人気者 浜路姫
足を踏み入れた灰色の申世界。
この地に攻め込んだ里見義実公はそこを魅力無き地として、占領することもなく、兵を引き揚げた。
それが正しかった事を俺は目の当たりにしている。
足元に目を向けると、乾ききった大地。それがこの申世界全てに広がっている事を物語るかのように、この世界は辺り一面灰色で満たされている。
「梓ちゃんは申世界に詳しいんだよね?」
「はい」
今度も言葉で俺に意思を示した。それが何だかやっぱり嬉しい。
「道案内を頼めるかな?
姫様を最後に見たのは大猿の館でいいんだよな?」
「はい」
梓は誰に八犬士を連れてくるよう命じられているかは言おうとはしない。が、姫を最後に見たのは大猿の館だと言った。姫を監禁し、梓に命令を出しているのは大猿以外ありえないのだ。
梓の道案内で、申世界を進んで行く。
人気のない道をかなり進んだところで、みすぼらしい集落が目に入った。
初めて見る申世界の普通の人々。彼らの痩せこけた顔と体格が生活が貧しい事を物語っている。
ここに来るまで、畑に植えてあったものは粟だった。
この地は噂で聞いていた以上の乾燥地なんだろう。
「梓ちゃん。
雨はあんまり降らないのかい?」
「はい。ほとんど降りません。
降っても、わずかばかりなんです」
そんな俺たちの会話が聞こえたのか、集落から一人の女がやって来た。
「あんたのその刀を差した格好、あんたたち甲斐族だね」
猿族は甲斐族を憎んでいる。それだけにこの地でそう聞かれれば、身構えなければならないところだが、相手は女であり、殺意も敵意も纏ってはいない。
「ああ。そうだが」
「浜路姫様をご存じか?」
「どうして、その名を?」
「浜路姫様はこの地に雨を降らせてくれたんじゃ。
そして、川をこの地に造ってくれるそうじゃ」
「姫様が川を?
梓ちゃんは知っているのか?」
「はい。
姫様は八房と伏姫の力を使って、この地に川を造られるそうです」
「は、は、ははは。
あの人の考える事は分からんねぇ」
「この方はその浜路姫様の護衛の方です」
梓が言った。段々積極的に会話するようになってきている。そんな風に思ってしまう。
「みなの衆。
こちらは浜路姫様の警護の方だそうじゃ」
「おお、浜路姫様の?」
「浜路姫様はお元気か?」
老若男女、様々な集落の者たちが俺たちの周りに集まって来た。
「姫様、人気者だねぇ」
「そりゃあ、当然です。
雨でみんなを救ってくれたんですから」
「それだけじゃねえ。
流行病も治してくれたんじゃ」
「流行病?」
「この地には流行病が蔓延していたんです。
それを犬王の力で治してくれたんです。
だから、みんな感謝しているんです」
「それなのに、大猿は姫様を監禁したのか?
いや、だからこそ、監禁したのか?」
姫様を慕う人々を前にして口にしてはならない言葉だと分かっていながら、怒りの感情がついついその言葉を吐きださせてしまった。
「姫様を監禁?」
「大猿が?」
「だから大輔様が兵を集めておいでだったのか」
「大輔様は大猿を討つのか?」
「ちょっと待ってくれ。
大輔様って誰なんだ?」
「この地、三猿家の若君です。
こちらで、姫様と行動を共にされていたようです」
梓が俺に説明してくれた。
「本当に、その若君が姫様のために大猿に戦を仕掛けると?」
「大輔様はお優しい方です。
その方が兵を集めるなんて、他には考えられねぇ」
「だったら、我らも大輔様の下に」
俺たちを取り囲む人々は興奮気味だ。
それは姫様がこの地の人々に好かれているから。
それは姫様がこの地の人々に夢を与えたから。
それは人々が夢を掴もうとしているから。
夢を叶えるためなら、人は力を発揮できる。
「待ってくれ。
だからと言って、戦を始めるのは間違っている。
まずは俺に任せてくれ。
そのために、大猿の館に向かっている途中なんだから」
「おお、そうでしたか。
姫様をお頼み申す」
「お願いします」
「姫様を姫様を」
一体全体、浜路姫はどこの姫様なんだか分からなくなってしまう。
「みんなにこんなに好かれているんですね」
梓が言った言葉には何だか哀愁が漂っている。そんな気がした。