大変身!天の刃が光る時
「なんだか降りそうですな」
宝飾品会社ジュエリームラオカの三階オフィスでお茶をすすっていた中村ジュウタロウが、薄暗くなった空を眺めてそうつぶやく。書類に目を落としている男性社員が笑った。
「相変わらず中村さんは面白いですね。今日の降水確率は0%ですよ?」
ジュウタロウはお茶を飲み干すと、おもむろに窓辺に近づく。
「そうでしょうか?何も降るのが雨とは限りますまい」
またいつもの冗談が始まった、などとその社員は笑っていたが、屋外よりいくつもの悲鳴が響き、彼も含めて社員全員が騒然となった。彼らはいそいで窓から外を見る。
「中村さん!アレはなんですか!?」
「よく見えませんか?蝙蝠でしょう」
窓の外では地獄の前奏曲が流れていた。
「嫌ああああっ!?」
通行人たちの体のいたるところに蝙蝠が群がり、貪っている。蝙蝠の一匹が窓にぶつかり、ムラオカの社員が一斉に後ずさった。蝙蝠は視力が弱くとも超音波をソナーとして使い、空間を正確に把握している。ゆえにこの体当たりは、故意だった。ぶつかられたガラスにヒビが入っている。突破してくるのは時間の問題に見えた。
「け、警察に連絡を……!?」
「私がその警察でしょうが」
「中村さん!どうしましょう!?」
「倉庫にでも隠れていなさい」
「中村さんは!?」
「私は署の方に仕事を残してきとりますから」
まるでにわか雨にでも降られたような言い方をして、ジュウタロウはがに股でドタドタと、彼なりに急いで階段を降りていく。外へ飛び出して公衆電話を探すと、電話ボックスがすぐに見つかった。署に連絡しなくては。だがここでジュウタロウは後悔した。
「あ、しまった。さっき会社の電話を借りれば良かったなぁ」
屋外へ出たジュウタロウにも蝙蝠は襲いかかる。
「頭を噛むのはやめなさい」
最近は薄毛が気になっているのにとブツブツ言いながら払い落とそうとする。ここで気づいたが、蝙蝠は見た目のインパクトはともかく、数匹に同時に襲われたぐらいではたいしたダメージは負わなかった。しかし、数十匹が一度に群がると話は別だ。
「うううっ……」
「こりゃいかん」
何名かが蝙蝠団子になって動けなくなっている。ジュウタロウはすぐに、たまたま見つけたラーメン屋に入る。当然ながら、店主と客たちはすでに逃げ出していた。必要な物を探す。見るとそこには警部補の田中の姿があった。
「俺は何も見ていない……俺は何も見ていない……」
そう何度もつぶやきながら、頭に大きな銅鍋をかぶり、厨房の奥で震えている。田中はジュウタロウと違って拳銃を携帯しているはずだが、何の心の支えにもなっていないようだ。
「ちょっとお借りしますよ」
「あ!?こら!何をする!?」
ジュウタロウは田中がかぶる銅鍋を引っ剥がし、目当ての物が用意できたので外へ出ていった。
「一人にしないで~!」
田中の懇願は聞こえていないようだった。
ジュウタロウは蝙蝠団子になって動けなくなっている通行人を見つけると、両手に一つずつ銅鍋を持ったまま近づき、それをバーン!!と叩き合わせた。すると群がっていた蝙蝠たちが一斉に飛び立つ。ジュウタロウが思った通り、蝙蝠は音波に敏感だった。超音波を頼りに飛行する彼らにとって、ジュウタロウの行動は閃光手榴弾を投げつけられたのも同様である。倒れていた通行人が起き上がる。
「あ、刑事さん」
「トイレにでも隠れていなさい」
ジュウタロウは次々に蝙蝠団子へ向かっていく。しかし、キリが無かった。スポーツも大の苦手なジュウタロウは徐々に疲れていく。
「困ったなぁ。やはり署に電話を」
警察官たちがすでに出動し、拡声器で「屋内に避難してください!」と叫んでいる。しかし自動車はあまり頼りにならなかったらしい。アクセルを踏んで逃げ出そうとした男性は、窓を割って飛び込んできた蝙蝠に襲われ、同じように向こうからくる車と正面衝突をする。ホーンを懸命に鳴らして抵抗する果敢な車もいたが、側面から衝突してきた別の車によって沈黙した。道路は完全に秩序を失い、交通網は完全に麻痺してしまっている。
「ええっと、小銭、小銭……どっちのポケットにしまったかな?」
ジュウタロウは電話ボックスへ入り、そう言って体をあちこちまさぐっている。実は緊急通報に限り金銭は不要なのだが、それが頭から抜け落ちているというより、最初から知識として無いらしい。
「きゃあああっ!?」
走って逃げていたロングヘアの小柄な少女が電話ボックスの側で倒れた。彼女の頭にも蝙蝠が群がりだしたので、ジュウタロウは慌てて外に出る。
「大丈夫ですかー!?ツグミさーん!?」
そんな叫び声が聞こえたので振り返ると、サナエが鉄製の大きなゴミ箱の中から頭だけ出しているのが見える。
「サナエ。何やってるんですか、そんなところで」
「あ、お兄さん!!」
中村兄妹がお互いの存在に気づく。
「早くお家に帰りなさい」
まるで門限を守らない子供を叱るようにそう言うと、倒れているツグミを助けおこしているのがサナエから見えた。
「ひゃあっ!?」
サナエの頭に向かって蝙蝠の群れが突進してくるのが見え、慌ててモグラ叩きのごとくゴミ箱に隠れる。ボコボコと激しく蝙蝠が鉄の蓋にぶつかる音を聞きながら、サナエは祈っていた。
(どこからか閃光少女が来てくれるはず……!)
そしてこうも考える。この悪魔たちを操っている魔女が、すぐ近くにいるはずだ。さもなければ、これだけの集団を統率できるはずがない。魔女を直接叩けばこの惨劇を食い止められるはずだ。
(どこ、からか、閃光少女が、来て、くれる、はず……!)
しかし、そんな事は起こり得ないのは、城西地区の閃光少女が消失したことを調査した、自分が誰よりも知っていた。グレンバーンとアケボノオーシャンがいる。しかし、彼女たちもまた城南地区にいる閃光少女だ。サナエたちが城南地区からこの地に辿りつくまで高速道路で1時間以上も走っている。仮に二人がこのスピードで到着できたとしても、その頃にはこの一帯が死屍累々となっているだろう。
(いったい、どうすれば……?)
蝙蝠がぶつかってくる音が止み、サナエは外の様子が気になって、恐る恐るゴミ箱から頭を出す。ツグミは無事だろうか?
「あっ!?」
それは文字通りそう驚きたくなる、そんな光景だった。電話ボックスの中にツグミが入っている。さきほど彼女を助け起こしたジュウタロウが入れたのだ。
そして、当のジュウタロウといえば、頭だけは銅鍋をかぶり、木から落ちそうになっている不器用な猿のように、電話ボックスを抱きしめていた。中にいるツグミが心配そうに見つめている。体の大きなジュウタロウはツグミと一緒に電話ボックスには入れない。だからこうして彼女を守っているのだ。
(うう……お兄さん……)
その光景を見てサナエは涙を流す。大好きな兄、ジュウタロウは蝙蝠たちにいいように嬲られ、その大きいだけが取り柄の背中から幾筋も血を流している。
(なんで手で追い払ったり、身じろぎの一つもしないんですか!?あなたはいつだって、そうやって不器用で、不器用で……)
サナエは泣きながら、真っ暗なゴミ箱の中に再び戻る。
あなたはいつだってそうでした。
自分の分のおやつまで、いつもワタシにくれて。
人に道を譲ってばかりで。
今だって、その大きな背中で、誰かを必死にかばっている……
サナエは暗闇でとめどなく涙を流し続ける。
でも……ワタシにはできない。ここから飛び出して、魔女と戦う勇気は無い。怖くてできない。死にたくない。
ごめんなさい、お兄さん。歳の離れた妹のワタシを、まるで父親のように、あなたはこんなに大切に守ってくれたのに。
そんなワタシは、怖くて、震えが止まらなくて、何もできない。できない……
ごめんなさい、お兄さん……ごめんなさい……
その時サナエは、暗闇の中でなぜか光を見た。
(幻覚……?)
その光は自分の後ろから射しているようだった。ゴミ箱の中でひざまずいていたはずのサナエは、なぜかよく遊んでいた公園の芝生の上に立っている。
(これは……ワタシ……?)
振り返ると、そこには幼い頃の自分が立っていた。光は彼女が発していた。悪魔と合体する前の、まだ髪が黒かった頃のサナエが尋ねる。
「このままでいいの?」
幼いサナエは、お面を差し出していた。それは、右半分が銀色であり、左半分が赤色に塗り分けられている。ヒーローのお面だ。縁日でよく売られているようなペラペラなそれを、銀髪のサナエが受け取る。サナエはゆっくりと、そのお面を顔へ近づけていった。
ああ、そうだ。
今やっとわかりましたよ。人間のワタシ。
見ず知らずの子供を助けるために、大きなトラックに立ち向かっていったあなただって、本当はすごく怖かったのですね。死にたくなんて、なかったのですね。
あなたたち二人の兄妹こそが、ワタシが人間界で初めて知った、本物のヒーロー……
「うわああああああああっ!!」
絶叫しながらゴミ箱から飛び出したサナエは、一心不乱に走り出した。どこかを目指して、一目散に駆けていく。
(怖い!怖い!怖い!怖い!)
しかし同時に思う。
(負けない!負けない!負けない!ワタシは強い!!)
「僕にはサディスティックな嗜癖なんて無いと思っていたんだけどなぁ。でも、これはこれで、なかなか」
地獄の上空をセキショクウィングが優雅に飛行している。眼下の景色を楽しみながら、仕事の進捗を確認しているようだ。
「おや、あれは?」
電話ボックスの中に匿われているツグミを発見し、彼女の目が光る。
「『生き残った女の子』じゃないか」
生き残った女の子。オウゴンサンデーの配下たちは、あの蜘蛛の魔女、アンコクインファナルに襲われながらも生還した村雨ツグミを、いくばくかの敬意をもってそう称していた。オウゴンサンデーはツグミについて多くを語らなかった。しかし配下たちは思う。村雨ツグミには特別な力があるのではないか?と。彼女こそが暗闇姉妹トコヤミサイレンスの正体であると考えたりする一方。彼女を手中に収めれば、自分こそがオウゴンサンデーの地位に成り変われる力を得るのではないかとも思った。要するに、絶好の興味の対象である。
(気になるよね)
セキショクウインドは急降下し、電話ボックスへ向かった。
「はぁ……!!はぁ……!!はぁ……!!はぁ……!!」
溢れ出る涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、サナエは一心不乱に駆けていく。鼻水もとめどなく流れ、鼻が詰まって息が苦しい。そんなサナエも、蝙蝠たちは容赦なく襲い、彼女の肉をえぐる。サナエは止まらない。しかし、逃げているわけではなかった。目標まで近づいたと知ったサナエは、大声で叫んだ。
「来てくださいっ!!リベリオぉぉぉおン!!」
立体駐車場に停車されていた大型スポーツバイク、マサムネリベリオンが目を覚ます。ハイパワーチューンドエンジンが咆哮を上げ、リアタイヤが白煙を上げながら回転数を上げる。自らの意思で走りだしたリベリオンは、しかし出口には行かない。立体駐車場の、上へ、上へと登っていく。
屋上まで登りきった後も、リベリオンはどんどんスピードを上げていく。その先に道は無い。宙を描くライン以外は。眼下の道路は破壊された車で埋められていたが、空へと飛んだリベリオンは、まるで重力など無視するように、ビルの側面に沿って横向きに走っていった。ビルが途切れれば歩道に、誰かが倒れていればそれを避け、時には車をも乗り越える。
(……来た!)
前方の道からこちらへ走ってくるリベリオンにサナエが叫ぶ。
「そのまま走ってください!」
サナエとリベリオン。両者はまるでぶつかり会うようにお互いに向かって走り続けた。サナエはトレンチコートを無理やり脱ぐと、その下に着ていたライダースーツが露出する。すれ違いざまにリベリオンのハンドルを握ると、例のパルクールのような敏捷な動きで、体をひねってシートに飛び乗った。
スロットルを全開にされたリベリオンの咆哮に驚き、蝙蝠が一斉に逃げていく。逃げ遅れた蝙蝠がいれば、リベリオンたちは容赦なくはね飛ばした。
サナエはなるべく蝙蝠が多く群がっているポイントへ向けて走った。
「相手は魔女!ワタシは悪魔人間!悪魔に力を由来する者であれば、近づけばどこにいるかわかるかもしれない!」
心配なのはツグミだ。実際、その方向へ蝙蝠の多くが群がっている。
「リベリオン!こうなったら奥の手を使いますよ!」
サナエはクラッチの上についたレバーを親指で押し、マサムネリベリオンに叫んだ。
「大変身!!」
その言葉に反応して、リベリオンの各部を覆っているカウルが、甲冑のようにサナエの体を包み込んでいく。逆にネイキッドバイクへと姿を変えていくリベリオンは、側面に取り付けられた日本刀をアームで掴み、サナエの腰に装着した。装甲はやがて仮面のようにサナエの顔まで包み、大きな丸い目が緑色に発光して輝く。
(怖くない!もう、魔女だって怖くない!!)
中村サナエは悪魔人間である。しかし、その戦闘力はあまりにも心もとなかった。だがスーパーバイク、マサムネリベリオンの力を借り、強化服を身にまとうことでそれを補うことができる。その姿こそが、(自称)正義の魔人、スイギンスパーダだ。
障害物の無い路面が終わり、前方に横倒しになった車が立ちふさがる。スパーダはむしろ速度を上げて、その車たちを飛び越えていった。
ツグミが隠れていたはずの電話ボックスに駆けつけたスイギンスパーダだったが、その電話ボックスは見るも無惨に破壊されていた。
「お兄さん!」
中村ジュウタロウも頭に鍋をかぶったまま、うつぶせに倒れている。助け起こすと、幸い命に別状は無いようだ。鍋を捨て、スパーダに向き合う。
「あんた誰?」
ジュウタロウは、目の前の人物(?)が妹の声で喋り、自分を「お兄さん」と呼んでも、彼女の正体がわからないようだ。
「正義の魔人スイギンスパーダです!」
「あ、そう」
「反応薄っ!?」
ジュウタロウからすれば「まぁ悪魔がいるくらいだから、そういう人もいるでしょうなぁ」くらいの感覚である。
「ツグミさん……いえ、さきほどの女の子はどこへ?」
「さっきタキシードの女がさらっていきましたよ。空を飛んでいきましたなぁ」
「ぎゃーっ!?そんなー!?」
探している魔女だろう。ツグミをさらわれたとあっては、ますます追いかけるしかない。
「どこへ行きましたか!?」
「あっち」
「指をさしただけじゃわかりませんよ!」
「そうでしょうかなぁ?ありゃ蝙蝠どもの大将でしょう。大将なら自分の兵隊たちを、山の陣地から一望しとるんじゃないですか?」
ジュウタロウが指さす方向を見て、それからやっとスパーダは理解した。
「わかりました!女の子は必ずワタシが救いだしてみせます!あなたも早く逃げて!」
「そう言われましても、私も仕事がありますから」
ああ、お兄さんはこういう人だった。スパーダはびしっと敬礼をし、ジュウタロウもまたよろよろと敬礼を返す。彼女はバイクにまたがると、甲高いエキゾーストノートを残して走り去った。
ジュウタロウは修羅の巷を走り去るスパーダを見送った後、ひっくり返っている公衆電話を地面に置き直す。
「つながるといいんだが」
電話機が破損して中に溜まっていた硬貨がばらまかれているというのに、ジュウタロウはわざわざ自分の財布から10円玉を何枚も抜き出す。幸い、電話はまだ生きていた。
「捜査一課の中村です」
「中村さん?どうして110番の方にかけているんですか?」
オペレーターの困惑した声が返る。
「直通回線の番号を忘れてしまいまして。今から言う人を呼び出してもらえませんか?」
保留音を聞きながら、ジュウタロウは『でくのぼう』なりに、一生懸命考えてみる。逃げ遅れた市民を安全な場所へ避難させなければならない。しかし、窓まで突き破ってくる蝙蝠を相手に、安全な避難先は限られる。安全であるとしたら地下道だ。幸いすぐ近くにある城西駅地階には、東西に地下道が長く伸びている。あれだけの広さなら、逃げ遅れた人たちを収容するには十分だろう。
しかし問題が二つあった。まずは人々をそこまで誘導しなければならない。それは人数さえ集めればなんとかなるだろう。だが次に問題になるのが、蓋。シャッターで隔離できる駅内はともかく、外部へ繋がる地下道の出入り口は、いわばただの穴だ。蝙蝠が入ってこないような蓋がいる。しかも、避難が完了するまで人間だけは出入りできるような。
電話の保留音が止まり、望んでいた人物の声が返ってくる。
「はい、本田です」
城西署交通課巡査長、本田マサル。署の中では数少ない、中村ジュウタロウの理解者だった。二人はしばらく会話をし、通話を終えた。本田は自らもヘルメットをかぶると、白バイ隊員たちに号令をかける。
「全員出動だ!」
突然の衝撃に襲われたせいで目を回していたツグミが、正気に戻ったのは、空中だった。自分の体が風を切って飛んでいる。それも、誰かに抱きかかえられて。
「はっ!?……えっ!?」
「お目覚めですか、お姫さま?」
蝙蝠の魔女セキショクウインドは、そう言ってツグミの顔を覗き込む。
『生き残った女の子』
ちょっとした女傑のようなものを想像していたのだが、実際に抱きかかえた少女は、むしろ小動物のように怯えて震えている。イメージとは違ったが、むしろそれがたまらなく愛おしく感じられた。この娘であれば直接食べるのもやぶさかではないが、今は自分の仕事を優先しよう。
蝙蝠の魔女の手で丁重に降ろされ、タワーマンションの屋上へ足をつけたツグミは、目の前にいるタキシードの少女に尋ねずにはいられなかった。
「あなたは誰なの?」
「はじめまして。僕の名前はセキショクウインド。お目にかかれて光栄です、村雨ツグミさん」
そうやってウインドは慇懃に頭を下げる。なぜ自分の名前を知っているのか。理由は一つしかない。この人も蜘蛛の魔女の仲間なんだ。
「これはあなたがやっていること?」
「そのとおり」
「タワーマンションの女の人を殺したのも……」
「いかにも」
ツグミは屋上を見回した。おそらく階下へとつながっているだろう出入り口が一つあるが、鉄のドアに鎖が巻かれていることから、南京錠か何かで向こうから施錠されていることがわかる。高度ははるか60メートル以上。もしも飛行能力を持っていなければ、魔法少女でさえ墜落死は免れない。ただの人間ならなおさらである。ここは一種の密室であった。
「どうしてそうやってみんなを苦しめるの?わけわかんないよ!」
「仕事ですから」
涙目になるツグミに向かって、こともなげにそう言ってみせる。
セキショクウインドが定期的に人を襲っていたのも、本人のエゴばかりが理由ではない。自分が使役する蝙蝠の数を増やしておく必要があったからだ。それは事実上の主人ともいえるオウゴンサンデーが、魔法少女の世界を作るためだ。反抗勢力を粛清する、一つの方法として準備させていたものである。それが今すぐ行われることになったのは、アケボノオーシャンとオウゴンサンデーの決裂が原因だ。見せしめのメッセージである。
「あなたたち魔女だって、元々は私たちと同じ人間だったのに!ひどいよ。その力だって、迷子を探すとか、牛乳配達をするとか、誰かが喜ぶ仕事をしようって、思わなかったの?」
サナエの顔が脳裏をよぎる。
「力を持たない者がそういう幻想を見るのは、よく理解できます。僕にもそんなことを考えていた時期がありましたよ。正しく力を使って人助けをしようって甘い幻想を抱く時期が。でも、魔女だろうが閃光少女だろうが、実際に力を得れば誰しも変わるのです。力を得るほど、より欲望に忠実になる」
「そんな力、無くなっちゃえばいいのに!いったい何が欲しいのかわからないけれど、みんなをこんな目にあわせるなんて、間違ってるよ!」
「卵が……ですね」
「はい?」
唐突に脈絡のない事を言われて混乱する。
「最近、高いのですよ。おかげで食費が馬鹿になりません。息子たちに食べさせていかなければいけませんし。だから、息子たちに血をふるまえる仕事は大歓迎ですね」
人は感情が高ぶりすぎると、かえって冷静になることがある。今のツグミがそうだった。彼女の体の震えがピタリと止まる。しかし彼女を高ぶらせているのは恐怖の感情ではない。それは既に消えていた。怒りだ。ツグミは歯をくいしばる。
(この人でなし……!)
人間の命を、文字通り食い物としかとらえていない。そしてその中には、糸井父娘も含まれている。ツグミはそんな女の顔面を、卵のように叩き割りたくなった。ツグミの拳がウインドの顔へ飛ぶ。
「おっと」
「!?」
ツグミの拳は速かった。しかし、ウインドの動きはさらに速かった。彼女の拳を掌で受け止め、握って離さない。
「『生き残った女の子』……アンコクインファナルに襲われながらも生還したと聞いて、僕はグレンバーンのような典型的な女傑を想像していました。しかし、どうやら違うらしい」
「え?なんで?とれない……?」
ツグミは自分の拳を引っ張ってみたが、貼り付いたように動かなかった。強く握られているわけではないのが余計に不気味である。
「君はどこまでも優しく、争い事を好まない。しかし、一度暴力をふるうと決めたら、一切躊躇しない。相手が泣こうがわめこうが、徹底的に何でもできる。まさに勝負に弱くて喧嘩に強いタイプだ。君が生き残った理由がわかりましたよ。グレンバーンが男性的な強さであるとしたら、君の強さは、まさに女性のそれだ」
その瞬間、ウインドはツグミの拳を通じて、彼女の体に波動を流しこんだ。
「えっ!?えっ!?」
ツグミの足の力が抜けて、体がその場にへたりこむ。痛みはない。むしろ力が抜ける瞬間に気持ち良ささえ感じた。
「しばらく、そこで待っていてください。仕事が済みましたら、あなたが帰るべき場所へご案内します」
「帰る場所って何!?アヤちゃんを返してよ!!」
ツグミは悔しさに涙を浮かべる。まさにツグミの帰るべき場所、糸井アヤを奪ったのは、あなたたちではないか。しかし、そんな魔女を相手に、今の自分はあまりにも無力だった。
「?」
ウインドが辺りを見回している。ツグミもやがて気づいた。バイクの音だ。しかも、どこかで聞き覚えがあるような排気音が、どんどん自分たちへ近づいてくる。しかも、下から。
マサムネリベリオンだった。重力を無視するスーパーバイクは、タワーマンションの壁に沿って上向きに走り、その勢いのまま空中へ飛び上がった。バイクにまたがる、子供向け番組のヒーローのような姿の何者かがツグミたちの前に現れる。ツグミはその人物(?)もバイクも初めて見たが、銀色と赤色に半分ずつ塗り分けられた彼らには、あきらかに既視感があった。やがてバイクは重力に引かれ、ドスン!という重たい音と共に屋上に着地する。
「ツグミさん!大丈夫ですか!?」
「えっ!?その声、サナエちゃんなの!?」
サナエ本人もそうだが、バイクまで見た目が変わっている。既に覚悟を固めていたサナエは、ウインドと対峙しても恐れを感じていなかった。
「サナエちゃん!その人……!」
「わかっています!今回の事件の犯人でしょう!?それにツグミさん、一つ訂正しておきます」
サナエは、自身に親指を向ける。
「今のワタシは正義の魔人、スイギンスパーダです!」
「スイギン……スパーダ……?」
そんな様子を、まるで寸劇でも鑑賞するような心境で眺めていたセキショクウインドは、やはり慇懃に頭を下げて自己紹介を行う。
「はじめまして、スイギンスパーダさん。僕の名前はセキショクウインド。ご明察の通り、この街を苦しめている犯人です。どうぞ、お見知りおきを……」
「えっ!?あ、これはどうも……」
セキショクウインドは握手を求めて手を差し伸べ、スパーダも思わず右手を差し出す。
「スイギンなんとかさん!だめぇ!」
自分と同じように波動を流しこむつもりだ!そう察したツグミが叫ぶが、二人の手はもう触れてしまっている。
(何者か知りませんが、魔女の敵ではありませんね)
ウインドは相手をすっかり侮っていた。ツグミとスパーダの会話から察するに、このヒーロースーツもどきは、認識阻害魔法さえ使っていない。つまり、これはただの強化服だ。魔法少女が自分たちの衣装に認識阻害効果を優先するのは、本人が強いからである。よって、強化服に頼る者の実力など、たかが知れているだろう。
それに、敵が握手を求めてきたからといって、簡単に手を差し出すなどとは、迂闊にもほどがあった。
(見たところ空も飛べそうにない。適当にしびれさせて下に落としておきましょう)
ウインドはスパーダの手を通して波動を流し込んだ。たしかな手応えを感じてスパーダの顔を見る。
「!?」
奇妙なことにスパーダは微動だにしていない。しっかりと立ったままだ。ウインドは続けて二度、三度と波動を流し込む。たしかに流れてはいるのだ。
「どうしたんです?ワタシ、なんかやっちゃいました?」
大きな丸い目を緑色に光らせながら、首をかしげている。
「君は……!?」
ここでウインドはやっと気づいた。流し込んだ波動は、まるで落雷がアース線から逃げるように、スパーダを包む装甲を伝って、地面へと拡散していくではないか。
(ただの強化服ではない!?こんな物は、上級の悪魔にしか作れない!)
「ところで……敵が握手を求めてきたからといって簡単に差し出したヒーローの手を、いつまでも握っているのは迂闊にもほどがありますね」
「なっ!?」
ウインドは自分の右手が、いつの間にか万力のような力でスパーダに締め付けられていることに気づいた。右手を離そうにも離せない。すぐにスパーダの顔面へ左の拳を何発もお見舞いするが、金属音だけが虚しく響き、ビクともしない。
「降参するなら今のうちですよ!」
スパーダはウインドの右手を力まかせに振り回し、タワーマンション階下への唯一の出入り口へ叩き込んだ。ウインドの体が、鉄のドアごと鎖を引きちぎり、階段の踊り場まで落ちる音が聞こえる。
「ツグミさん!逃げてください!」
「足が痺れて動けないの!」
「じゃあ手で這ってください!……うわっ!?」
翼を広げたウインドが出入り口から飛び出し、勢いよくスパーダの胴体を蹴ると、彼女の体が3メートルほど後退した。ダメージはあまり無さそうだが、もしも踏みとどまれずに屋上から落とされていたらアウトだっただろう。
「降伏の件、謹んでお断りいたします」
スパーダはいつの間にか右手に日本刀を持っていた。腰に差してあったのを抜いたのだろう。
(魔法付与はされていない。本当にただの、古い日本刀だ)
奇妙だった。上級悪魔の強化服を身にまといながら、その手に握られているのはただの人間が作ったであろう鉄の刀だ。ウインドはそれを指差しながら嘲る。
「まさかその右手に持った、ただのつまらない刀で僕を斬ろうなどと、浅はかな事を考えていませんよね?」
「いいえ」
スパーダは首を横にふる。
「あなたを投げた時にすでに斬りました。浅かったのは、傷口だけです」
ウインドの首筋に、ゆっくりと赤い線が広がった。彼女が指をそれに這わせると、赤い血が付いている。
(抜き打ち!?いつ刀を抜いたのか見えなかった)
「日本陸軍伝軍刀操法、基礎居合一本目、正面の敵」
スパーダがそうつぶやく。
「ワタシに剣を教えてくれたお爺ちゃんは言っていました。この技は、20世紀に多くの弱き者たちを苦しめてきた。21世紀のこれからは、弱き者を助ける天の刃にしなさい、と」
悪魔の力と人間の技、二つの業が魔女を追い詰める。
「やーっ!」
刀を八相に構えたスパーダが突進してくる。ウインドはすかさず鎖をその刀へ向けて投げつけた。さきほど閉鎖されたドアに投げつけられた時、そこに巻きつけられていたのを持ってきていたのだ。鎖は刀に絡みつき、ウインドが引っ張るとスパーダの手から離れたが、スパーダは構わず突進を続ける。
「くっ!?」
スパーダはウインドをそのままタックルで押し倒し、馬乗りになった。左のパンチがウインドの顔を襲う。
「これは殺された女の人の分!」
金属が肉を打つ音が屋上に響く。
「これは苦しめられている街の人たちの分!」
右のパンチがウインドの顔に叩きつけられる。
「ちっ!!」
ウインドの右手の指が黒く変色し、鋭利な爪のように長く伸びた。それでスパーダの胸を斬りつけるが、ダメージは入らない。
「そしてこれは!大好きなお兄さんの分だー!!」
(まずい!!)
ウインドは両腕をクロスさせてスパーダの攻撃から身を守ろうと防御する。スパーダはかまわず両手を組むと、その防御の上からハンマーパンチを叩きこんだ。重機のようなパワーがウインドの両腕の骨の髄にまで響いた。
(すごい……!サナエちゃんって、本当はこんなに強かったんだ……!)
ツグミはまだ足に力が入らないが、なんとか手をパタパタと動かし、ここから逃げようとしている。
スパーダの猛攻はなおも続く。
「これも、お兄さんの分!!これも、お兄さんの分!!これもこれもこれも、みんな!お兄さんの分です!!」
(いったい何人のお兄さんがいるんだ!?)
そしてこれから、どれだけの『お兄さん』が続くというのか?ここにきて初めてウインドはスパーダに戦慄を覚える。一体こいつは何者なのか!?と。
しかし、この時。サナエ/スイギンスパーダは気づいていなかった。自分の身に進行中のある変化を。
「おい、君!」
その変化を最初に気づいたのは、敵のウインドの方だった。
「それ、どうなっているんだ?」