25 先生と生徒
男爵令嬢としてのシェリルの仕事は、それほど多くない。
不在がちなディーンに代わって手紙の整理をし、使用人たちに仕事の指示を出す。もしお呼ばれがあるのならしっかり準備をした上で臨むくらい。
元々一代貴族で領地も持たないので、社交シーズンでもなければやることはほとんどなかった。
その分、研究所で魔法の研究をする。
といっても「いつまでにこれをしなければならない」というのはほとんどなく、城の魔法研究所と連携を取りながら自分のペースで作業をし、成果を資料にまとめて提出するくらいだ。
……だがそんなシェリルに、重大な仕事が増えた。
「……そ、それじゃあ始めましょうか」
「ああ。よろしく頼む、シェリル先生」
「……それはちょっと恥ずかしいので、いつもどおり呼び捨てでいいです」
シェリルが言うと、エグバートは「了解した」と真面目な顔で頷いた。
テレンスとの相談の末に、シェリルはエグバートに魔法を教えることになった。とはいえ、本当に彼が魔道士になれるほどの素質を見出せるかは謎で、頑張っても結局徒労に終わる可能性も十分にある。
しかもエグバートはこれまで魔法とは縁のない生活をしてきたし、日中は女王の側近としての仕事がある。
よって、授業をするのは二人の都合のいい日だけで、一日三十分程度。無理をせず、高望みもしない、ということを事前に決めていた。
シェリルの向かいに座る「生徒」は、真剣な顔で「先生」を見つめている。シェリルも十歳程度の子どもに魔法の基礎の基礎を教えたことはあるが、こんなにでかい二十四歳の生徒を持ったことはない。
(一応、師匠から借りた本は読んだけれど……うまくいくかなぁ)
どうやらシェリルは感情を顔に出していたようで、エグバートが少し眉を寄せた。
「……もしかして、本当は私に魔法を教えるのが嫌だったか?」
「い、嫌ではありませんよ! ただ、本当に、自信がなくて……」
「それは私も同じだ。だから、うまくいかなくてもあなたのせいというわけではない。むしろ、不出来な教え子に説教してくれればいい」
「エグバート様を説教するなんてできませんよ!」
「……そうか、分かった」
エグバートはあっさり引き下がったが、「……では、第七章の内容は不要だな」と呟いた。何のことだろうか。
気を取り直して、授業開始だ。
(まずは子どもたちにも言ったように、魔力を引き出す練習をしないと)
魔道士の素質がある者が魔法を使うまでの過程は、ざっくり分けると三段階になる。
まずは、体の中の魔力の「抽出」、そして出した魔力の「加工」、加工した魔力の「発動」である。
「エグバート様に魔道士の素質があれば、お体に魔力が蓄積されます。まずはそれを魔力の素という形で表に出します。うまくいけば、以前この部屋の前でご覧になった明かりのようなものが見えるはずです」
「なるほど。では、どのようにその蓄積した魔力を抽出すればいいのだ?」
「うーん……こればっかりは言葉ではうまく表せないのですが……」
まずはお手本、ということで、シェリルは右手を目の高さに挙げ、手の平にぽんっと光の粒を生み出した。
「これが魔力の素です。素の段階ではたいてい無色なので、遠目から見るとランタンの明かりのように見えなくもないですね」
「きれいだな。この光越しに見るシェリルの顔も輝いていて……とてもきれいだ」
「……授業中に先生を口説かないでくださいっ」
めっ、と注意すると、なぜかエグバートは嬉しそうな顔で「分かった」と頷いた。
品行方正で真面目な男ではあるが、なかなか危険な生徒である。
「この光を出すには……私の場合は、お腹から胸にかけてのあたりに少し力を入れてみると、うまくいきます。ただこれは人によってやりやすい方法が異なるようで、革命軍時代の仲間には、頭がきゅうっと絞られる感覚がするとか、首の裏あたりが引っ張られるような感覚がするとうまくいくとか、色々なパターンがありました」
「ならば私も、自分にとってよい方法を見つけるために、色々やってみるしかないのだな」
「そうなりますね。でも基本的には、こう、体の内側に力を入れて、体の中にある魔力を絞り出すような気持ちでやると、うまくいくことが多いです」
「なるほど」
シェリルの説明を、エグバートはせっせとメモを取りながら聞いている。やはり几帳面でまめな性格らしく、話を聞きながらの筆記ではあるが字は非常に整っている。
そうしてエグバートを立たせ、魔力を出す練習をさせようと思ったのだが――
「はい、それじゃあ胸のあたりに力を入れてみてください」
「こうかっ」
シェリルの指示を受けてエグバートは、ふっ、と色気のある吐息と共に胸に力を入れた。たくましい胸筋が、びくびくと動いている。
これはこれですごいが、今はそういうのを求めているのではない。
「うーん……筋肉を動かすというよりは、絞る感じです。内側に引っ張られる、というか」
「絞る……」
悩ましげな表情で筋肉を動かす大男の図は、エグバートでなければただただ滑稽だっただろう。
顔のいい男ならば、少々奇天烈な行動をしていても絵になるのだと、シェリルは知った。
「もしかしたら、胸は違うのかもしれないですね……お腹、いってみましょうか。はい、集中して、手の平に意識を持っていって……」
「む、ん……」
「ん、こっちの方が近いかも? ……ちょっと失礼しますね」
一言断ってから、シェリルはエグバートの腹にぴたっと手の平を当てた。シャツ越しにも割れた腹筋の起伏がはっきりと感じられ、シェリルが触れているとびくっと動いたのが分かる。
(……うん? 今、ちょっといい感じがしたような……)
「エグバート様、深呼吸して、もっと絞って……ああ、なんだか、いい感じです。一瞬だけ、魔力の欠片みたいなのを感じました」
「そ、そうか……」
「はい! エグバート様は、お腹に力を入れるといいみたいですね」
「な、なるほど。では次に……」
「あっ、もうだめですよ」
シェリルが手の平を離して言うと、エグバートは「えっ」と声を上げ、お気に入りのおもちゃを取り上げられた子どものような切ない眼差しでシェリルを見てきた。
「もうだめなのか? まだ序の口ではないか」
「ええ、序の口です。でも、慣れないことをなさっているのですから、お体はかなり疲れているはずです」
「大丈夫だ、私は見てのとおり体力だけは自信がある」
「魔力と体力は別物なのです。先生の言うことを聞きなさい」
ね? とわざと柔らかい命令口調で言うと、途端にエグバートはすっと真顔になり、大人しく着席した。
彼の立場からすると今まで命令口調で話されることはなかったので、かえって新鮮で効いたのかもしれない。
事前に休憩用の道具を準備していたので、冷たい飲み物と菓子をテーブルに置いた。
「今日のところは、ここまでです。甘いものを食べて、体を労ってあげてください」
「……ああ、そうさせてもらう。ありがとう、シェリル」
「どういたしまして。……あの、このお菓子は、何ですか?」
シェリルも飲み物だけ飲もうと思ってグラスを手にしたのだが、なぜかエグバートは太い指先で焼き菓子を摘み、シェリルの方に差し出していた。シェリルはほとんど魔力を使っていないので、これはエグバートが食べればいい。
だがテーブルに頬杖をついたエグバートは柔らかく微笑み、もう片方の手で持つ菓子をちらちらと揺らした。
「これは頑張ってくれた先生へ、私からの贈り物だと思ってくれ」
「……それならそれで、自分で食べますよ?」
「私が食べさせてあげたいんだ。さあ、口を開けて」
どうやら彼は引く気はないようだ。
シェリルはしばしむっと唇を尖らせていたがやがて観念し、小さく口を開いた。
エグバートが腕を伸ばし、シェリルの唇の隙間に焼き菓子を差し込んだ。噛むと、さくりとした食感と香り付け用の香料の香り、そしてバターの甘さが口内いっぱいに広がる。
砕けやすい焼き菓子の滓を落とさないようにシェリルがサクサクと急いで食べていると、エグバートは目尻を緩ませ、微笑んだ。
「可愛いな」
「むっ……!? せ、先生を口説かないで――」
「ん? だめなのか? 先ほどあなたは、授業中には口説いてはならないと言っていた。今はもう授業は終わっているから、先生――私の可愛い奥さんを口説いてもいいだろう?」
にっこりと笑うエグバートからは、意地悪さは感じられず、清々しいほど前向きだった。
(あ、あああー! だからあのとき、あっさり引き下がったのね!)
焼き菓子を飲み込んだシェリルがじろっと睨むと、エグバートははっと目を丸くする。
「もしかして……私にはいつ何時でも口説かれたくなかったか? それならば以降、改めるが……」
「そうじゃないですっ! 別に……口説かれるのが嫌だとは、思いません」
「では、授業中などでなければ口説いても問題はないね?」
シェリルとしては問題ありありなのだが、エグバートがシェリルとの距離を縮めようと努力していることは嬉しいし――夫に優しく迫られるのは、シェリルとしても悪い気はしない。
ただ単に、照れるし恥ずかしいだけだ。
「……問題、ありません。その、少しなら」
「そうか、よかった。……それじゃあ二枚目も、私が手ずから食べさせてもいいかな?」
「一日一度だけですっ!」
どうやらこの「生徒」は、真面目の仮面を被ったとんでもない不良青年だったようだ。
そろそろエグバートの性癖が分かってきました




