55 騎士の企み
夜になった。
「ほら、お嬢様。そろそろこれがほしくなってきた頃でしょう?」
「……」
ジャレッドがベッドの上まで迫ってきたので、シェリルは真顔で首を横に振り、ずりずりと後退した。
いっそベッドから降りたかったのだが、ある程度後じさったところでシェリルの足を拘束する細い鎖がかしゃりと鳴り、シェリルの逃げ道を奪う。
この鎖には、体力を奪う魔法が込められた魔法石が埋め込まれている。そしていつの間にか付けられていたチョーカーにも封魔効果のある魔法石が付いており――シェリルは、魔法を使って逃げることができなくなっていた。
「お嬢様! おのれ……お嬢様に近づくなっ!」
部屋の隅では、縛られた状態のリンジーが叫んでいる。彼女は魔道士ではないので魔法石付きの拘束具ではなく、普通のロープで足と手首をぐるぐる巻きにされていた。
シェリルは、城下町で出会ったジャレッドに薬のようなものを嗅がされ、リンジーもろとも連れ去られてしまった。
そうして誘拐犯であるジャレッドは楽しそうに笑いながら、シェリルに迫ってきて……。
――ぐう、とシェリルの腹が鳴った。
「ほーら、体の方は素直ですよ。これ、ほしいでしょう? お腹が空いたでしょう?」
そう言って笑うジャレッドは、ケーキを差し出してきている。ふわんと甘い果実の匂いが魅力的な、おいしそうなバターケーキである。
彼に何をされるのかと怯え、迫ってこられたときにはシェリルも大暴れしたのだが、彼は飲み水やら食べ物やらをかいがいしく持ってきただけだった。
しかも、シェリルが「お手洗いに行きたい」と言うと、黒いフードを被った女性を呼び、手洗いまで連れていってくれた。
そしてリンジーも今でこそぐるぐる巻き状態だが、体が痛くならないように時々紐の具合を調節するし、こちらも女性を呼んで用足しなどができるようにしている。
(……これはいったい、どういうことなんだろう?)
夕方頃に誘拐され、今が夜だということは分かる。
だが窓にはしっかりカーテンが掛かっており、ジャレッドが「俺の屋敷」と呼んだここがどこにあるのか、ちっとも見当が付かない。
(……あれ? ジャレッド様の屋敷……前、どこかで聞いたことがあるような……)
何かが引っかかって一生懸命考えようとするが――
ぐう、とまたしても聞こえてきたのは、今度はリンジーの腹の音だったようだ。
床に転がされていたリンジーはシェリルとジャレッドの視線を浴び、真っ赤になった。
「わ、私のことは放っておいてください!」
「……とメイドお姉さんは言ってますけど、このままだと彼女、飢え死にしますよ?」
こちらを見て、ジャレッドがとんでもないことを言う。
「それに、お嬢様。あなたも結局、何も食べていないし飲んでいないでしょう。今日はまだそれほど暑くないとはいえ、この時季に水すら飲まないのは、まずいです」
「だ、だからってのんきに食事なんて……」
「これは優雅なディナーなんかじゃありません、生きるために必要なことです」
「誘拐犯に言われても、説得力がありません!」
シェリルはつんっとそっぽを向くが、またしても素直な腹が空腹を訴える。今日は屋敷に帰ってからお茶を飲む予定だったので、昼食以降何も食べていないのだ。
悔しさと恥ずかしさでシェリルが顔を真っ赤にして睨むと、ジャレッドはケーキの載った皿を引っ込めて苦笑した。
「やれやれ、エグバート様の前では素直で可愛らしいお嫁さんみたいですが、俺の前では威嚇する子猫のようですね」
「子猫だろうと大猫だろうと結構ですっ」
「でもですね、あなたたちに死なれたらさすがに困るんですよ。だから、観念して食べてください。……ほら」
ジャレッドはそう言うと、水差しの中身をコップに注ぎ、ぐびぐびと呷った。
そして甘い匂いを放つケーキも小さく切り、「俺は甘いの、あんまり好きじゃないんですけどね」とぼやきながら、それを口に放り込んだ。
「……んー、甘い。これ、城下町で買った普通のケーキです。この飲み物も、普通の水に柑橘類の汁を混ぜただけです。毒なんて入っていません」
「……なら、魔法で確認させてください」
「あ、毒発見の魔法が使えるんですね。あー、でもその拘束具を外したら、この屋敷をぶっ飛ばされるかもしれないでしょう? だからちょっと勘弁してください」
ジャレッドはそう言うが、シェリルは少なくとも今すぐにこの屋敷を爆破するつもりはない。
(ジャレッド様の意図が、分からない……)
彼は日中堂々とシェリルとリンジーを誘拐し、この屋敷に放り込んだ。シェリルには魔法を使えないようにする拘束具を付け、リンジーは紐でぐるぐる巻きにしたが、暴力などは一切受けていない。
しかもジャレッドの言い分では、彼はシェリルもリンジーも殺すつもりはない――むしろ、死なれては困ると言わんばかりだ。
「……どうして、私たちを誘拐したんですか」
「あ、それ言ってなかったですね、すみません。あなたたちを誘拐したのはまあ、囮にするためです」
……どうせ返事はないだろうと思っての問いだったが、あっさり打ち明けられた。
これにはリンジーも驚きだったようで、ばたばたもがいていた彼女も動きを止め、目を丸くしてジャレッドを見つめていた。
「……お、囮? そのために、お嬢様を?」
「そういうこと。あ、でもご安心ください。もし事が全てうまくいけば、あなたたちを無傷のままお返しすることができますので」
ジャレッドは滑らかに言うが、彼の意図がちっとも分からない。
シェリルが眉根を寄せて考え込んでいると、食器棚から新しいグラスを二個取り出したジャレッドが振り返り、にっこりと愛想よく笑った。
「エグバート様は、絶対あなたを見捨てたりしません。必ず、来てくださいますよ」
「……。……まさかあなた、私を囮にエグバート様を……」
「あー、違う違う! そんなことするわけないじゃないですか!」
「でも、エグバート様が来るって……」
「ええ、そうですよ。でもですね、お嬢様。物事には順序ってものがありまして。俺の計画では、エグバート様が来るまでもうちょい掛かるんです、というか掛かるようにしているんです。その前に大勢のお客さんが来るはずなので、その波さえ越えれば大丈夫ですよ」
「何を――」
そこでふと、シェリルはいつぞやのジャレッドの言葉を思い出す。
『旧王国軍にしても何にしても、手っ取り早く一網打尽にする方が楽なんですよね』
『大きな目的のためなら小さな味方の犠牲をも厭わないあの王のような姿勢というのは――時には必要なのかもしれない、と思うんです』
「……ジャレッド様、あなた、まさか――」
「んー、多分、お嬢様の考えてらっしゃることで八割正解でしょうね。でも、今お話しできるのは、ここまでです」
片手を挙げて「待った」の仕草をし、ジャレッドは笑う。
「別に俺は、あなたに隠しごとをしたいわけじゃないんですけどね、あまりにも詳しく伝えすぎて、いざというときに口を滑らされても困るんで」
ジャレッドは笑いながらのらりくらりかわしているが――これまでの彼の言動とこの状況を鑑みれば。
「……ジャレッド様。あなたは私を囮に――旧王国軍を釣るつもりなのですね」
「……」
「その途中過程はまだ読めませんが、私の存在は旧王国軍にとって邪魔か、必要かのどちらか。エグバート様の到着を遅らせるということは、救出部隊が来るまでに旧王国軍にこの屋敷を襲撃させるつもり……なのですか?」
「やっぱり八割方正解ですねー」
ぱちぱちと手を叩くジャレッドからは、いらつきなどは一切感じられない。
あくまでもいつもどおり陽気な彼で――それが逆に、恐ろしかった。
「罰なら、いくらでも受けるつもりです。首を寄越せと言われたなら、喜んで断頭台に立ちます。……でも、それでも俺には、守りたいものがあるんです。男爵令嬢の誘拐犯になっても、エグバート様に嫌われても――それでも」
そこでついっとそっぽを向いたジャレッドは、シェリルたちに背を向けた。
「ジャレッド様!」
「俺の予想では、お客様の来訪は夜中、そしてエグバート様たちの到着はその後になります。翌朝までには、全てが終わり、全てが片づきます。……それまでの辛抱、お願いします」
言うだけ言い、ジャレッドが立ち去ろうとする。
あのドアを開ければ、彼はいなくなる。
ただ単にこの部屋から出ていくという意味だけでなく、もっと遠く、手の届かないところに行ってしまい、取り返しの付かないことになってしまうような気がして――
「っ……エグバート様は、あなたのことを嫌いになんてなりません!」
ベッドの上に膝立ちになったシェリルが叫ぶと、ドアノブに手を掛けていたジャレッドの背中が、ぴくりと震えた。
「あなたが辛い思いをすれば、殺されれば、絶対に悲しまれます! エグバート様も女王陛下もきっと――ジャレッド様がご自分を犠牲にして何かを成し遂げようとすることを、よしと思われません。絶対に、悲しまれます……!」
「……お嬢様、あなたはやっぱり、いい人ですね。……いい人すぎます」
こちらを見ないまま、ジャレッドの背中が言う。
「罪を犯した者は、罰を受けなければならない。もしエグバート様や女王陛下が俺の行いを許したなら――それはいずれ大きな波となり、エンフィールド王国を崩すきっかけになる。女王陛下は俺を罰し、エグバート様は俺を殴って怒りを露わにしなければならない。……俺は、全てを覚悟の上で、あなたたちを攫ったんです」
「……」
「事がうまく進めば、あなたは夜明けには自由の身になっている。……愚かなことをしたこの俺を、どうかお許しにならないでください。俺の罪を暴き、罵倒し、重罰を望んでください。そうして――どうか。エグバート様と、お幸せに」
「ジャレッド様!」
鎖をしゃらしゃら鳴らせながらシェリルは詰め寄ったが、ジャレッドはもう何も言わずに部屋を出ていってしまった。




