サナエが胸を触られた時
「何も無いところですが、お茶くらいはありますから」
サナエはいそいそと、冷蔵庫から緑茶の入ったペットボトルを出し、それを紙コップに注ぐ。リツは、畳張りの社務所の中で腰を下ろし、そんなサナエを見守っていた。
(やっぱり気づいていない……)
サナエがリツの正体を、である。リツは、サナエと戦った時には魔法少女の衣装を着ていた。認識阻害魔法が問題なく働き、リツの正体を隠したのだ。だが、リツの方はサナエの正体を見ている。
(サナエさんが暗闇姉妹……)
昨晩、直接サナエの顔を見たリツでさえ、何か夢を見たのでは無いかと、自分の記憶を疑っていた。
「ところで、今日はどうしてこちらへ?」
「サナエさん、目にクマができていますね」
「へ?」
サナエが手鏡で自分の顔を見てみる。リツの指摘した通りだった。
「昨夜はあまり寝られませんでしたからねぇ……」
急にリツがサナエの胸を触った。
「な、なにをするんですか!?リツさんのエッチ!!」
「いえ、その……体が痛むのかと思いまして……」
「あ、そういうことですか」
気を取り直してサナエが答える。
「体じゃなくて、心の問題なんですよ」
「心の?」
「あー……」
サナエはそう言ってから後悔した。暗闇姉妹に関わることを、リツに伝えるわけにはいかない。サナエは話をそれっぽくでっちあげることにした。
「実は、ワタシは趣味で剣術をしていまして」
「剣術ですか」
「我ながらずいぶん上手だと自惚れていたのですが、昨日とある人にこっぴどく負かされちゃいましてね、自信が無くなってたんですよ。ははは……」
その話を聞いたリツは、キョロキョロと部屋の中を見まわした。
「どうしたんですか、リツさん?」
「木刀はありませんか?」
「木刀?」
「実は……私も剣術が……趣味なんです」
それを聞くと、サナエは顔をニコニコさせて、押し入れから木刀が数振り入った袋を取り出す。少女の趣味としてはあまりにも渋いこの道について、義理の姉になるかもしれないリツと話題を共有できるのは、少なくともこの時までは嬉しかったのだ。
「リツさんの流派はなんですか?」
「二心一刀流です」
「おぉ〜知る人ぞ知る江戸時代初期の実戦的な流派じゃないですか!」
「サナエさんは?」
「日本陸軍伝軍刀操法」
サナエは得意気に「ふふん」と鼻を鳴らす。こちらも実戦的という意味では負けてはいない。その名の通り、旧日本陸軍で伝えられてきたものだ。
「ワタシに剣を教えてくれたお爺ちゃんは言っていました。この技は、20世紀に多くの弱き者たちを苦しめてきた。21世紀のこれからは、弱き者を助ける天の刃にしなさい、と」
「素敵な教えですね」
「ねえ、リツさん!今から外で、お互いの技を試してみませんか?」
「えっ……?」
誘ったのはサナエの方からだった。昨日戦った魔法少女は怖いが、リツは怖くない。サナエは、この時はそう思った。
今は青々とした葉で覆われている桜の木の下で、二人の剣豪少女が正眼で構え合う。サナエはしっかりと重心を落としているが、リツの方はただ突っ立っているような姿勢だ。
(願ってもないこと)
リツはそう思った。サナエの技を試したいと思っていたのは、むしろリツの方だったのだから。
「やーっ!」
サナエから攻めてきた。当然だが、本当にリツを木刀で打つつもりはない。リツの方も、寸止めを心得ている。サナエの大上段からの斬り下ろしを、リツはほとんど木刀を持ち上げずにポンと弾き、サナエの喉元に切っ先を突きつけた。
「うっ!?リツさん、なかなかやりますね」
「サナエさん」
リツはゆっくりと後ずさり、サナエの喉元から木刀を離す。さきほどからこんな調子で、サナエはリツに軽くあしらわれているのだ。
「日本陸軍伝軍刀操法……日露戦争中、狭い塹壕内での格闘戦に苦戦した反省から、その強化のために旧陸軍で研究された技ですよね」
サナエがうんうんとうなずく。
「敵味方入り乱れる乱戦、砲撃で揺れる大地、そしてアドレナリンがほとばしる兵士……そういった状況で、兵士がよく戦えるように工夫された技だと思います。江戸期の剣術より、むしろ戦国時代の剣術に近いようですね」
「リツさん、詳しいですね~」
「ですが……」
リツがニコニコしているサナエを睨む。
「一対一の戦いには多少不利になる要素があります。重心を落とし、歩幅を広げ、大きく振りかぶる太刀筋は、乱戦向きの戦い方です」
「えーっと、つまり……」
サナエがマジメな顔で頭をひねる。
「一対一の戦いなら、重心を落とさず、歩幅を広げず、太刀筋はコンパクトにしなさい……と?」
「頭を糸で吊り下げられているようなイメージをもってください。刀を振る時は、こう……ズンと」
リツが、肘と手首を動かさず、足と胴体と肩の力で刀を斬り落とす動きをサナエに見せる。言葉を尽くすよりも、こちらの方がサナエにはわかりやすかったようだ。
「わかりました!やってみましょう!」
サナエは新しいその方法に、徐々に順応していった。リツを負かせるまでには至らなかったが、数手で負けるようにはならなくなり、さらに練習すると、リツと良い勝負ができるようになってきた。
「楽しいですね!リツさん!」
時間とともに高くなる夏の日差しが境内を熱し、二人の少女の額に汗が流れる。サナエの言葉に、リツが首をかしげた。
「楽しい……?」
「はい!リツさんのおかげで、ちょっと自信が戻ってきましたよ」
「そうですか……」
「?」
なぜか残念そうにも聞こえるリツの言葉である。
「サナエさん、私も試してみたい技があります。よろしいですか?」
「ええ、どうぞ!」
「それでは……」
サナエが再び正眼に構える。リツの指導を受けたサナエは、最初の時よりもずっとリラックスした構えになっていた。だが、向かい合うリツは、刀をだらりと下げて構えようとしない。
「……リツさん?」
「…………」
次の瞬間、リラックスしていたサナエの体が硬直した。
(えっ!?)
声も出せない。視界に映るリツは、ただサナエを睨んでいるだけのように見える。その技の正体を悟り、サナエが戦慄する。
(これは、ツグミさんの『蛇睨み』!?どうしてリツさんが!?)
リツは無造作にサナエに歩み寄ると、その手から木刀をもぎ取った。
「自信なんて、もたない方がいいですよ。あなたは、私には絶対に勝てない」
リツが、サナエにぶつけていた強い殺気を解除すると、サナエは荒い息をしながら、その場に尻もちをついた。
「そ……その技……どういうことなんですか!?リツさんは、一体……」
「私がかけられた技を真似したのです」
リツが言葉を続ける。
「半信半疑でしたが……サナエさんと手合わせしてみて、ハッキリとわかりました。昨夜、あなたを斬ったのはこの私です」
「!?」
サナエが言葉を失う。
「今日ここに来たのは、警告のためです。私に近づかないでください。さもなければ……次こそ命はありません」
「そんな!?ウソでしょ!?リツさんが、人殺しの……!」
再びサナエの体が硬直する。リツはサナエを睨んだまま後ろ向きに歩いていった。
「追ってこないでください。さようなら、サナエさん……」
サナエの体が動けるようになったのは、リツの姿が見えなくなってからだった。その様子を、桜の木の陰から、双眼鏡で覗いている者がいる。
「リツさん……これが、あなたの選択なのですか」
黒いニンジャ風ドレスの魔法少女だ。タソガレバウンサーである。彼女を京木から引き離し、自分の陣営に組み込もうとしていた計画が、完全に失敗したことはもうわかっていた。
「しかし、わかりませんね。警告を与える一方で、どうしてサナエさんを鍛えるような真似を……まさか、あなたは……」
サナエが呆然として社務所に戻ると、机の上に置いてあった携帯電話が点滅しているのが見えた。数件の着信履歴があり、それは全てアカネからのものである。
「あ、サナエさん!」
電話をかけ直すと、アカネがすぐに出た。
「ツグミちゃんのお母さんから……もう!今はそれでいいでしょ、ツグミちゃん!……聞いたのよ、敵の魔法少女の正体を!」
「そう……ですか……」
「音無リツという人を探してほしいの」
「どうしてですか?」
「彼女が昨日戦った魔法少女だからよ!その名は……シニガミマンティス!」
「…………」
「もしもし!サナエさん、聞こえてる?」
「ウゥウ……!」
携帯電話を手から落としたサナエは、その場でへたり込んで嗚咽を漏らす。リツが話したことは全て本当だったのだ。
「ウソだ……ウソですよ、そんなの……リツさんが…………どうしてですか!?リツさーん!!」
音無リツはバスに乗り、窓ガラスに頭をもたれかけながら外の景色を眺めていた。周りの乗客たちは、彼女の異様な様子に慄き、遠巻きにしている。リツは二本の木刀を、いつまでも大事そうに、胸に抱きしめていた。
いつまでたってもサナエからの返事が聞こえないので、らちが明かなくなったアカネが電話を切った。隣でツグミが心配そうな顔をしている。
「サナエさんの様子がおかしいわ」
「もしかして、リツさんと何か個人的に関わりがあるのかな?」
「わからないけれど、とにかく神社へ行ってみましょう!……あ、待って!」
アカネの携帯電話から着信音が響く。
「サナエさんからかしら……?」
だが、液晶画面に表示された名前を見て、しばし硬直する。
「オトハからだわ……!」
ツグミもまた固唾を飲んで見守る中、アカネが通話ボタンを押した。
「もしもし、オトハ?あなた、今どこにいるの?」