24 立ち向かう眼差し
ちょうどテレンスは夕方に時間があったらしく、そのときに退勤前のエグバートを呼び、魔法の話をするとのことだった。
(ということは、今日帰宅されたときにはもう、お話を伺っているということ……)
今日は夕食の後の帰宅になるとはあらかじめ聞いていたので先に一人で食事をしたが、緊張しているからかあまり味が感じられず、料理を作ってくれた使用人に申し訳なくなった。
その後、茶を飲みながらリビングでそわそわしつつ待っていると、リンジーが「若旦那様のお戻りです」と告げた。
(エグバート様……)
急いで玄関に向かい、エグバートを出迎える。
すぐに夫の様子を確認するが、顔色が悪そうには見えないのでひとまず安心できた。
「おかえりなさいませ、エグバート様」
「シェリル……ただいま帰った」
顔を上げたエグバートは微笑むが、少しだけその笑みが強張っているように感じられたのは気のせいではないはずだ。
エグバートは既に慣れた仕草で脱いだコートをシェリルに渡すと、すぐにリビングに向かった。
コートを片づけてからシェリルもリビングに行くと、リンジーがエグバートの茶を淹れ、すぐに下がったところだった。使用人たちには夕食の後で、「エグバート様と大切な話があるはず」と言っていたので、二人だけにしてくれているのだ。
念のために防音効果のある魔法壁で部屋を包んでからエグバートの向かいに腰を下ろすと、彼が小さく笑う気配がした。
「……顔が、強張っているよ」
「そう……でしょうか」
「ああ。……王配殿下から、話は伺った」
早速、来た。
今以上に顔が引きつるのを覚悟で、シェリルはぐっと唇を噛みしめた。
「殿下は、私に魔道士としての素質があるかもしれない、とおっしゃった。どうやら先日、私が君の研究部屋から漏れる魔法の光を見たことで、あなたが気付いたそうだね」
「……はい」
「そんな暗い顔をしないでくれ。……私も、変だとは思っていたんだ。普通のランプの明かりにしてはちかちかと瞬いているようだし、光の粉が舞っているかのようにも見えた。……もしかすると疲れで幻覚が見えたのだろうかと思っていたので、むしろきちんとした理由が分かって安心したよ。殿下に相談してくれて、ありがとう」
まさかここでエグバートの方から礼を言われるとは思っていなかったのでシェリルが目を丸くすると、彼はくすりと笑った。
「ああ、それくらいの表情の方が健康そうに見えていいよ。……それで殿下は、今後の私のためにも魔法の教育を受けた方がいいとおっしゃっていた。あなたを教師として、ね」
「……はい。でも私は今まで、誰かに魔法を教えたことはほとんどなくて……エグバート様にきちんとお教えできる自信はないのです」
「別に、人に魔法を教えるのに資格が必要なわけではないのだろう? 殿下は、相性が大事だとおっしゃっていた。それならよくも知らない相手より、私が大切に思うあなたに教えを請う方がいい」
「そ、そうですか」
こういうときにもさらっと甘い言葉を挟んでこられると、不意打ちでつい耳が熱くなってしまう。
誤魔化すように髪を弄って耳を隠した後、シェリルは一つ息をついた。
「……私が魔法研究をしているのは、もっとたくさんの人が魔法に触れ、この世の中が便利になればいいな、と思っていたからなのです」
「そうなんだね、それは素晴らしい志だ」
「ありがとうございます。……でも、最近、ちょっとその考えが変わってきたのです」
顔も名前も知らない人がシェリルの研究のおかげで幸福になれただけでも、シェリルとしては十分達成感を抱けるだろう。
だが……すぐ近くにいる人が笑顔になれるのならば、その達成感は桁違いになる。
魔力がないために冷遇されてきたエグバート。
彼が、少しでも安心できるのなら。彼のためになる魔法を開発できるのなら。
最近は、そんなことがシェリルの密かな目標になっていたのだ。
「だから、魔法をお教えすることであなたのためになるのなら……私は、嬉しいです。もちろん、魔道士の素質があるからといってあなたが幸福になれるとは限りません。……でも、妻として、あなたの役に立ちたいのです」
「シェリル……」
「す、すみません。なんだか自分でも、何を言っているのかよく分からなくなってきました」
「いや、あなたの素直な気持ちを聞けて、私は嬉しいよ」
そう言うエグバートの声は、とても落ち着いている。
低くて、少し艶があって、優しい声音。
シェリルは、彼のこの声が、穏やかな表情が、好きになっていた。
「なぜこの年になって魔力の素が見えるようになったのかは分からないが……もし私に力があるのなら、それに向き合いたい」
「……」
「もし私が魔道士になれたとしても、この力で皆を屈服させようとか、そんなことは思わない。ただ……今までさんざん、自分の生まれや才能に引け目を感じていたことに立ち向かえるから、自分のためになるから、挑戦してみたいんだ」
力強く告げるエグバートは、とても眩しい。
元々王族らしく気品の漂う美貌を持つ彼だが、今は容姿は関係ない。
何かに立ち向かおうと決意する夫はとても格好よく、魅力的で――どきりとシェリルの胸が高鳴った。
「……エグバート様は、とても素敵ですね」
どきどきしているあまり、そんなことを口走ってしまった。
するとエグバートはぎょっとしたように少し身をのけぞらせ、視線を逸らした。
「い、いきなりそのようなことを言われると、照れるな。……いや、待てよ。確か教本の二十四ページに――」
そうしてエグバートは何かを思い出すかのような眼差しで数秒沈黙した後、きっと顔を上げた。
「シェリル」
「はい」
「あなたにそう言ってもらえて、嬉しい。だが……もし私が素敵に見えるのならそれは間違いなく、あなたのおかげだ」
そう言ったエグバートが、立ち上がる。
そのまま彼はテーブルを迂回し、ぽかんとするシェリルの隣にゆっくり腰を下ろした。
……腰を下ろす速度は至ってゆっくりだったが、何しろ彼は体重がある。
ソファのクッションが彼の方に沈み、隣に座っていたシェリルの体が簡単に傾ぐ。
「わっ……!」
「っと」
ぐらついたシェリルの体は、難なくエグバートの両腕に抱き留められた。
そしてシェリルは反射的に片腕を彼の方向へ突っ張っていたので――まるで自分からエグバートの胸に抱きつくような格好になってしまった。
(わ、わわわわわ!?)
「す、すみません!」
「いや、気にしなくていい。だから、このままでいて」
「んっ!?」
肩を抱き寄せられ、唇を耳に近づけて低く囁かれると、シェリルの体がびくっと震えて抵抗もできずにエグバートに抱き寄せられてしまった。
頬が、エグバートの胸に密着している。
そこは硬くて、胸筋の膨らみが服越しにもはっきりと分かり、心臓付近からどくどくと血の流れが感じられる。
大きくて、たくましくて、頼もしい体。
きっとこの体はこれまで、彼をずっと守ってきたのだ。
心ない言葉から、物理的な攻撃から、痛みから、繊細で優しい彼を守ってきた。
(……私も、守りたい)
シェリルの体に筋肉はほとんどないし、かといってエグバートを優しく包み込めるような豊満な肉体を持っているわけでもない。
他人より少し魔力があるだけの、自分。
それでも何かの形で、彼を守ることができるはずだ。
シェリルが遠慮がちに空いている手を伸ばして夫の胸元にそっと手の平を添えると、くつくつと嬉しそうに笑う声が頭上から降ってきた。
「……シェリル。とても、可愛いな」
「……そ、そんなこと、ないです」
「そんなことあるよ。……やはり私が魔道士の才能に目覚められたのは、可愛いシェリルが側にいてくれたからだな」
「そんなこと、ないです」
少なくともシェリルが可愛いかどうかは関係ないはずなので自信を持ってはっきり言ったのだが、エグバートは気にした様子もなく、愛おしそうにシェリルの髪を梳った。
「……私は本当に、あなたのような妻と結婚できて幸せだ」
「……私だって、あなたのような素敵な旦那様と出会えて、幸運ですよ。……エグバート様」
「うん?」
「私、私にできる形で頑張ります。あなたのいい先生になれるかは分からないのですが……今回は、私を頼ってくださいね」
顔を上げ、きりっとして言う。
すると思いがけず近い距離で青の双眸と視線が絡み合い、その目が優しく細められた。
「……ああ、そうだな。よろしく頼むよ、シェリル先生」
「……も、もう! からかわないでください!」
思わずどきっとしてしまったので誤魔化すようにエグバートの分厚い胸をぽんぽん叩くが、かえって嬉しそうになった彼に「なんて可愛い攻撃なんだ。あなたになら百万回殴られてもいい」と言われてしまったのだった。




