29 男爵の言い分
ディーン視点
ディーン・ウォルフェンデンは、エンフィールド王国軍の騎士団長である。
無造作に刈った黒の髪に、鋭い眼光。
幼少期から農作業で鍛えてきた肉体は頑強で、その胸筋で槍さえ弾けるという噂もある。
三十三歳の働き盛りで、酒は嗜む程度、賭け事も嫌う倹約家。家族は、血縁関係では姪にあたる養女シェリルのみ。
先の革命戦争では名のある将を何人も討ち取り、あのエグバートでさえ競り合いの末に打ち負かした、勇将。爵位は、一代限りの男爵。
平民からの叩き上げでありながら華々しい戦績を飾る彼のことを慕う女性は、結構いる。
高位貴族の娘は「いくら女王に重用されている勇将でも、平民上がりはちょっと……」となるのでむしろ、下級貴族の娘や使用人階級の女性から人気だった。
いつかこちらを見てくれれば……と淡い恋心を抱いて彼を見つめる女性は多く、彼目当てに騎士団の見学に来る女性を捌くのに、騎士たちは苦労しているとかしていないとか。
そんなディーンは今、元々厳つい顔をさらに険しくして、何かを読んでいた。
彼の周りには側仕えの侍従や補佐係の騎士がいるが、「あの書籍を読んでいるときの騎士団長の邪魔をしてはならない」というのは周知のことなので、誰も何も言わずに自分の仕事をしている。
騎士団長は毎日届けられるその書籍をじっくり読むと何か書き込み、元々入っていた木箱に入れるとたいてい、ジャレッドという騎士にそれを託す。
どうやらそれは彼と彼の義理の息子にあたるエグバートの間でやり取りされているものらしく、運搬係のジャレッドでさえ、「機密としか聞いていません」とのことだ。
ディーンはそれに目を通しながら、カップに入っていた茶を飲んだ。
そのカップは彼の愛娘が市場で買ったものらしく、可愛らしい花柄である。ディーンは何も言わないがそのカップをことさら気に入っているので、使った後は毎回それを自分で洗い、丁寧に拭いてから食器棚に戻していた。
いつもその書籍を読むときのディーンの眼差しは険しいが、今日はことさら怖い顔になっている。
というのも――
『……という話の最後に、シェリルの額と頬にキスを一度ずつ。シェリルは羞恥のためか顔を真っ赤にしていたため、唇を当てた頬はとても熱かった』
『夜、寝る前にまたシェリルが抱擁を求めてきたので、寝室前で抱きしめる。そのときに彼女の髪から漂った匂いが違うので、洗髪剤を変えたのかもしれない。甘い香りが、彼女によく似合っている』
非常にまめで丁寧な字で書かれているのは、彼の娘についての報告。
ディーンはぎゅうっと眉根を寄せると、ペンを手に取った。
そして何を書こうかとしばし迷った後に、ページの最後の空白部分に「読了」の印だけ書く。シェリルがこれを見れば、「見ましたサインね!」と言いそうだ。
もう一度内容に目を通してから木箱に戻し、ディーンはぎしりと背もたれを軋ませて椅子に深く座った。
昨日、シェリルが使用人用廊下で貴族の娘たちと衝突したそうだ。
そのときのディーンは若手の指導中だったので後になって顛末を聞いたのだが、彼女はなかなかうまく立ち回り、マリーアンナに無礼な口を利いた令嬢たちはしょっ引かれることになったという。
それを聞いたディーンの気持ちは、誇らしさ半分、安堵半分といったところだった。
エグバートとの交換日記を読む限り、エグバートの方からシェリルに「お叱り」はしたそうなので、ディーンから娘に言うことは何もない。シェリルだって馬鹿ではないのだから、自分が無茶なことをしたのは分かっているだろうし、彼女ももういい年だ。
そもそもディーンはシェリルを叱るのがとても苦手であるし、もう結婚したのだから彼女の夫であるエグバートに任せればよいと考えている。
目を閉じて考えるのは、村で暮らしていた頃のこと。
ディーンには、少し年の離れた兄がいた。ディーンが物心付いた頃には既に兄はある少女と交際しており、ディーンが十二歳の頃、「結婚するんだ」と報告された。
兄の隣で微笑む女性は、とても美しかった。ディーンたち兄弟には親がいなかったので、彼女が幼いディーンの世話を焼いてくれた。
艶やかな焦げ茶色の髪を高く結い、くるくるとよく動く働き者。
子どもの頃から無口で愛想のなかったディーンにも優しくしてくれて、密かに憧れを抱いていた。
そんな彼女が産んだシェリルは、目に入れても痛くないほど可愛かった。
傭兵として働きに出ていた兄や家事で忙しい兄嫁に代わり、ディーンがシェリルのおむつを替えたり、遊んでやったり、添い寝してやったりした。一応彼はシェリルの叔父になるのだが「おじさん」と呼ばれるのは子どもながらに嫌だったので、「兄さん」と呼ばせた。
ディーンの後をちょこまかとついて回り、にいさん、にいさん、と舌っ足らずに呼んできたシェリル。
兄に剣の稽古を付けてもらってボロ負けし、物置小屋に隠れてこっそりいじけているとどうやって嗅ぎつけたのかやって来て、「にいさんは、いいこ」と頭を撫でられたこともある。
――兄と兄嫁が揃って事故死し、誰に何かを言われる前にディーンはシェリルを引き取ると宣言した。
そうして、まだ両親の死が理解できない幼いシェリルを抱きしめ、この子は絶対に自分が守る、と亡き兄夫妻に誓った。
シェリルは無骨で無愛想なディーンと共に暮らしながらも、非常に素直で明るい子に育ってくれた。
そして両親共に魔道士でなかったのだが魔道士としての才能を持っていたので、ディーンは彼女の教育に金を惜しまず、教師になる魔道士を連れてきたりした。
成長するにつれ、シェリルはだんだん兄嫁に似てきた。
村の中では「まさか、姪を嫁にするつもりか」というとんでもないことを抜かす者もいたので、地中に沈めておいた。
ディーンがシェリルを恋愛対象として見たことは一度もないし、これから先も決してありえないと分かっている。
彼女はディーンにとって、養うべき、守るべき対象。
いつか自分でも納得できるような相手と結婚するまで、手元で面倒を見るつもりだった。
……まさかその相手が、元とはいえ自国の王子になるとは、露ほども思っていなかったが。
婿となったエグバートは、悪評垂れ流し状態のわりに真面目で素直な、よい青年だった。
革命戦争で力比べした際はかろうじてディーンが勝ったが、そんな自分ももう数年もすれば年を取り、満足に戦えなくなる。
そういうことも見越し、彼にならシェリルを任せてもいいかもしれない、と密かに思っている。
交換日記も、エグバートがきちんとシェリルのことを見ているかを調べるために始めたのであり、決して娘の行動をストーキングしたかったわけではない。
エグバートは交換日記にもまめにシェリルとのふれあいを記しており、結婚後一ヶ月少しであるが既にノートの八割は埋まっている。
もう既に二冊目も準備しているが――それも、間もなく必要なくなってくるだろう。
相手をよくも知らない段階で同衾し、好きかどうかも分からない男の子を妊娠するのは、絶対に避けてほしかった。
そういうことで結婚直後は我ながらあれこれやかましく言ったのだが、今ではもう彼らに任せればよいかと考えている。
……シェリルはどうも、ディーンがいつか結婚するのではないかと考えているようだが、彼は別にそういう予定はない。
彼が密かに慕っていた女性はもう既にこの世にいないし、自身の結婚に関心はない。どうせ一代貴族なのだから自分の財産は全てシェリルに譲り、彼女が平民になってもエグバート共に仲よく暮らせるのならそれで十分だ。
……そんな幸せな未来を娘夫婦に築いてもらうには、まだもう少しやるべきことがありそうだ。
元妾妃である、マーガレット。
それから、今も王都の外でうろついている旧王国軍。
新米女王であるマリーアンナはまだそれらへの対応を考えている途中であるが、もし女王の命令とあらば、ディーンは剣を取って全ての敵を殲滅するつもりでいる。
シェリルが、幸せでいられるのなら。
彼女が愛する人と共に暮らせる平和な世を、ディーンの手で作り出せるのなら。
彼は、十分満足だった。




