君がいるだけで十分
「お金殿、まずはお願いがござる。
猿飼の地に向かい、犬飼殿を連れて来てはくださらないか」
「承知した」
「そう言えば、そなたたちは主野又にある関所をどのようにして越えたんだ?」
「そ、それは忍びゆえ」
「なるほど。それはそうだな。
忍びが関所を真っ当に通る訳ないか。
しかし、犬飼殿を連れてくるとしたら」
「緋村殿、あそこには合言葉がある」
大輔が言った。
その言葉に、俺の頭の中に浮かぶものがあった。
「あれか!
ここに来るときに、梓ちゃんが言った
猿族も甲斐族も同じ国の者同士、どうして通行の邪魔をするのかとかなんとか」
「梓ちゃん、君はどうしてその合言葉を?」
大輔の言葉に梓の体がびくっとなった。突然話を振られて驚いたのかも知れない。
「そりゃ、そうか。
君は八犬士を連れてくるように命じられたんだから、教えられていて当然か」
大輔は自分で出した問いかけに、苦笑いしながら自分で答えている。
梓はそんな大輔に、出会った頃のように小さく頷く事で返した。
「その合言葉は普通は知らないのか?」
「ああ。
あれを知っているのは一部だな。
一般の民はもちろん、普通の兵や将たちも知らぬ。
知っているのは関所を守っている兵の指揮官や私たちのようなこの国を治めている者、そして大猿の密命を受けた者くらいではないでしょうか」
としたら、姫様はどうやってあそこを越えて来たんだ?
と言う言葉が口から出そうになったが、俺の思考の奥深くの敵味方を峻別するあたりがその言葉を飲み込ませた。
「お金殿、お願いします。
我らも主野又に向かうので、そこで落ち合いましょう」
「承知」
お金はそう言うと長老の跡を追って、部屋を出た。
「お金殿が戻って来るまでに、姫様の居場所を突き止めていたい。
大輔殿、その手筈を」
「分かりました」
俺たちは大輔の家が治める三猿の領地に向かった。
甲斐族が申世界に攻め込んで来るのを防ぐ最前線としての位置づけでもある主野又の関所は、来た時には気づかなかったが、申世界側から見ると巨大な木造建築物の砦だ。
ここの守備は大猿家の指揮の下で四公全ての兵が受け持っているとの事だ。
三猿の領地内ではあるが、言わば大猿の飛び地みたいなもので、三猿の兵では自由に動けないのではと言う事を懸念し、自身が砦の中に入って行った。
再び梓との二人だけに戻った俺たちは大輔が戻って来るのを待っている。
「梓ちゃん、君が裸婦照の場所を知っていてくれたのは助かったよ」
大輔がいる場では話辛かった裸婦照の話を梓に振った。
俺としては本心からの言葉だったが、大輔が言った言葉を引き摺っているのか、梓は俯いたまま何の反応も示さない。
「大輔殿も悪気とかは無いんだ。
知っている人が少ない、しかも申世界の三猿家の若君である自分でさえ知らなかった事を知っていたから、どうして知っているのか興味を持ったんだろう。
気にすることはない」
そう言って、梓の頭を撫でた。
「俺は梓ちゃんが、その場所がどこにあるか知っていてくれただけで十分だ。
犬塚殿を助けるのに、力を貸してくれ」
「私が役に立つって事なんですよね?」
「ああ、そうだ」
「うれしいです。
私が緋村様のお役に立てるなんて」
「いや、梓ちゃん。
君はずっと前から役に立っている」
「はい?」
怪訝そうな表情で、俺を見上げている。
「君がいる。
それだけで十分俺の役に立っている。
俺の心が満たされるんだ」
「ほ、ほ、本当にですか?」
「ああ」
「うれしいです。
大好きです」
涙をその瞳からあふれさせながら、俺に抱きついて来た。
その梓を俺もゆっくりと、だがしっかりと抱きしめた。