兵たちの前に立つ松姫
「なにが起きたんだ?」
「おい、あそこ、刀を持った男がいるぞ?」
「女の人もいるが、あれが松姫様なのか?」
「怪我をされているんじゃないのか?
あれは血だろ?」
お堂の裏とは言っても、黒装束の男たちは逃げようとしていたため、犬飼が黒装束の男を捕えた場所は、集まって来る人たちの完全な死角ではなくなっていた。
集まってこようとしていた人たちの注目は、松姫が潜んでいるはずのお堂の中から、外の私たちに移っていた。
「犬飼さん、仕方ないので、ここはそのままにしておいて、松さんの所に戻りましょう」
そう犬飼に言って、私はお堂の中に駆け込んだ。
本物の松さんはお堂の片隅でしゃがみ込んで、私たちが戻って来るのを待っていた。
そして、その対角に位置するお堂の隅には真っ二つに斬られた男が、まき散らした内臓と床に広がる真っ赤な血と共に横たわっている。
気が張っていて、気づいていなかったけど、自分も血まみれになっている事に気づいた。
いやぁぁぁ! と叫びたい気持ちと、着衣や素肌に纏わりつく血を洗い流したい気持ちがこみ上げてくる。
だけど、そんな事を気にしていたら、これから戦っていけやしない。
敵を斬るのは男の人の仕事。なんて言って頼ってばかりじゃ、一人になった時に困ってしまう。自分の身は自分で守る。生き物の基本。そう言い聞かせて、気を取り直し、松さんの下に近寄る。
「松さん、大丈夫だった?」
「あ、あ、ありがとう。
あれって、私を狙ったんだよね?」
「残念だけど、私の想像どおりだったみたい。
犬飼さんの幻術で本物の松さんを隠し、幻影の松さんを見せていなかったら、守れなかったかも、しれないわね」
「犬飼さん、ありがとうございました」
松さんが立ち上がって、犬飼に頭を下げた。
「松姫様ぁ」
「どちらのお方が松姫様で?」
お堂の前まで来ていた猿飼の兵たちが松姫の名を口にした。
「私です」
松さんはそう言って、お堂の前まで進み出た。
「松姫様」
「松姫様」
お堂の前に集まって来ていた兵たちは涙ぐみながら、頭を下げている。
やがて、嗚咽的な声も聞こえ始め、みんな松さんに会えた事に感動している風だ。
そんな光景を前にして、そこまで忠誠心的なものがあるものなのかと少々私的には理解できないでいる。
「皆さん、私に力を貸してくれませんか?」
「もちろんです」
「喜んで」
松さんの言葉に、次々に応えている。
そんな光景に水を差す気配を感じた私はお堂の奥に引き下がり、天井に向かって言った。
「降りてきなさい。佐助」
天井の板を外して、佐助が姿を現わした。
「気づかれちゃいました?」
「天井裏は使うなって言ったよね?」
「やっぱり自分だけは特別なんですね」
「そんな事はいいから、なんで天井裏使ってんのよ」
「だって、表は集まって来た猿飼の兵でいっぱいですからね。
ところで、お堂の裏とここに転がっている男の遺体はなんなんですか?
しかも、りなさん、血に染まってますけど、それって返り血なんですよね?」
「あの男たちは松さんを狙って来たのよ。
私と犬飼さんで返り討ちにしたの」
「まあ、八犬士の犬飼さんはともかく、りなさんもついに人を斬ったって事ですよね?
正直驚きです」
「自分の身や、大切な人の身を守るためなら、仕方ない時もあるのよ」
それは心の奥底にまだ恐怖と罪悪感が潜んでいる私自身を納得させるための言葉でもある。そう。悪意を持った者たちや敵に何もしなければ、自分や大切な人が殺されたり、傷つけられる。そんな光景を見るなら、私はやる。そんな事を思った時、ふいに本王寺で明地の兵たちが私を狙って放った矢の雨の前に立ちふさがった緋村の背中が、私の脳裏に浮かんだ。