雲散霧消した猿飼の兵たち
大河ドラマの戦の跡なんかで、旗指物が無残に泥にまみれ、うち捨てられている光景は何度か見たことがある。その知識が私の全てだった。
思い起こせば、熊さんを狩った時もそうだった。生きている物を斬れば、その命を支えていた赤い血が噴き出す。そして、そのもの達が生きていた証として、辺りを真っ赤に染めるのだ。だったら、旗指物にもその痕跡がくっきりと残るはず。
それが無いと言う事は、ほとんど人は死んでいないに違いない。
その事に私は少し安堵した。
「じゃあ、ここに集まっていた兵たちはどこに行ったの?」
「おそらく、考えられるのは潰走したと言う事なんじゃないでしょうか?」
「だったら、緋村、そんなに人も死んでいないのに、どうして潰走することになったの?
それに、松さんのお兄さんはここで亡くなったんでしょ。
そうだ、佐助、あんた、諜報にも長けているんでしょ?
何か知ってないの?」
「この戦いの事は私の里の者からすでに情報を得ています。
お話しましょうか?」
「当たり前でしょ。
話の流れから言って、自分から話し出すべきでしょ」
「そうですか。
では」
そう言って、話し始めた佐助の話によると、猿飼と四公との戦いはこんな感じだったらしい。
四公が軍を集結させているとの情報に、急遽、猿飼は軍を出動させた。
私たち甲斐族とは異なる民族である猿族 四公の世界、申世界とつながる道は利馬主真雲天しかなく、ここから討って出てくる四公の軍を迎え撃とうと、その前面に広がる平原に猿飼は軍を集結させた。
四公の動きは申世界を取り囲む裂土羅隠の頂上に点在する監視台で常に監視されていて、侵攻の動きがあると狼煙があげられる事になっている。
猿飼が軍を展開させ終えた頃、明地軍の先遣隊がこの地に到着したとの情報が届いた。
猿飼は軍議を開くため、配下の諸将を本陣に集め、明地の武将到着を待っていたところを隠密裏に侵入していた四公の部隊に本陣の背後から襲撃され、猿飼はもちろん、主だった将を全て討ち取られた。
本陣が壊滅し、主君はおろか指揮官までも失い、猿飼の兵たちが混乱状態に陥っている最中、裂土羅隠に点在する監視台から狼煙が上がった。
指揮官もなく、命令系統を持たない部隊が戦える訳もない。
何人かが旗指物をうち捨てて逃げ出し始めると、総崩れとなり、ここの集まっていた兵たちは雲散霧消した。
「そう言うことだったのね。
で、四公の兵はどうしたの?」
「結局、こちらに来ることは無かったと聞いています」
「なるほど、敵は猿飼軍の頭だけを暗殺と言う汚い手で潰しただけって事ね。
だったら、まずは散り散りになった兵をもう一度集めませんか?」
「それがいいと思います」
最初に賛意を示したのは佐助だった。
「松さん、だれか兵を集める事のできる人を知りませんか?」
「私には分かりません」
「そうですか。
姫が帰還したと分かったら、戻って来ると思うんですよね」
「それはそのとおりでしょう。
松姫がいてこそです。
りなさんと松姫はここに残っていただいて、その間に緋村さんや八犬士の皆さんで、まずは城下を回って、松姫が兵が集まるのを待っていると触れ回りましょう」
「佐助、でも、それなら松姫も一緒の方がよくない?」
「広い範囲を回った方がいいと思うので、みんなで一団となって回る訳じゃないですからねぇ。それに、話を聞いてここに集まって来た人たちに姫様の姿を見せる必要があると思うんです」
「佐助、りなさんの警護が必要だろ。
私は残るぞ」
「緋村さん、八犬士のみなさんは兵を率いていた経験が無いので、ぜひとも緋村さんには一緒に回ってもらいたいんです」
「そうねぇ。だったら、犬飼さんを警護に残して行ってもらえるかな?」
「私ではなく、犬飼さんですか?」
「もちろん、緋村の力は信用しているのよ。
でも、松さんのために緋村の力が必要だと言うのだったら、そちらに回って欲しいの」
「分かりました。では、私は城下に参りましょう」
「緋村殿、ご安心ください。
私がりなさんをお守りします」
「話しはまとまったようですね。
では、りなさんたちはあそこに見えるお堂の中で待っていてもらっていいですか?」
佐助がそう言って指さした先には、立ち並ぶすすきを背に少し古めいたお堂が建っていた。