敵前逃亡
耶麻崎では明地、芝田の両軍が激突しているはず。その戦の結末を俺たちは明地の領国内の町で固唾をのんで待っている。の筈なんだが……。
隣の女子部屋から漏れ聞こえてくる声には、そんな緊張感が全く感じられない。
「でも、私は献身が子供の頃の事だって知ってるんですからね」
「最近の事なら、私達の方が詳しいと思うんですけど」
「私は献身の寝顔だって見た事あるんですけど」
「それって、子供の頃の話でしょ」
「あ、あ、あのすみません。
私も緋村様の寝顔は何度か見たことが……」
「ちょっと、梓ちゃん。それはどう言う事よ」
「えっと…」
「そうよ。あなた献身とどう言う関係よ」
「姫様のお言葉を借りると彼女さん?」
「なにそれ?
佳奈さん、彼女さんってどう言う意味なの?」
「お付き合いしている恋人だね」
「なによそれ。でも、私は献身と結婚の約束しているんですからね」
あかねがやって来てからは、ずっとこんな感じだ。
俺の事をどれだけ知っているかとか、全くもって意味の無い話で、張り合っている。
「はぁぁぁ」
思わずため息が出てしまう。
俺のいる男部屋はその対極の静けさに覆われている。
忠犬たちは姫の命が無いので、大人しくしていて、今の俺のため息が久しぶりのこの部屋の中で発した音だ。
「佐助、天井裏禁止。
いつも言っているでしょ。
そのまま緋村たちを呼んできなさい」
姫の声がした。佐助が戻って来たと言う事は、戦の大勢が決したに違いない。
「よいしょっと!」
天井板を外して、佐助が飛び降りて来た。
「姫様がお呼びです」
「承知」
「今すぐ伺います」
忠犬たちは佐助の言葉にいそいそと隣の姫の部屋に向かった。
忠犬たちに続いて、俺も姫の部屋に向かう。
すでに忠犬たちは姫の前に向かい合って正座して揃っている。
主人の前で”待て”をされて、はっはっはっとベロを出しながら待っている犬の姿が重なる。
姫と八犬士たちの側面に梓たちが一人分の隙間を空けて並んで座っている。
「緋村様、こちらにどうぞ」
自分の隣を差して梓が言った。
「いえ、献身。ここに場所を空けています」
あかねも自分の隣をさした。
「緋村様。ここですと、私と梓ゃんの間です。
こっち側ですと、私とあかねちゃんの間です。
どうですか、このどちらかにされては」
梓とあかねの間に座っている松姫が言った。
「えっと」
戸惑っている俺に、姫が言った。
「面倒くさいから、八犬士たちの横に座りなさい」
「はい。姫様」
俺としては訳の分からない梓たちのもめ事から逃れられて助かった気分だが、梓たちはなぜだかふくれっ面だ。
「佐助。戦況は?」
梓たちの対面に一人座っている佐助に姫がたずねた。
「明地勢は戦わずして、総崩れとなりました」
「はい?
なんで戦わずして?」
「明地の兵たちは、戦は嫌だと叫んで敗走しました」
「はい?
敵を目の前にして?
敵前逃亡って事?」
「姫様、それは姫様の責任では?」
姫に言った。そう。犬坂毛野に姫は戦争は嫌だと言う意識を人に植え付けるように命じたじゃないか!
「あれは、そう言う意味じゃなかったんだけど……」
俺の言葉の意味が分かったらしい。この戦の勝敗を決したのは姫のあの言葉だったとしたら、この結末はずっと前から決まっていたことになるじゃないか。
「ひ、ひ、久しぶりね。緋村。
わ、わ、私が緋村とお話したいから、出てきた訳じゃないんだからね。
でも、出てきてあげたんだから、私をぎゅっとしなさい!」
梓たちの冷たい視線の中、姫は敵前逃亡して、元の姫を俺の前に差し出しやがった!