決戦の始まり
朝の静けさを破った地響き。
ドスン、ドスンと少しずつ大きくなってくる。
慌てて外に飛び出すと、まだかすかに残る満月を背に人の高さの数十倍はあろうかと言う巨大な猿が我々の背後に迫っていた。
大猿家に伝わる妖術、賽八陣による肉体の猿化と巨大化。
人の力では抗えそうにない相手に、猿飼の兵たちは混乱気味だ。
「奴らの狙いは直接背後から本陣を踏みつぶす事か?」
「犬山さん、あいつを焼き払って」
「承知」
姫の言葉に犬山が炎の術を使った。
一瞬にして炎に包み込まれて、動きが止まった。
「やったか?」
その俺の言葉には、期待が大きくこもっていた。
が、やはりそれは期待でしかなかった。
犬山が炎を止めると、再び大猿は動き始めた。
「火鼠の皮衣と同じようなものなの?
なら、犬江さん、雷を」
「分かりました」
灰色の低い雲の満たされていた空は、一瞬にして真っ黒な厚い雲に覆われ、空の所々で稲光が起き始めた。
ゴロゴロゴロ。
一発の雷が轟音とと共に、大猿の頭上に落ちると、一瞬大猿の動きが止まったが、それも一瞬だった。
「だめなのか?」
そう俺の口から出た時、姫が俺たちの背後を振り返った。
ゴゴゴゴゴ。
雷鳴に紛れていた別の音が背後でしていた。
高松城を取り囲んでいた堤の一角が打ち破られ、そこに蓄えられていた水が一気に俺たちに襲い掛かろうとしている。
「出でよ。犬王」
姫が犬王の力を使った。
辺りは闇に包まれ、元の世界の時は静止した。
遥か天空より、八房と伏姫が現れた。
「浜路姫よ。
相変わらず、その者を連れておるようじゃな」
その時、俺は知った。伏姫が気にしていたのは三猿家若君 大輔の事ではなく、梓の事だったのだ。
「だから、それはいいから」
「浜路姫よ。
今の状況を鑑み、姫が選ぶべき選択肢は次の二つの内のいずれかである」
八房が言った。
「妙椿が消し去った堤の一部より流れ出した水を全て消し去るか、あの大猿を消し去るかである」
「やっぱ、その両方ってのはだめなんだね?」
「当たり前であろう。
自らの力で切り拓く。
それが未来と言うものであろう」
「だよね。
あなたたちに頼ってばかりじゃね」
「じゃが一ついい事を教えてやろう」
言ったのは八房だ。
「葉芝秀吉の頭の中を読む事はできなかったであろう。
その理由は、あやつの頭の中には何もないからじゃ」
「なるほど。
そう言うことね」
「で、どちらを選ぶ」
「あの水を全部消し去って」
「承知した」
伏姫がそう言い終えた時、闇は消え、犬江が作り出した雷雲垂れこめる暗い空間が姿を現わした。
高松城を取り囲む堤の一角は完全に消滅したままだが、そこから轟音と共に流れ出していた水は姿を消していた。
「これで大猿に専念できるわね」
「姫様、確かに専念はできますが、そう簡単に倒せる相手ではないですよ」
「やるしかないでしょ。
それに、緋村、考えてもみなさいよ。
これは戦いの序盤でしかないはず」
そうなのだ。妙椿が堤の一角を消し去ったとは言え、妙椿自身がまだ姿を現わし、俺達に襲い掛かって来てはいない。
「そのとおりですよ。姫様。
我々、伊香の里もいます」
そう言って、姿を現わしたのは佐助だった。
「みなさん。
死んでもらいます」
そう言うと佐助はいきなり姫に斬りりかかった。
キィィィン。
佐助の刃を姫が犬王の剣で受け止めた。
その刃をはじき返すと、そのまま姫が佐助に斬りかかった。
佐助も伊香の里随一の腕前と言われるだけあって、その刃をかわすと、再び姫に向けて刃を振り下ろした。
そのまま姫は後退して、刃をかわすかと思った時、横にそれた。
背後からも別の伊香の里の忍びが襲い掛かろうとしていた。
「姫様!」
姫の援軍に向かおうとした俺を多くの忍びが取り囲んだ。
「緋村将軍。姫や八犬士、猿飼の武将や兵たちもいる中では一斬りの技は使えまい」
そう言ったのは伊香の里の長老だった。
「犬村さん、犬山さん、犬江さんはとにかく大猿をお願い。
残りの八犬士さんたちはこいつらを一緒にお願い」
「承知しました」
伊香の里の忍びたちの排除に動き出していた犬村、犬山、犬江たちが反転し、再び大猿に向かい始めた。
伊香の里も何とかしなければならないが、大猿を止めなければ、大猿に踏みつぶされるのも時間の問題だった。