58 野望の女①
仰向けの状態で放り投げられたので、視界いっぱいに星空が広がる。
夏の夜空はとてもきれいで、風が気持ちよくて――
(え……ええええええ!?)
「い、いやぁぁぁ……!?」
「シェリル!」
ごうっと耳元で風が鳴ってシェリルは悲鳴を上げたが――たくましい声が夜空を震わせ、どくん、と胸が鳴った。
地上三階から放り出されたようだが、シェリルの体は地面に叩きつけられることなく、ふわりとした何かに背中を受け止められた。
そして腕を引っ張られてくるんと体が反転し、がっしりとした両腕に抱きしめられる。
「シェリル……よかった、無事だったか……!」
いつもなら「内臓破裂が」「骨折が」と戸惑う彼が、ぎゅうぎゅうとシェリルの体を抱きしめている。
声を震わせ、シェリルの肩に顔を埋めている。
(助けに、来てくださった……!)
「エグバート、様……」
「体は、大丈夫か? 痛いことや、怖いことはされていないか?」
「ジ、ジャレッド様からは変なことは……あ、それより! あの、ジャレッド様が、ミルワード夫人と……」
「ああ、知っている。……あいつ、ミルワード夫人たちを上に集め、一網打尽にしようとしたようだ」
エグバートはもう一度シェリルを抱きしめると、ようやく少しだけ身体を離してくれた。
そうしてやっと彼の顔をきちんと見られたが、いつもはきれいに整えている髪は乱れており、簡素な鎧や上着には泥汚れが付いている。
周りで騎士らしき者たちが倒れている黒尽くめの者たちを縛り上げたり、魔道士たちが負傷者の手当をしたりしていることから、この庭でも一悶着あったのだと分かった。
そこでシェリルは、エグバートが少し目を細めて自分を見ていることに気付き、ぎゅっと拳を固めた。
「あ、の……私、ジャレッド様には、何も……」
「分かっているよ。……ジャレッドにも、困ったものだ。いくら私のためとはいえ、こんな……」
「エグバート様?」
「……ああ、降りてきたな。最後の仕上げをしなければ」
エグバートが顔を上げたのでそちらを見ると、屋敷の玄関前で旧王国軍らしき者たちと救出部隊がにらみ合っていた。
そのときに気付いたが、シェリルの後でリンジーも窓から放り投げられたようで、騎士に介抱されて体を縛っていた縄を解かれている。
遅れてシェリルは自分がエグバートに抱えられていることに気付き、胸をとんとんと叩いて下ろすよう指示した。
彼は少し迷ったようだがなおもシェリルが無言で訴えると、渋々ながら下ろしてくれた――が代わりに手を繋ぎ、そのまま玄関の方へ向かっていく。
「旧王国軍の者よ。そなたらの行為は既に、女王陛下も知ることとなっている。……ミルワード夫人を介してアディンセル家の転覆を狙っていたようだが、それも今日までだ」
エグバートが朗々とした声で告げるのを、シェリルはきゅっと唇を噛みしめて聞いていた。
(ミルワード夫人は……最初からこうするつもりで、私たちに接してきたの……?)
あの派手な紫色の髪飾りも、優しい言葉掛けも、全て、自分の野望のため――旧王国軍に与し、アディンセル家の滅亡を狙うためだったというのか。
(でも、どうやって女王陛下たちを害しようとしたんだろう?)
シェリルの疑問に応えたのは、旧王国軍を断罪するエグバートだった。
「そなたらは最初こそ、ストックデイル家の生き残りである私を利用し、傀儡として王権復帰を狙おうとしたようだな。だが、私が女王陛下に忠誠を誓い、妻のシェリルと過ごす日々を望んでいると知って、作戦を変えた。……そうでしょう、ミルワード夫人?」
エグバートの呼びかけに応えたのは、ふらつきながら玄関に出てきたミルワード夫人だった。
あの三階の部屋でシェリルを詰っていたときとは全く違う、よぼよぼの頼りない足取りでやって来たミルワード夫人はエグバートを見ると、にたりと笑った。
「……は、ははは。本当に、頭の悪い馬鹿な王子様だこと。いいこと、エグバート? おまえが大切そうに寄り添っているその女は、おまえ以外の男の子を孕んでいるかもしれないのよ?」
「そんなことないよな、シェリル?」
「ないです。ジャレッド様とは本当に、何もありません」
「ああ、了解した。……本人がそう言っているので、私は妻の言葉を信じている」
聞かれたのでシェリルが即答すると、エグバートは頷いてミルワード夫人の方を見た。
これにはミルワード夫人たちもあっけにとられたようだが、徐々にその顔が憤怒の色に染まっていく。
「……本当に、本当に、かわいげのない、馬鹿王子め! 無能のくせに、役立たずの廃品のくせに、生意気な口を利いて! おまえの嫁も嫁よ! そんな野暮ったい芋娘に愛嬌を振りまかなければならなかったわたくしの気持ちが、分かって!?」
「あなたの個人的事情など、どうでもいい。……あなたは、私を傀儡にできないと分かって……シェリルが産む子を利用しようとしたのだろう」
エグバートの冷静な言葉に、シェリルはようやく旧王国軍やミルワード夫人の意図が分かった。
現王家を潰したい旧王国軍だが、それには旗印となる者が必要だ。
第一王子ウォーレス亡き今、担ぎ上げられるのはエグバートだけ。
だが、そのエグバートに野心がなく、むしろ女王に忠誠を誓っているのならば?
道理も分からない子どもならともかく、二十四歳のエグバートを操るのは不可能だと判断したミルワード夫人たちは、ストックデイル家の血を継ぐ別の者――まだ生まれてもいない、シェリルの子に狙いを定めた。
(エグバート様を生かす必要もない、と言っていた。つまり……)
シェリルがエグバートによく似た子を産んだら、エグバートを始末する――それもきっと、冤罪などを掛けて。
夫の死を嘆くシェリルに、ミルワード夫人は優しく接する。そうしてエグバートの子を取り上げ、場合によってはシェリルをも殺し――ストックデイル家最後の生き残りの子を旗印として、革命を起こすつもりだった。
アディンセル家の者が存命している以上、エグバートの子に王位継承権はない。
だが、一年半前の革命がその「特例」だ。
エグバートを死なせた女王への復讐、を大義名分として王家に反旗を翻す。
これだけでも革命の材料にはなるし――もしここで娘や婿を亡くしたディーンをも口説き落として味方に入れられたならば、多くの戦力が革命軍に集まることになる。
それは、必ず勝つとは言い切れない危険すぎる賭けだっただろう。
だが――全てを失ったミルワード夫人は、旧王国軍は、微かな望みに縋って賭けを始めた。
エグバートやシェリルたちを犠牲にすることを、厭わずに。
(ジャレッド様はその情報を事前に手に入れて、旧王国軍を釣りだすために私を誘拐した、ってこと……なのかな)
シェリルがぎゅっとエグバートの手を握ると、彼の大きな手は優しくシェリルの手を握り返してくれる。
シェリルもエグバートも、生きている。
そしてジャレッドはあんなことを言ってミルワード夫人たちを挑発させたが、実際はシェリルの身を穢すようなことはしていない。
夫人たちの作戦は、潰されたのだ。




