45 男爵令嬢夫妻のあれこれ・夜③
シェリルは微笑むと腰を屈め、すいっとエグバートの顔を覗き込んだ。
彼が恥じらうように顔を背けたので両手で頬を押さえ、視線を合わせさせる。
「それじゃあ、頑張ったあなたに先生からご褒美です。……何がいいですか?」
「……その、何でもいいか?」
「私にできる範囲なら」
「……では、私のことを呼び捨てにし、頭を撫でてくれないか?」
……どうやらこのたくましい美丈夫は、甘えん坊のようである。
彼がシェリルにお願いする「ご褒美」は、頭を撫でてほしいとか、頬にキスしてほしいとか、膝枕してほしいとか、そういうものであることが多い。
幼少期に実母を亡くし、養母からも目を掛けてもらえなかった彼の、反動のようなものなのかもしれない。
それに、普段はきりりとしている彼が甘えてくるのは、シェリルにとっても嬉しいことだ。
以前ミルワード夫人に言われたからではないが、夫が肩の力を抜いていられる時間をシェリルが作ってあげられるというのは、よいことだろう。
シェリルは頷くと中腰のまま、そっとエグバートの髪に指を通した。
ほぼ癖のないシェリルの焦げ茶の髪と違い、エグバートの髪は少し癖がある。
「お疲れ様、エグバート。今日もよく、頑張りました」
なるべく優しい声でゆっくり呼びかけながら頭を撫でると、エグバートは少し恥ずかしそうに頬を赤らめつつも幸せそうに目を細め、シェリルの手の平に甘えるように身をすり寄せてきた。
長い睫毛が彼の目元に影を落としている様は妖艶だが、幸福を表すかのように緩められた口元は、可愛らしいとさえ思われる。
(エグバート様……)
最後にさっと前髪を掻き上げ、軽くキスを落とす。するとエグバートは目を開き、ふふっと低い声で笑った。
「これは、最後に素敵なプレゼントをもらえたな」
「あなたはいつも頑張っているのですから、たまには私の方からと思いまして」
「ありがとう。……私からも、キスをしたい。してもいいか?」
こうしていちいち丁寧に許可を取ってくるのが、なんとも彼らしい。
シェリルが微笑んで頷くと、エグバートは腕を伸ばしてシェリルの腰を抱き、開いた足の間に寄せてきた。
シェリルが少し身を屈めると二人の目線の高さが揃い――そうっと、壊れ物に触れるように唇が重なった。
ちょんっと触れるだけの、戯れのようなキス。
すぐにエグバートの唇が離れたので、これでおしまいか……と内心寂しく思っていたシェリルだが、どうにもエグバートの様子がおかしい。
彼は「……今日こそ第二十八章の内容を」と呟いた後、そっとシェリルの頬を両手で包んだ。
「……シェリル、その……もう少し、深いものをしてもいいか?」
「深いもの……」
「私も不慣れなのでうまくできるか分からないが……口づけのときに、少し口を開いてほしい」
何かを決意したかのようなエグバートの言葉に、ぼっとシェリルの頬が熱くなった。
「深いもの」と言われたときからなんとなく察してはいたが。
(……でも、全然嫌じゃない)
「……はい」
「ありがとう。……シェリル、愛している」
エグバートはほっとしたように息をつくと、再びシェリルと唇を重ねた。
だが、シェリルがおずおずと唇を開くと、分厚いものが迫ってきた。
(こ、これがアリソンの言っていた、「大人のキス」……!?)
シェリルが興奮と期待でどきどきしつつエグバートのシャツの胸元をぎゅっと掴むと、エグバートの舌はシェリルの唇にちょんと触れ、遠慮がちに歯の隙間から差し込まれたかと思うと、すぐに引っ込められた。
エグバートの唇が離れて分かったのだが、シェリルは今の間ずっと呼吸を止めていたようで、体が急激に空気を欲して大きく息をついてしまう。
だがそれはエグバートも同じのようで、彼は肩を上下させて深呼吸し――顔を見合わせた二人は、同時に噴き出してしまった。
「ふふ……シェリル、顔が真っ赤だ」
「エグバート様だって、真っ赤ですよ。息、苦しかったのですか?」
「それは、まあ。呼吸の仕方が分からず……いや、すまない。もう少しじっくり上手にできればよかったのだが……」
「そんなことないです。……すごくどきどきして、嬉しくて、幸せになれましたもの」
確かにアリソンが言っていた「大人のキス」ほど熱烈なものではなかったが、シェリルには十分すぎるくらいだった。
恋愛に不慣れなのは、エグバートも同じだ。
ふれあいはぎこちなくて手探り状態だが、それでも同じときに同じ経験ができるというのは――とても幸せなことだと分かった。
ぎこちなくても、不格好でも、構わない。
こういうことを積み重ねて、二人は夫婦になっていけるのだとシェリルは思っている。
二人は顔を見合わせると、今度は触れるだけのキスをした。
唇が離れた後、たまらずシェリルがぎゅうっとエグバートの胸に抱きつくと、彼はくつくつと笑ってシェリルを抱き留めてくれる。
「……本当に、シェリルは可愛い」
「エグバート様も可愛いです」
「そこは格好いいと言ってほしかったな……だが、あなたに言われるのなら可愛いでも格好いいでも格好悪いでも構わない」
「格好悪いだなんて思っていませんよ」
「それくらい、私はあなたに惚れ込んでいるということだよ。……それじゃあ、先生。今日はこのあたりにして、そろそろ休む準備をしようか」
「今の私はもう、先生じゃありません。あなたの奥さんです」
「ふふ、そうだったな。……行こうか、奥さん」
休憩を挟んだことで回復した様子のエグバートが立ち上がり、シェリルの手を取る。
大きくて、温かくて、ゴツゴツした、愛おしい手の平。
「……はい。エグバート様」
指を精いっぱい広げて手を握ると、彼の大きな手も優しく握り返してくれた。




