立ち込める白煙
申世界に旅籠と言うものはないらしく、宿泊に利用する施設と言えば、もっぱら寺院との事だった。そして、今、俺は大輔に紹介された寺院の狭い部屋で眠れぬ時を過ごしていた。
妙椿が甲斐族の地にいる。
それが真実なら、とんでもない事だ。
もしかすると、明地が謀反を起こした一件にも妙椿が何らかの形でかかわっているのかも知れない。
だとすれば……。
なんて、答えの出ない問題に頭を悩ませている俺の耳に、男たちのひそひそ声が聞こえきた。
「間違いない。あれは緋村だ」
「俺たちの使命に緋村は直接は関係ないじゃないか」
その声の主たちは、ここに来た時に見かけた五、六人の男たちの集団に違いない。
俺の顔を見た時、少し驚いたような表情を浮かべたのを俺は覚えている。
「しかし、本王寺で死んでもらうはずだった男じゃないか。
このまま生かしておいたら、我々の邪魔になる」
「それは確かだが」
「今を逃すとこんな機会は二度と巡って来ないんじゃないか?」
「分かった。
緋村を殺そう」
「とは言え、あの一斬りだ。
念のため、緋村が連れていた少女を人質にとろう」
俺を襲う。それだけなら構わないが、梓を人質にとる。それを許せる訳はない。
諸刃の剣を手に、寝床から起き上がった時だった。
「あ、あ、あ、あの笠を被った生き物は何だ?」
「あ、あ、あれは?」
男たちが何か動揺している。
「徳利から何かあふれ出て来たぞ!」
「ぎゃぁぁぁぁ」
「うわぁぁぁ」
「か、か、身体融けるぅぅ」
何が起きているのか確かめるため、鞘に手をかけたまま障子を開けた。
中庭には白煙が立ち込め、今までに嗅いだことのない異臭がしている。
その白煙の中に、何人もの者がもがいているような影を月明りが映し出している。
さっき、梓を人質として、俺を襲おうとしていた男たちに違いない。
中庭の異変に気付いた寺院の師たちも飛び出して来た。
「こ、こ、これは」
白煙に飛び込んで助けると言う選択肢は彼らにも持ち合わせていないようで、驚きの声を上げただけで、動こうとはしていない。
やがて、もがいていた人影は全て崩れ落ち、そこに生の気配は無くなった。
そして、緩やかな風が立ち込めていた白煙を運び去ると、そこには骨をむき出しにした何体もの遺体が転がっていた。
「妖怪だけに熔解か」
一人の師が言ったのを聞いた。
「どう言う意味だ?
これが何か知っているのか?」
そうたずねたが、誰も何も答えない。
「あんたも、ああなりたくなかったら、しばらくは近寄らぬ事だ」
そして、そう言い残すと、師たちは自分たちの部屋に戻って行った。
「そうだ。梓!」
人気が去った廊下で、我に返った。
梓が寝ているはずの部屋の障子をゆっくりと静かに開ける。
月明りが差し込んだ部屋の布団は小さく、でもしっかりと膨らんでいる。
「寝ている」
ほっと一息だが、それをどうしても確かめなければ、心が落ち着かない。
足音を忍ばせて、布団の横に近づくと、腰を下ろして梓が無事な事を確かめる。
すぅ、すぅ。
小さな寝息が聞こえる。
「よかった」
さっきまでの焦燥感、そして今の安堵感。少なくとも梓は俺にとって、大事な存在だと言う事を改めて認識せざるを得ない。
自分の部屋に戻るため、立ちあがろうとした時、梓が目を覚ました。
「どうして、ここに?」
「起こしてしまったか。すまない。
ちょっとした事件があってな。梓の事が心配で、無事かどうか確かめに来たんだ」
「私の事がですか?
嬉しいです」
「じゃあ。私は部屋に戻るから」
「嫌です。私を一人にしないで」
半身を起こした梓にすがりつかれてしまった。
梓を一人にはできない。そう思った俺は、そのまま梓を抱きしめた。