51 甘いわけ
記念式典の帰りの馬車にて。
「……も、もう! 本当に、びっくりしたんですからね!」
「私も、まさかあのような質問をされるとは思っていなかった」
「そのわりに即答だったし、涼しい顔だったじゃないですか!」
「私がシェリルを愛しているのは、真実だからね。なにも躊躇う必要はない」
エグバートがなおも涼しい顔で言うので、シェリルは抗議の意味を込めて彼の胸をぽかぽか叩いた。
ごく弱い力に抑えてはいるのだが、殴られているというのにエグバートは幸せそうで、「なんて可愛い攻撃なんだ。私の敗北だ」と笑顔で言っている。
今、男爵家の馬車に乗っているのはシェリルとエグバートだけだ。行きはディーンも一緒で彼は今夜屋敷で寝るとのことなのだが、「知人と一杯飲んでから帰る」ということなので、城で別れた。
ちなみにこの馬車はシェリルが大柄なエグバートと並んで座ってもゆとりがあるくらい座席の幅には余裕があるのだが、エグバートのおねだりにより、シェリルは夫の膝の上に横座り状態になっていた。
ふわふわの座面よりも硬くて安定しにくい椅子だが、シェリルがころんと転がり落ちないようにエグバートの手が腰を支えてくれているし、エグバートに寄り添うこと自体は嫌ではないので、シェリルも甘んじて受け入れていた。
「それにしても……今回参加したことで、色々といい方向に動けばいいんですけどね」
先ほどまでは照れ隠しのために叩いていたエグバートの胸元をさすりながら言うと、彼は頷いた。
「悪くはならないだろう。……さすがにミルワード夫人のもとに招待状は送られていないが、個人的な書簡は女王陛下のもとに届いているそうだ。そこにも、私たち夫妻のことを認め、応援する旨が書かれていたという。これも決定打になるな」
ミルワード夫人とは、最近これといった接触はない。
定期的に手紙が届くくらいだが、彼女は王宮にいる元妾妃派にもかなり圧力を掛けているようで、そういうこともあって元妾妃派や旧王国派の者は意気消沈しているという。
(ストックデイル家の生き残りであるエグバート様と元妾妃のミルワード夫人が女王陛下のもとに下ったのなら……旧王国軍派も、手を出しにくくなる)
シェリルには難しいことはよく分からないが、きっとこれでマリーアンナの治世はよくなるはずだ。
「……エグバート様」
「何だい?」
「これから先、もっと平和になったら。旧王国軍派もいなくなって、王都の外にも気軽に出られるようになったら……私、エグバート様と一緒に色々な場所に行ってみたいんです」
シェリルの言葉に、エグバートが少し目を丸くした。
シェリルはそんな彼の胸元に頬を寄せる。
「広い草原を馬に乗って走ったり、小川で遊んだり。それから、お弁当を持って森に行くのも楽しそうですし……私、一度もエンフィールドから出たことがないので、いつか外国に旅行にも行きたいです」
「……そう、だな」
「エグバート様は?」
「……私も正直、王都の外に出たことはほとんどない。だが……私も、あなたと一緒に色々な場所に出かけたい」
シェリルの腰を支えていた手の平が背中を滑り、肩を抱き寄せられる。
そうするともっと彼の胸元に密着することになり、どくどくと脈打つ心臓の音が、礼服の布地越しにはっきり伝わってきた。
「あなたが生まれ育った村に行き、ご両親の墓前に参りたいとも思っていた。それから……外国も、いいな。私の母の出身国、あそこも最近は情勢が落ち着いてきたそうだから、女王陛下の許可が下りれば、一度行ってみたいものだ」
「いいですね!」
「ああ。……あなたと一緒なら、どこに行くのも楽しそうだ」
そう囁いたエグバートの空いている方の手が、シェリルの顎に触れる。
そのままそうっと顔を上げさせられると、薄暗い馬車の天井と夫の美貌が視界に飛びこんできた。
「……その、こんなことを言うのは気が早すぎると分かっているが……もし私たちの家族が増えたなら、家族でも色々なところに行きたいと思っている」
「えっ」
「い、いや、すまない。さすがに逸りすぎだな。その……だからといってあなたに無理強いをするつもりはないから、安心してくれ!」
シェリルが動揺したからか、エグバートは慌てて言いつくろうが――顔を真っ赤にして戸惑う姿が可愛らしく、シェリルはくすっと笑って腕を伸ばし、エグバートの首元に抱きついた。
「そうしましょう。……まだ、そういうことは、分からないのですが……平和な世になったら、みんなでいろんな場所に行きたいです」
「……シェリル」
「……あ、でもその中に、父様は入れます? 誘ったら来てくれそうですが、嫌そうな顔をされるかも……」
「……はは、どうだろうな。だが、いずれ皆で行くにしても、その前に――二人きりの今のうちに、色々な場所に行き、色々な体験をし、あなたの色々な表情を見ておきたい」
エグバートの青の目が緩められ、「それでいいか?」と耳元で甘くしっとりと囁かれて、シェリルの体がびくんっと撥ねた。
「そ、それでいいです……それでお願いします……」
「了解した。……本当に、あなたは可愛らしいな」
「もし私が可愛く見えるのなら、それはあなたのおかげです」
さらりと口説いてくるエグバートを見上げ、シェリルは片腕を離し、つん、と夫の唇に人差し指を当てた。
きょとんとするエグバートの顔は、いつもよりずっと幼く見える。
「私、正直自分にそこまで自信があるわけではないですし、生粋の貴族の令嬢よりずっと地味な顔だって分かっています。……でも、それでも可愛いと言っていただけるのなら……あなたが私を磨いてくれたからなんです」
「私が?」
「はい。あなたが言葉で、手の平で、唇で、私を大切にしてくれました。だから、私はきれいになれた――こういったドレスを着ても似合うと言ってもらえ、たくさんの人がいる場所でも胸を張っていられるようになったのです」
男爵令嬢になったというのに屋敷に籠もり、毎日研究に明け暮れていた頃の自分とは違う。シェリルの花を開かせたのは間違いなく、エグバートなのだ。
シェリルが言葉を紡ぐと、エグバートはさっと片手で自分の口元を覆い、大きなため息をついた。
「……参ったな。本当に、私を武力で打ち負かせるのは男爵のみだとは分かっていたが……言葉で打ち負かせるのはシェリルだけのようだな」
「えーっと、どういたしまして?」
「……私があなたの花を開かせられたのなら、その花の手入れをし、ずっと美しく咲けるように守るのも、私の役目だな」
口元を覆っていた手が外れてシェリルの手首をそっと掴み、ちゅ、と指先にキスを落とす。式典中は薄手のグローブを着用していたが暑いので、今は脱いでいたのだ。
リンジーがきれいに磨いてくれた爪の先に愛おしげに口づけられると、胸の奥がそわそわしてきて、甘ったるいようなくすぐったいような感覚に身を包まれる。
「シェリル。式典でも言ったが……私はあなただけを、生涯愛する」
「エグバート様……」
「これから平和になっていく世を、私と共に歩んでほしい。……愛している、シェリル」
「……私も、愛しています……」
囁いた唇は、薄くて引き締まったエグバートのそれに優しく奪われ、呼吸すら絡め取られるような口づけが贈られる。
一度、離れた隙に二人とも呼吸を挟み、二度目には深く深く唇を味わう。
好きな人とのキスは甘酸っぱいらしい、と言っていたのはアリソンだ。
子どもながらに信じていたので、二人で森を散策したときに見つけた木の実の食べあいっこをして、どれの味に一番近いだろうかと言いあっていたのが、十年以上前のこと。
そうしていい年になった今分かったのだが、別にキスに味はしない。無味である。
だが確かにシェリルは、エグバートとのキスが甘いと感じていた。
なぜなのかというと――愛する人から贈られる大切な口づけだからなのだ、と子どもの頃の自分に、教えたかった。




