35 二人の朝①
夢を、見ていた。
まだ五つか六つかそこらの頃。両親が死んでしばらく経ち、ディーンのもとで育てられるようになったシェリルは、隣に住んでいたアリソンとよく一緒に遊んでいた。
シェリルたちの家はそこまで裕福ではなかったが、絵本などは買ってくれていた。そこでシェリルは文字の勉強も兼ねて、アリソンと一緒におとぎ話を読んでいた。
『おひめさまとおうじさまが、けっこんするものなのね』
シェリルが言うと、「そりゃそうよ」とアリソンはしたり顔で頷く。
『あたしたちみたいなむらびとじゃ、おうじさまとけっこんできるわけないもん。だってまず、おうじさまとあえないし』
『そうだね。いないね、おうじさま』
シェリルとしては、絵本に出てくる王子様に憧れていたので、がっかりだ。
『アリソンは、おうじさまとけっこんしたくないの?』
『びみょう。おうじさまでもいいけど、きんにくがほしいの。このえほんのおうじさまは、きんにくがたりない』
シェリルは結婚の基準に筋肉の有無はあまり関係ないと考えていたのだが、自分より年上のお姉さんであるアリソンが力説するので、そういうものなのかもしれない、と素直に考えた。
だが、話をしながらシェリルは、あれ、と思う。
『でもわたし、おうじさまとけっこんしたきがするんだけど』
『えー、そんなのしらない。どんなおうじさま?』
『えっとね。きらきらのかみに、きれいなおそらのいろのおめめの、おっきなからだをもつおうじさま』
なぜか頭の中がぼんやりしているが、シェリルは確かに、とても素敵な王子様と結婚したと認識している。
名前も分からないし相手の顔もはっきりと思い出せないが、シェリルも納得した上で彼と結婚したはずだ。
それを聞いたアリソンは目を丸くし、ぷうっと頬を膨らませた。
『えー、なにそれ。きんにく、あたしもほしい』
『あげないもん! わたしだけのおうじさまだもん!』
『きんにく! あたしにもわけて!』
『やだー!』
アリソンがシェリルの腕を掴んできたので、体がぐらりと揺れた。
まるで、足場が急に崩れたかのようにシェリルはふらつき――
「んっ……」
「……シェリル? 起こしてしまったか?」
背後から、誰かの声がする。
ディーンだろうか、と思ったが、少し違う。
まだ完全に眠りから覚めていないシェリルはごろんと寝返りを打つと、うっすら目を開けた。
あたりはまだ薄暗いようで、脳みそがほとんど覚醒していない状態のシェリルの視界には、ぼやけた人影が映るのみ。
(……ああ、そうだ)
「……わたしの、おうじさま――」
「……シェリル?」
「あげないもん……わたしの、だんなさまだもん……」
ぼんやりしつつ手を伸ばし、彼の腕らしきものにぎゅうっと掴まる。その腕はがっちりとした筋肉を擁しており、硬い感触にシェリルはうっとりする。
シェリルはアリソンと違い、決して筋肉に萌えるような趣味はないのだが、夫のことに関しては別問題だ。
「……わたしの。いかないで……」
「……朝の鍛錬に行きたかったのだが……側にいてほしいのか?」
「うん、わたしのそばにいて。……わたしのきんにくだもん」
「ああ、そうだな。これはあなたのための筋肉だ」
寝ぼけた相手に対しても、くそ真面目に返事をする男である。
だが彼はシェリルの言葉に気をよくしたようで、ゆっくりとベッドに身を横たえると、掴まれていない方の腕を伸ばしてシェリルの腰を抱いた。
「……たまには二度寝も、悪くないな。まだ明け方まで時間があるから、もう一眠りしなさい。側にいるから」
「……ん。だいすき」
たくましい腕を胸に抱き込み、シェリルは甘い吐息を漏らすと目を閉ざした。
そうして自分の腰を抱き寄せる腕の力強さにうっとりとしつつ、目の前の男が「……私は、幸せ者だ」と呟いていることに気付かず、二度目の眠りに落ちていった。
目が覚めたシェリルは、驚いた。
昨夜寝る際はエグバートに背を向けて横たわったはずなのに、いつの間にか彼と向かい合っている。
それだけでなくて、彼の左腕をしっかりと抱き込み、その動きを拘束しているではないか。
「え……えええええええ!?」
「おはよう、シェリル。……朝からあなたの可愛い顔を見られて、私は嬉しいよ」
混乱するシェリルとは対照的に、エグバートは爽やかだ。
今は寝起きだというのに、いつもシェリルが廊下などで朝の挨拶をするときと全く遜色のない、気品に満ちた夫の様子に、シェリルはかあっと頬を熱くした。
「やっ……! み、見ないで!」
「分かった、見ない」
くそ真面目な男はそう言ってさっと顔を伏せてくれたので、シェリルも慌てて彼を拘束する手を離し、起き上がった。
(ぜ、絶対髪がすごいことになってる! 脂汗もひどいだろうし……あああ! なんで体の向きを変えていたの!?)
背中を向けたままだったら、寝起き直後の顔を直視されることはなかったはずだというのに。
ベッドに座って手櫛で一生懸命髪を整えようと試行錯誤するシェリルの背後から、エグバートの声が聞こえてきた。
「……いつまでこうしていればいいかな?」
「あっ、もう大丈夫です、すみません! あと……おはよう、ございます」
「うん。……おや、髪が可愛らしいことになっているね。これが前に聞いた、鳥の巣かな?」
「寝癖、ひどいんです……」
毎朝自分でざっと整えてから、最終的にはリンジーの手を借りて結ったりしている。
シェリルの髪は艶のある直毛で、柔らかいのでアレンジもしやすい。その反面、癖も付きやすいので、寝相が悪かった翌朝は鏡を見て悲しい気持ちになるのだ。
(ああ、もう! せめて大人しく寝ていれば、ここまでひどいことにはならなかったはずなのに!)
せっせと髪に指を通すシェリルを、エグバートが背後からじっと見ていた。
自分の髪に集中していたシェリルは当然気付かなかったが、ベッドに頬杖をついて横たわるエグバートは目を細め、限りなく愛おしいものを見る眼差しでシェリルの背中を眺めていた。




