40 男爵令嬢夫妻のあれこれ・朝から昼
前王妃の墓参りをしてから、約一ヶ月。
結婚をしてからだと、三ヶ月ほど。
結婚当初は髪の房に口づけられるだけでふらふらになり、エグバートの整った顔が直視できなくてどぎまぎしたものだ。
だが二人は手を繋ぐようになり、抱きあうようになり、一緒に寝るようになった。そして頬へのキスから始まって今では、唇へのキスをするようになった。
世の中の新婚夫婦と比べると、その歩みは非常に遅い方だろうと自覚している。
だがシェリルはいまだにエグバートの口説き文句の前に敗北するし、平常心を保とうとしても顔が熱くなり、慌ててしまうのが常だ。
以前、彼の着替え中に部屋に突撃してしまい、下穿き一枚のエグバートを見て悲鳴を上げてしまうことがあった。
男性の上半身裸くらいなら慣れたものだが、夫の――しかも芸術品かと見まごうような筋肉質な体を見ると、どうにも意識してしまい、悲鳴を聞いて駆けつけてきたリンジーに抱きついてしまった。
エグバートにはすぐに謝られたが、突撃したくせに勝手に絶叫したシェリルの方が圧倒的に悪いので、結局その場は謝り合戦になってしまった。
そしてエグバートもエグバートで、普段は甘い言葉でシェリルを翻弄するというのに、いざというときには動揺してしまうようだ。
(一昨日……かな。魔法の訓練中に私の体に触れてしまったときも、ものすごく謝られたっけ……)
最近彼は少しずつ魔法の才能を伸ばしており、今では握り拳大の炎を灯せるようになった。
だが大人になってやっと魔道士の素質を目覚めさせられた彼の魔力消費はシェリルたちよりもずっと激しいようで、すぐにふらついてしまう。
一昨日は授業中、専用の魔法石の上に炎を移すという課題を見事こなしたのだが、気を抜いた彼はぐらっと体を傾がせてしまい――結果、彼を抱き留めようとしたシェリルの胸に触ってしまった。
触るといっても、一瞬押さえつけられたかも、という程度だ。
シェリルとしては全く気にしていなかったのだがエグバートはゆうに十秒は硬直し、解凍したかと思ったら床に頭をこすりつける勢いで謝罪し、「あなたが望むのなら、この手を切り落として詫びる」とまで言う始末だった。
そんな二人なので、夜にいい雰囲気になってベッドに入っても、抱きあって寝るだけ。たまにエグバートの手が遠慮がちにシェリルのシャツの裾から侵入してくるが、腰あたりを撫でる程度。
しかも嫌らしさの全く感じられない優しい手つきなので、最初はどきどきしていたシェリルも彼の手の温かさに安堵し、すとんと眠りに落ちてしまう。
(……これって、変なことなのかな?)
少なくともシェリルは今の、温かくて少しもどかしいような関係に非常に満足しているし、エグバートの方も不満に思っているような素振りは見られない。
とはいえ、男性であるエグバートの気持ちが全て分かるはずもないので、シェリルは「その道」に詳しそうな人に意見を求めることにした。
「……それで、俺が選ばれたってことですね」
「はい! エグバート様は何か、ジャレッド様におっしゃっていませんか?」
ディーンからの届け物を持ってきてくれたジャレッドに問うたところ、リンジーが睨む中で茶を飲んでいた彼は苦笑し、頭を掻いた。
「そうですね……確かに日々、エグバート様からお嬢様のことは伺っていますよ」
「そ、そうなのですね」
「ああ、安心してください。伺うといってもほとんどは純粋なノロケで、俺もハイハイと聞き流すような内容なんで」
そうして、「これくらいならバラしちゃってもいいかな」とぼやいたジャレッドが教えてくれたことによると。
最近でも、エグバートのことを不良品扱いする貴族はいるらしく、中にはいつぞやの三色ドレスではないが、本人に聞こえるような場所で堂々と悪口を言う者もいるそうだ。
「以前のエグバート様は、そういう声が聞こえても絶対に言い返さなかったです。俺が代わりに物申すと言っても、悲しそうに微笑んで止められて。……でも、今は違うんですよ」
「どのように?」
「まず、エグバート様はご自分の悪口を言う者を見かけたら、真っ直ぐその者の方へ向かって行かれます」
そうして相手を捕まえると――いかに今の自分が幸せかを、訥々と語るそうだ。
エグバートは真面目で慎重な青年だから、よくも知らない人相手にシェリルのノロケをしたりはしない。
代わりに彼は至って真剣な表情で、淡々と、「私は今の日々に満足している」ということを語るそうだ。それこそ、相手の方が白旗を揚げて、「分かったから、もう解放してくれ」と泣き言を言うくらい。
「俺もその場で見ていたんですが……まー効果覿面でしたよ。これまでのエグバート様は何も言い返さないから連中も調子に乗ってたんですが、今のエグバート様に絡めば、三倍にしてやり返されますからね。しかも悪口とかじゃなくて純粋な幸せ自慢だから、文句を言うこともできない」
うまいやり方ですよねー、とジャレッドはぼやいて茶を飲んだが、シェリルは唖然としていた。
今のジャレッドが明かしたことは、色々な意味で驚きだが――
(……エグバート様、お強い……)
一番にシェリルの胸を占めたのは、夫への誇らしい気持ちだった。
これまでの彼なら、自分を「廃品」扱いする者がいても言い返せず、下を向くしかなかった。
だが前王妃の墓前で彼は、過去を抱えて前へ進んでいく、と宣言していた。そうして今の彼は、心ないことを言う者たちにも立ち向かい――しかも、真正面からぶつかっている。それも悪意に悪意で対抗するわけではないから、相手も何も言い返せないのだ。
もちろん、「今の日々に満足している」と彼がはっきり口にしたというのも、シェリルにとっては嬉しいことだ。エグバートが内心鬱憤を溜めていないか心配していたシェリルとしては、肩の荷が下りた気持ちである。
「そうなのですね……」
「はい。ミルワード夫人もお二人の仲を応援していることもありますし、今のエグバート様は向かうところ敵なし、って感じです。まあ、そもそもあの方、無茶苦茶強いですからね」
そう冗談めかしていった後、ふとジャレッドは真面目な顔になり、持っていたカップを下ろした。
「……俺は、エグバート様が幸せでいらっしゃって、本当に嬉しいのです。そして、エグバート様に幸福を教えてくださったお嬢様にも、心から感謝しております」
「え、ええ。どういたしまして」
「……正直なところ、まだエンフィールド王国の平和が約束されたわけではありません。陛下は旧王国軍の連中を追ってらっしゃいますし、いかにこちら側の被害を少なくして奴らを叩き潰せるだろうか、ということで頭を悩ませてらっしゃるのです」
真剣なジャレッドの言葉に、シェリルは唾を呑んだ。
(……そう、だ。まだ、絶対に安全というわけじゃない)
シェリルもアリソンから旧王国軍のことは聞いているし、ディーンもその件でしばしば調査に行かされているようだ。
王都は厳重な警備が敷かれているため、ここにいれば旧王国軍に襲われることはない。
だが、今でも彼らはどこかに潜伏し、自分たちを追いやったマリーアンナやアディンセル家への報復を狙っていると噂されていた。
王城でも三色ドレスの親のように渋々女王に従っている者がいるというのが、現状だ。
女王はそういう者たちをあぶり出し、一つ一つ叩き潰しているようなので、時間が掛かるのは当然のことだ。
「前にも言った気がしますが、旧王国軍にしても何にしても、手っ取り早く一網打尽にする方が楽なんですよね。でも、女王陛下はそういう手を取りたがらない」
「……一箇所に集めるのに労力が必要だし、これで犠牲になる人が出るから、ですか?」
村で行っていた害虫駆除方法を思い出してシェリルが言うと、ジャレッドはにっと笑った。
「お嬢様、結構いい勘を持ってらっしゃいますね。……まあ、そういうことです。女王陛下は確かに有能で魅力的なお方なんですが、味方に優しすぎるのです。俺は前の国王が名君だったとは露ほども思いませんが、大きな目的のためなら小さな味方の犠牲をも厭わないあの王のような姿勢というのは――時には必要なのかもしれない、と思うんです」
「ジャレッド様」
沈黙するシェリルの代わりに声を上げたのは、リンジーだった。
彼女に睨まれたジャレッドは慌てて身を起こし、顔の前で手を振った。
「ああ、申し訳ありません、言い方が悪かったですね。つまり、もしエグバート様のためなら、俺は喜んで囮にでも犠牲にでもなりますよ、ってことです」
「そんなこと……」
「ええ、女王陛下は許さないでしょうし……エグバート様にばれたら、顔の原型がなくなるまでぶん殴られるでしょう。でもですね、俺はそれくらい本気なんです」
ジャレッドはふにゃりと笑うと、なおも殺人的な視線を寄越してくるリンジーの方を気にしつつ、茶を啜った。
「騎士の性というか、エグバート様に剣を捧げた運命というか、そういうやつです。まあ、このまま何事もなく旧王国軍がぶっ潰されて、俺たちの誰一人傷つくことなく物事が終わればそれが一番です。そうなったら俺はこれからも末永くお嬢様方のイチャイチャ風景を眺め、お子様が生まれてからはそのご成長を見守ることを生き甲斐にさせてもらいますよ」
「……そ、それはまだ気が早いです」
「あはは、分かってますよ。でもまあ、気長に期待していますので」
ジャレッドは明るく言い、もじもじするシェリルをおかしそうに見つめたのだった。




