我慢して、じっと地蔵のように固まっていた。
街灯の下まで戻ったところで、リツは懐から封筒を取り出す。ボールペンを使って、下手くそな字で『果たし状』と書いてあった。
これは、アパートを出る時に、郵便受けに入っていたのを発見したものだ。中には一枚の紙が入っている。それに場所と時間は書いてあるが、差出人は自分の名前を書くのを忘れているようだ。だが、リツにはそれが誰だかすぐにわかった。
「サナエさん……」
リツは立合いの場へと急いだ。




