裏切りの時
ボロボロのアパートがある。
風俗街に面した狭苦しい二階の一室で、二人の刑事が交代で外を覗いていた。
「それにしてもクーラーさえ無いとは、かなわんな」
扇風機の前で汗をぬぐいながら愚痴をこぼすのは、一条と同じ刑事課のベテラン、馬場だ。窓から外を見張っていた一条が振り返った。
「冷蔵庫にスポーツドリンクが入っていますよ」
「スポドリもいいが……」
馬場がグイっと飲み干す動作をする。
「ビールがいい。キンキンに冷えたやつなら言うことは無いな」
「仕事中ですよ、馬場さん」
「固い奴だな、お前は」
そう言いながら馬場が立ち上がる。
「悪いがコンビニで買ってくる。すぐに戻るからな」
「ちょっと、馬場さん」
馬場は有無を言わさぬ勢いで部屋から出て行ってしまった。
「まったく……」
そうつぶやきながら一条は再び外を見張る。見つめているのは、京木が経営する風俗店『ミルクアンドハニー』の裏口だ。いくらまだ営業時間ではないとはいえ、客が出入りする表の入り口を使うことはないはずだ。京木本人、あるいは彼に近しい魔法少女が通るとしたらここしかないのではないか。雲を掴むような話だが、他に手がかりになるようなものはなかった。
(必ず尻尾を掴んでやる……!)
一条は何も見逃すまいと、辺りの様子を注意深くうかがった。
部屋のドアが開く音がした。
「馬場さん」
一条は振り返らずに呼びかける。
「さっきからアパートの前に白いワンボックスカーが停まっているんですよ。何か様子がおかしいと思いませんか?馬場さん、コンビニに行く時に何か不審なことは……」
その瞬間、黒い袋が一条の頭にかぶせられた。
(なっ!?)
ここで一条は初めて、部屋に入ってきたのが馬場ではないと悟った。視界を塞がれた一条には知る由もないが、黒ずくめの三人組が一条に殺到する。一人が一条の頭に被せた黒い袋をきつく締めあげる一方で、一人はその上から顔を殴打し、もう一人はスタンガンを取り出すところだった。
(わああああっ!?)
スタンガンを首に押しつけられた一条は、袋の中で悲鳴をあげ、そのまま気絶する。手慣れた様子で一条の手足をガムテープでぐるぐる巻きにした三人は、その体をワンボックスカーの中へ無造作に放り込んだ。
「…………」
その様子を黙って見ていた馬場の前に、黒ずくめの一人が近づく。顔の目出し帽をとったマツは、馬場に、パンパンに膨らんだ封筒を手渡した。
「ご苦労様でした、馬場刑事」
「なあ、マツさん」
馬場が不安そうに京木ユウジロウの仲間に尋ねる。
「一条を殺すわけではないんだよな?」
「殺すつもりはありませんよ。ちょっと脅して帰すだけですから」
「なら、いいんだが……」
馬場は封筒に詰まった札束の厚みを確かめながら言った。
「一条の死体が出たら、真っ先に疑われるのは俺だからな」
「たしかに。でも、その金があれば何年かは東南アジアで遊んでくらせるんじゃないですか?」
マツは暗に高飛びを勧める。
「なんなら、店で遊んでいってもいいですよ。張り込みをするフリだけにしろ、あのアパートでは不便でしょう。どの部屋でもいいですから、くつろいでくださって結構です」
その言葉を聞くと、馬場は金を見るとき以上に、興奮して血走った目を向けた。
「……レイコちゃんは?今夜は、いるのか?」
店の嬢の名前である。若い一条とは違い、金と女で操れる馬場のような男は、マツにとっては都合がいい。
「もちろん。出勤したら、すぐにご案内いたしますから」
「そうか。へへ、頼むぞ」
舌なめずりをしながら店の裏口へ向かう馬場を見送った後、マツは再び目出し帽をかぶり、二人の仲間に声をかけた。
「急ごうぜ。今晩はもう一つ仕事が残っているんだ」
白いワンボックスカーが、その場を後にした。
駅前に立っているビルの貸し会議室。
それが『行き場の無い女性を支える会』が毎晩ミーティングを行う場所であった。
今夜もマオを含めた数名の女たちが集まっている。ミーティングといっても堅苦しいものではない。出席する義務も無いし、困っている女性であれば、誰でもそこを訪ねることができた。マオの他にも、市の支援制度に詳しいメンバーが相談に応じることができるし、単純に避難場所としても利用できる。
例えば、今マオが勉強を教えている中学生の女の子がそうだ。最近やっとニ次方程式が解けるようになった彼女の顔に包帯が巻かれているのは、母親の不倫相手からの肉体関係を拒絶したせいで母親から熱湯をかけられたのが原因である。児童相談所か警察が本気で腰を上げるまでは、マオがここで匿うしかなかった。
「マオさん」
眼鏡をかけた中年の女性が呼ぶ。彼女は、日中は職業訓練校に通い、夜はこうして事務的な仕事を手伝ってくれていた。
「マオさんに是非会いたいという女性が訪ねて来られましたが」
「あ、はい。すぐ行きますね」
マオは笑顔で立ち上がる。が、そんな彼女の上着の裾を、包帯の少女が掴んだ。震えている。
「大丈夫ですよ。ここにいる限り、あなたの安全は私が守りますから」
マオが少女の頭を撫でると、彼女はやっと落ち着いたのか、そっとマオから手を離した。
(チラシを見た人が来られたのかしら?)
ならばせっせと配ったかいがあったというものだ。マオが会議室の入口にむかうと、そこにはやはり見覚えのある顔が立っていた。
「ああ、あなたでしたか……」
マオはペコリと頭を下げる。
「歓迎しますよ!音無リツさん!」
そう言われたリツは、無言で会釈を返した。そして、封筒をマオに差し出す。
「これを読んでいただけませんか?」
「えっ?」
受け取ったマオは、中に入っていた3つ折りの紙を取り出す。ワープロで打たれた文章のようだった。
『声を出さないでください』
(んん?)
マオが怪訝な表情をする。
『私は魔法少女です』
「リツさん、これは本当ですか?」
思わずマオが尋ねる。能面のようなリツの顔からは感情が読みとれない。
「最後まで読みましたか?」
リツにそう言われたマオが再び紙に視線を落とす。
『もしも余計な事を言えば、ここにいる人たちを全員殺します』
(はぁ!?)
『逃げようとしても無駄です。そうすればあなたを殺し、ここに戻ってきて全員を殺します』
マオは顔を上げると、後ろを振り向いた。包帯の少女と目が合う。その奥でパソコンを使っている事務仕事の女性は、何も気づいていないようだ。
(この子を守らなければ……!)
マオは続きを読む。
『生きて帰りたければ、以下の場所へと移動してください。行き先を誰かに言ってはいけません。そして、私に話しかけてはいけません』
マオは住所を読んだ。
『私が「最後まで読みましたか?」と質問して、その通りなら無言で頷いてください。そして、適当な理由をつけて、私と一緒に移動してください。歩く時は、常に私の前を歩いてください』
最後まで読んだマオは、心を落ち着かせるために深呼吸をする。
「最後まで読みましたか?」
リツにそう尋ねられたマオは、無言で頷いた。
「すみませんが、こちらの方と外で少しお話してきます!」
マオは振り返らずに背後へ呼びかけると、返事を聞くより先に会議室から出ていった。無言のリツをその背中に従えて。