幸福の時
音無リツ、中村ジュウタロウ、そして京木ユウジロウ。三人はユウジロウが呼んだタクシーに乗って、そしてユウジロウがオススメするイタリアンレストランへと向かう。
「で、その店のナポリタンは絶品でして」
後部座席でジュウタロウと隣同士に座っているユウジロウがうんちくを傾けるその店も、リツは知っていた。助手席に座っている彼女の心がざわつく。
(そのお店……人気だから、予約をしていなければ入れないはず……ユウジロウさんは、これを前々から計画していた……?どうして……?)
「ほぉ、オシャレなお店ですなぁ」
店の前でタクシーから降りた時、ジュウタロウはのんきにそんな感想を述べた。
店に入ると、ウエイターは三人を下にも置かない。
「音無ユウジロウ様ですね?」
当然、京木の息がかかっている連中だ。本当の名字を呼ぶような、初歩的なミスなどは犯さない。
「奥の席へご案内いたします」
やがて席に座っている三人の前に、ユウジロウがオススメしていたとおりのナポリタンスパゲッティーが並んだ。ユウジロウはフォークを使って器用に食べる。リツも同じように無言で食べた。が、ジュウタロウだけは手をつけない。
「どうしました、中村さん?」
「あのう……すみませんが……」
ジュウタロウがウエイターへ手を挙げる。
「箸はありませんか?」
「えっ?箸?」
ウエイターは困惑するしかない。
「はははははははっ!」
ユウジロウは高笑いをした。それが嘲笑であるとわからないのはジュウタロウ一人だけだったので、リツには耳障りだった。
「おい、俺の客だ。中村さんの言う通りにしてやってくれ」
「は、はい。わかりました」
割り箸がジュウタロウの前に出されると、彼はユウジロウに頭を下げた。
「どうも、恐れ入ります」
「どういたしまして。ところで中村さん……」
ユウジロウは本題を切り出すことにした。
「リツが巻き込まれた事件ですが……どこまでの事がわかっているのでしょうか?」
「はあ、知りたいですか」
「もちろん。かわいい妹が巻き込まれた事件ですからね」
もともとジュウタロウがリツと出会うきっかけとなったのは、白金組のヤクザが、自分たちの舎弟頭を殺した魔法少女の正体がリツだと考えて襲撃した事だ。結果的に、それは間違いではないことを知っているのはユウジロウとリツの二人だけのはずである。
「白金組の幹部が殺された……と。しかし、犯人が魔法少女ならば、雲を掴むような話でしょうね」
ユウジロウがそう水を向けると、ジュウタロウは意外にも首を横にふった。
「いや、犯人像はわかっているんですよ」
「え?」
「…………」
雄弁なユウジロウと違い、リツは黙って聞いているしかない。
「魔法少女本人にヤクザを襲う動機はありません。裏で彼女を操っている男がいるんです」
「ほう、それは興味深いですね。しかし、そんなことがありえるのでしょうか?魔法少女に勝てる人間の男なんていないでしょう?洗脳とか、薬物で操っているとか?」
「そうとも限らんでしょう」
ジュウタロウはズルズルと音をたててナポリタンを掻き込む。ジュウタロウの口元がケチャップ色に汚れた。
「魔法少女の良心、信条、あるいは罪悪感を利用して操るという手段も考えられますからなぁ。なにしろ、心は普通の少女なんですから」
「さすがは中村さんだ。魔法少女にも顔が広いと見えます」
「そうでもないですよ。私が直接話したことがある魔法少女は二人だけです」
ジュウタロウが自分の右足を見つめる。その行為の意味は、ユウジロウにはわからない。
「そのうちの一人は、私の怪我を治してくれました」
「怪我を治した?」
ユウジロウの顔を見ていないジュウタロウは、彼が怪訝そうな顔をしているのに気づいていない。
「今度の殺人事件、原因は白金組と、京木ユウジロウという風俗店のオーナーとの縄張り争いが原因です」
今度はジュウタロウが核心を突く番だった。
「京木はなかなか悪どい手法で女たちを働かせているようです。もしも京木が白金組の縄張りを奪い、そこに新しい風俗店を立てたらどうなるでしょうか。おそらく今以上に女たちは涙を流すことになるでしょう。京木の下で働いている魔法少女は、そのことまで考えているのかどうか」
リツの顔から血の気が引いた。
「魔法少女は、人類の味方なんです。そんな彼女を騙して、自分の欲望を満たすためだけにその力を利用する者がいるとしたら……私は、なによりも一人の男として、そいつが許せないでしょうな」
「さすがは、中村さん……」
この時には、すっかりユウジロウも口数が少なくなっている。そんな彼の顔を、ジュウタロウが見据えた。
「そういえば、音無さん。あなたもユウジロウさんでしたなぁ。これは、なかなかよくできた偶然ですなぁ」
「…………」
「あの、ジュウタロウさん」
たまらずリツが横から声をかけた。
「警察官には守秘義務があるのでは?」
「あっ、それもそうですなぁ。いやぁ、すみません」
ジュウタロウはなぜかユウジロウに謝る。
「ちょっと聞かなかったことにしてもらえませんか?」
「ええ……もちろんですとも。俺は、中村さんから何も聞かなかった。そういう事にしておきましょう」
「そうしてもらえると助かります」
やがて三人が食事を終えると、ユウジロウは手を挙げてウエイターを呼んだ。会計である。だが、ユウジロウが奢ることをジュウタロウが拒んだ時、再びリツは緊張した。
「どうしてです?俺は中村さんに感謝を伝えようと思ってこの店に誘ったんです。どうか支払わせてくださいよ」
「そのお気持ちは嬉しいのですが、どうにも警察官というのは、そういうのはいけない事になっていまして……いや、本当に申し訳ない……」
「…………」
別会計となったジュウタロウは「普段食べてるラーメンより5倍高い……」とか「後でサナエからお金を借りようかな……」などとぼやきながら支払うと、先に会計を済ませていたユウジロウたちの後を追って店から出た。タクシーは既に来ていたが、ジュウタロウに挨拶をするために待たせているようだ。
「では、中村さん。俺たちはこれで失礼します」
「……私もですか?」
「ああ、お前とは話がある」
ユウジロウは、今度は先にリツをタクシーの後部座席に乗せた。ジュウタロウが手を振って見送る。
「では、またお会いしましょう、リツさん。そして、ユウジロウさん?」
「なんですか?」
「妹さんを、大切にしなくちゃいけませんよ」
「……わかってますよ」
ユウジロウはニコリともせず、タクシーに乗り込んだ。走り去るタクシーを見つめるジュウタロウが先ほどかけた言葉に、それほど深い意味はない。ユウジロウにリツを大切にしてほしい。ただ、そう願っただけだった。
走るタクシーの中でリツがユウジロウに尋ねた。
「中村さんをどうする気なんですか?」
「…………」
ユウジロウは何も語らない。それが余計にリツを不安にさせた。タクシーの運転手に、万が一にも聞かれたらマズいことを考えているのか?と。
「中村さんは誤解をしている」
「?」
「そういえば、お前に俺の仕事について話したことはなかったな」
風俗店経営のことだ。リツは、彼の店で働く嬢にも会ったことがない。
「風俗嬢は、金に困った女が嫌々働く苦界……まあ、テレビや映画なんかでのイメージはそんなもんだろう」
「……違うんですか?」
「まあ、そういう女がゼロというわけではないが、俺たちはサービス業なんだ。客に尽くそうという心が無ければ続かないし、客も離れるもんだ。だから、俺の店で働く女は、必ず俺かジョーが面接をすることになっている」
「…………」
「この商売は人間社会に必要なんだ。どれだけ政治家が綺麗事を並べてもな。風俗が無い社会ほど、性犯罪は多い。それについて、プロとしての誇りを持って働いている女も少なくない」
「……すみません、私……そういうのはよくわからない……」
「ああ、無理にわかる必要はない。ただ……」
「ただ?」
「俺は、お前に俺のことを嫌いになってほしくないだけさ」
タクシーがリツのアパート前に到着した。車内から降りてしまえば、もう誰に話を聞かれる心配も無い。
「リツ。お前が言っていた通り、殺しの商売はもう終わりにする」
「えっ」
「白金組から手打ちの話があった。やつらの縄張りは俺の物になる。舎弟頭の香典分だけ、最初の金額より高くなったがな」
「それじゃあ……」
「ああ、俺はそれで満足する。もう十分利益を得た。暗い仕事をお前に頼むことも無くなるだろう」
「そう……」
「これで、お前も胸を張って中村さんに会いにいけるな」
ユウジロウは「嬉しいか?」と尋ねようとして、やめた。先を歩いていくリツの様子を見れば、それは愚問というものだろう。自分の部屋のドアを開けたリツは、振り向いてユウジロウに言った。
「ユウジロウさん。私がジュウタロウさんのことを好きになっても……あなたのこと、嫌いになったりしませんから」
「おい、リツ……!」
ユウジロウが驚いたのには理由がある。
「お前、今、笑ったぜ……!」
「えっ……!?」
リツは慌てて自分の部屋へ飛び込んでいった。きっと鏡を探そうとしているに違いない。ユウジロウは、この男には珍しい微笑みを浮かべた。だが、その笑みがゆっくりと歪んでいく。
「だがなぁ、リツ……」
ユウジロウは懐から紙切れのような物を取り出しながらつぶやいた。
「今回の件、お前にはまだ仕事が残っているんだよ」