39 男爵令嬢夫妻のあれこれ・朝
シェリルの朝は、エグバートの腕の中から始まる。
エグバートは毎朝日が昇る前から鍛錬をするので、シェリルの起床時間とするには少々早い。朝食を作る日は一緒に起きるが、そうでない日はまだ寝ていたい。
「……ん。たんれん、ですか?」
今日もエグバートが起きる気配がしたので振り返って問うと、既にベッドから降りようとしていたエグバートが振り返った。
相変わらず寝癖の一つもない、朝から爽やかな夫はシェリルをじっと見て、「……舌っ足らずで、可愛い」と呟いた後、ふわっと優しい笑みを浮かべた。
「おはよう、シェリル。私は日課の鍛錬だから、あなたはもう少し寝ていればいい」
「……そうします。ごはん、いっしょにたべます……」
「ああ、一緒に食べよう。……起こして、すまなかった。おやすみ、私の奥さん」
そう言うとエグバートは片腕をベッドに突き、ぎしりとマットレスを軋ませて身を屈めてきた。
まだ頭がはっきりしていないシェリルがぼんやりと見つめる中、覆い被さってきたエグバートはちゅ、とシェリルの頬にキスを落とす。
くすぐったさにシェリルが目を細めて甘えた声を上げると、エグバートは笑顔のままシェリルの頬を撫で、身を起こした。
夫のたくましい背中を見送ろうと頑張るシェリルだが、まぶたはなかなか言うことを聞いてくれなくて、力なく閉ざしてしまった。
――次に目を覚ましたとき、朝日はしっかりと昇っており、パンの焼けるいい匂いが主寝室まで届いていた。
迎えに来たリンジーの手を借りて、朝の仕度をする。
「今日は少し暑くなりそうなので、髪は高めに結って、薄手のドレスにいたしましょう」
シェリルに似合うものを本人以上に知り尽くしているリンジーは弾んだ声で言い、淡い色合いのドレスを出した。
布地の色は白で、薄緑のレースが付いている。この上にもう一枚、布が透けて見える素材の薄青のショールを纏うので、若草生いる大地と白い雲の浮かぶ青空のような、この時季にふさわしい装いとなった。
リンジーの勧めどおりに髪も結い、うっすらと化粧をしたシェリルが朝食のためにリビングに降りると、もうそこには着替えをしたエグバートが待っていた。
鍛錬後に風呂に入ったのか、彼の緩やかな癖のある赤金髪は少ししっとりしており、前髪を掻き上げる仕草からは色気が感じられた。
暑いのか、白いシャツの胸元はボタンが二つほど外されている。だがだらしない印象は全くなく、合わせ目から覗くたくましい胸の筋肉と、くっきり飛び出た鎖骨のライン、シェリルにはない喉の出っ張りや太い首筋が露わになっており、見ているだけで心臓の拍動速度が上がってくる。
長い脚を組んで、朝届けられた手紙に目を通していたらしいエグバートは顔を上げ、シェリルを見た。
そしてほんのりと微笑むと読みかけの手紙をテーブルに置き、立ち上がった。
「改めておはよう、シェリル。……まるで、夏の草原を遊ぶ妖精のように愛らしいな」
「おはようございます、エグバート様。私が妖精なら、エグバート様はこの鈍くさい妖精を捕らえたやり手の狩人ですね」
エグバートが甘い言葉を吐いてくるのは最初からだったが、最近ますますその口説き文句に磨きが掛かったように思われる。
だがシェリルだって、負けていられない。
いまだに不意打ちで口説かれて赤面してしまうことはあるが、言葉遊びを交えながら言い返すことも覚えつつある。
(……今日は我ながら、いい感じに返せたかも!)
昨日の夜は就寝前に「私の可愛い眠り姫」と囁かれ、何も言えずあわあわするだけになってしまったので、やり返したいと思っていたのだ。
ふふん、と胸を張るシェリルだが、エグバートはわずかに目を細めると、大股二歩でシェリルの正面まで詰め寄ってきた。
「狩人……なるほど。確かに私は、狩りに長けた者かもしれない」
「そうでしょう!」
「だが、勘違いのないように言っておくと……私が狩りたいと思うのは、あなただけだ」
「……んっ?」
「そして同時に、私は狩られる対象にもなる。……私の心を射止められるのは、あなただけだ。それを、覚えておくように」
「んんんっ!?」
最後の一言はシェリルの耳元で囁くように言われ、とうとう我慢できずシェリルは目を剥いて後じさってしまった。
「わ、私が……っ!?」
「ああ、真っ赤になった顔も、本当に可愛い。……これから朝食だが、食事を始める前に、この真っ赤な果実を少し味見してもいいだろうか?」
「だめですっ! 味見、禁止ですっ!」
このまま食われてなるものかと、シェリルは裏返った悲鳴を上げながらエグバートの胸を押した。
シェリルごときの腕力で彼を押しのけられるはずもないのだが、彼はシェリルの押しを甘んじて受けるように体を引き、くすりと笑った。
「……本当に、可愛い抵抗だ。味見がおあずけなのが、たまらなく悔しい」
「リンジー、リンジー! ご飯、朝ご飯を持ってきて! 朝食にするわ!」
このままだとエグバートに手足を絡め取られてしまうと察したシェリルは、逃げに徹することにした。
シェリルの命令を受けてすぐさまリンジーたちがリビングに食事を運び始めると、さすがのエグバートも苦笑して身を引いた。
「これは、降参だな。あなたを口説くのは、また後にしよう」
「ご飯の後は、お仕事です! 今日も女王陛下の補佐をなさるのでしょう!」
「もちろんだ。……やれやれ、私の奥さんは恥ずかしがり屋で、じらし上手だな。……今度は、六十七ページの内容を応用してみるか」
エグバートはなにやらぶつぶつ言っているが、別にシェリルはじらしているつもりはない、と言いたい。
朝食の間は、たわいもないおしゃべりをする。
結婚間もない頃は自分のマナーなどが気になって食事を楽しむどころでなかったのだが、だんだんそれも気にならなくなったし、エグバートも「シェリルの食べ方が気になったことは一度もないし、家の中だから気楽に食事をすればいいだろう」と言ってくれたので、変に力を入れずに楽な気持ちで食事をするようにしていた。
食事の後、エグバートは出勤だ。
「いってらっしゃいませ、エグバート様」
「いってきます。……シェリル」
仕度を済ませたエグバートが、玄関ドアの前で振り返り、何かを期待するような目でシェリルを見てきた。
(……今日も、おねだりされている……)
エグバートが求めているのは、いわゆる「いってらっしゃいのキス」である。
元王子がどこでこんな知識を得たのかは分からないが、彼は「愛しあう夫婦は出勤の際にキスをするものらしい」としたり顔で言ってきたのだ。
それは庶民の間でのおまじないのようなものであり、王侯貴族が頻繁にすることではないとシェリルは説明したのだが、最終的に折れたのはシェリルの方だった。
「……しゃがんでください」
今日も夫のおねだりに勝てなかったシェリルが小声で言うと、エグバートはまるで大好物のおやつを差し出された犬のように目を輝かせ、シェリルの身長に合わせて身を屈めた。
(エグバート様を動物に喩えるなら、犬だ。絶対、もふもふの大きなわんこだ……)
そんなことを考えて平常心を保とうと努力しつつ、シェリルはエグバートの両肩に手を載せ、えいや、と左の頬にキスをした。
意図せず、唇が離れた際にわずかなリップ音が鳴った。
それを耳にしたエグバートの体が小さく震え、満面の笑みを浮かべた彼は「お返しだ」と嬉しそうに囁くと、シェリルの左頬に触れる程度のキスをする。
これでは「いってらっしゃいのキス」にはならないだろう。
そう思ったシェリルがじっと睨むがエグバートはどこ吹く風で、とても爽やかで調子よさそうに出勤していった。
(……本当に、困った方)
やれやれと頬に手をあてがい――そこが先ほど夫にキスされた場所だと遅れて気付き、ぱっと手を離す。




