38 決意の炎②
「……時折、考えるのだ」
エグバートの声が聞こえる。
「母上はこの国に来て、幸せだったのだろうかと」
そよ、と初夏の風が墓所を吹き抜けた。
髪を手で押さえて振り返ったシェリルは、立ち上がって母の墓標を見つめる夫の寂しげな横顔を、静かに見守る。
「完全な政略結婚として嫁いだが、長年子が生まれなかったため夫には愛されず、やっと生まれた子は魔力なし。おまけに祖国の実家も取り潰され……さぞ、お辛かったことだろう」
「……そうですね。きっと、苦労はなさったでしょう」
シェリルは前王妃のことをあまりよく知らないから、「そんなことはありません」という無責任なことは言えない。
シェリルにできるのは、自分の知識と想像力で叩き出した答えを口にすることのみ。
シェリルの返事にエグバートは満足したようで、苦笑をこぼした。
「まさにそのとおりだ。……私は何度も、自分のこの体を恨んだ。せめて、魔力を持っていれば。魔道士になれるほど魔力があれば、母上はあれほどまで虐げられることはなかった。もしかすると、ミルワード夫人との権力争いにも負けず、長生きできていたかもしれない。もしそうして私が父や異母兄を蹴落として即位できていれば……マリーアンナ陛下に革命を起こさせることも、なかったかもしれない」
「……」
「だが、どれも『かもしれない』にすぎない。母上が病没なさったことも、私が不良品扱いされたことも、革命が起きたことも……全部、なかったことにはできない」
「……過去を、悔やまれてはいないのですか」
シェリルが問うと、エグバートはしばし考え込んだようだ。
「……悔やんでいた、だな。少なくとも父と異母兄が死ぬまでの私は、『かもしれない』に囚われていた。過去に縋っても仕方がないと分かっていても、過去の出来事に八つ当たりすることしかできない。……ジャレッドのようなごく一部の味方がいなければ、私も父たちの二の舞になっており、ウォルフェンデン男爵の剣で首を落とされるにふさわしい暗愚王子になっていただろう」
「では、今は?」
「今は――」
エグバートが、顔を上げた。
風が吹き、墓前に供えた花が優しく揺れる。
「……これでよかった、とはとうてい言えそうにない。割り切るには、あまりにも未練が多すぎる。……だが、これでも私は前に進むしかない、進みたい、と思うようになった」
「……」
「過去をなかったことにはできないからこそ、それを抱えて前に進みたい。叶うことなら……一緒に歩いてくれる人と共に」
エグバートが、シェリルを見た。
シェリルは微笑み、しっかり頷く。
「はい。私があなたと共に、歩みます。あなたが抱えているものが多いのなら、私にもそれを抱えさせてください。あなたよりも非力だけれど、ちょっとなら持てますから」
「……重くて、苦しくて、煩わしいものでも、抱えてくれるのか?」
「持ち方を工夫すれば、大概のものは抱えられますよ。もしどうしても持ちにくかったら、叩くなり捻るなり千切って分割するなりして、持ちやすくします」
もし、エグバートを悪く言う者がいても、暗い過去が彼を苦しめたとしても。
シェリルにはシェリルができる方法で、彼を救いたい。
そのためなら力を、魔力を、権力を行使することも厭わない。
厭わない、と思えるくらい、エグバートのことが愛おしい。
「一緒に歩きましょう、エグバート様。それでもし、鈍くさい私が躓きそうになったら、手を貸してください」
「……ありがとう。私も……もしあなたが大きなものを抱えていたら、手を貸そう。あなたを物理的に攻撃する者がいるなら、この体であなたを守ろう」
「あ、それじゃあもし相手が魔道士なら、私に任せてくださいね。私、魔法への耐性も強い方なので」
「……できればそういう状況にならないことを、祈っている」
こういう会話は、前にもした気がする。
だが今は――前回以上に強い、意志と確かな信頼感が備わっていた。
「あなたはもう、一人じゃないんです」
「……」
「私はあなたの、奥さんですから。私の前ではたくさん甘えて、頼って、いろんな顔を見せてくださいね」
エグバートの両目が見開かれ、少ししかめられる。
それは怒っているというより、泣く前の表情に感じられ――シェリルは背伸びをすると腕を伸ばし、ぎゅっとエグバートの胸元に抱きついた。
本当は頭を胸に抱えて髪を撫でたかったのだが、二人向かい合って立っている今の状況だと不可能だ。
「シェリル……」
エグバートの震える声が頭上から聞こえ、彼の両腕もシェリルの背中に回った――そのとき。
ぞわり、とエグバートの腹のあたりから何かの気配を感じ、シェリルははっとしてエグバートから離れた。
(……これって……まさか)
同じことを、エグバートも感じたようだ。
彼は自分の腹部に左手を当てて数度深呼吸した後、ゆっくりと右手を持ち上げた。
白い手袋に包まれた彼の手が上を向き、何かを掴むような仕草で少し指が曲がる。
そして。
ぽわっ、とエグバートの手の平に、小さな炎が宿った。
ろうそくに灯っているかのような小さな火の玉だが――力強く燃える、魔法の炎。
シェリルは、エグバートを見た。
エグバートも、泣きそうな笑顔でシェリルを見ている。
「シェリル……できた」
「っ……はい! とても……きれいで、力強い炎です……!」
持ち主の魔力に比例しているからか、決して大きな炎ではない。
だがきっと突然雨が降っても、強風が吹いても、この炎は揺らいだりしないだろう。
過去を抱えてシェリルと共に前へ進む、と決めたエグバートの意志の強さを表す、決意の炎だった。
(あなたは、不良品でも廃品でもない。気高くて強い、とても素敵な人)
エグバートはゆらゆら燃える炎に視線を落とすと、照れたように笑った。
「その……ここまでうまくいくとは、思っていなかった。だが……なんだか今、とても清々しい気分だ。これまでの私に足りていなかったのは、この気持ちだったのかもしれない」
「きっとそうですね。……とてもよくできました、エグバート様。百点満点ですよ」
「ありがとう。……では、頑張った生徒へ先生からの、ご褒美を」
上手に炎を消したエグバートにおねだりされ、シェリルはくすっと笑ってしまう。
そして背伸びをし、身を屈めたエグバートの頬に軽く、キスを一つ。
「……シェリル」
「はい」
「……あなたを、愛している」
決意に満ちたエグバートの告白。
愛している、の言葉がじんわりと胸に染み込み、心を震わせ、心臓を高鳴らせる。
「……はい。私も、愛しています。誰よりも、お慕いしています」
シェリルの返事に、エグバートが嬉しそうに目を細めた。
彼の左手がシェリルの肩に、右手が頬に添えられる。
先ほど魔法の炎を灯していた右手は温かく、シェリルが頬ずりするとエグバートがくつりと笑う声がした。
エグバートが身を屈め、シェリルの顔を上向かせる。
微かな期待を胸にシェリルがまぶたを下ろすと、甘やかな吐息が鼻先をくすぐった。
「……私の愛を、あなただけに捧げる」
いつか聞いた言葉と、その直後に唇に落ちてきた、いつか与えられた感覚。
だが前回のような機械的なものとは違う、確かな意図と愛情をもって与えられたそれに、シェリルはうっとりと酔い、エグバートの胸元をぎゅっと掴んだ。
風もないのに、花束がかさりと音を立てた。
それはまるで、聖女神のもとで見守ってくれているだろうエグバートの母からの、祝いの言葉であるかのように感じられた。




