カチカチ山
「カチカチ山かよ」
姫はそう呟くように言ったかと思うと、梓に視線を向けた。
「梓。甲斐族の地で舟は見てたよね?
あの二つの舟のどちらに乗りたい?」
姫は続いて、意味不明な質問を梓にした。
舟とは木で出来ているのが当然なのだ。
泥の舟が浮くのかどうかも怪しいが、浮いたとして、途中で溶けてしまうに決まっている。
「私は小さい方でいいです」
川の無い申世界で暮らしていた梓には船の素材に対する知識が乏しいらしい。
遠慮気味に小さい方と言う基準で、木の方を選んだ。
「だよねぇ。
さすが、梓」
「すみません。
姫様、意味が分からないのですが、カチカチ山ってなんですか?」
俺は姫にたずねた。
「カチカチ山って言うのはね。
お婆さんを殺した欲張りで性悪な狸を殺すために、ウサギさんが魚を獲るために大きな泥の舟と小さな木の舟を用意して、その狸を誘うの。
すると、欲張りな狸は大きな舟の方がたくさん魚を積めると考えて、泥の舟を選ぶんだけど、泥の舟は溶けて、やがて沈んじゃうって話」
「いやぁぁぁ。
私は、私は」
姫の話を聞いていた梓が突然叫んだ。
そう言えば、梓は裸婦照でも何だか狸で取り乱していた。
妙椿は狸。
俺の思考がそこで停止している内に、梓を佐助が抱きしめていた。
「梓ちゃん。
落ち着いて!」
やっぱり、二人はそうなのか?
梓の混乱ぶりと、目の前の二人の姿が俺の思考をますます乱していく。
「どきなさい」
そう言って、姫が佐助を梓から引き離した。
心の奥底で姫に喝采を送る。
「梓。
大丈夫。
私はあなたの味方。
安心して。
私はあなたを守るから」
今度は姫が梓を抱きしめて、頭を撫でている。
「ほ、ほ、本当に私の味方になってくれるんですか?
わ、わ、私が……」
何か言おうとしている梓の唇を姫が立てた人差し指で塞いだ。
「もちろん。
味方になるんじゃなくて、もう味方でしょ。
だって、友達なんだから。
梓は梓のままでいいって言ってなかった?」
梓は涙を流し、姫に回した腕に力を込め、ぎゅっと抱きついていた。
ともかく、梓は落ち着きを取り戻した。
大半の民衆は川を目の前にした歓喜に包まれていて、梓の異変に気付いていなかったが、民衆たちのように無邪気に川に飛び込んで大はしゃぎなどしていなかった大輔は梓の異変に気付いていた。
「梓ちゃんはどうされたのですか?」
「ああ。あそこに舟がありますでしょう」
「現物を目の前にするのは初めてですが、一つは木で、もう一つは泥ですか?
泥でも舟ができるなんて、初めて知りました」
「と言うか、泥で舟はできません。
姫が言うにはカチカチ山と言う話があって、性悪な狸を殺すために使ったのが泥で出来た舟らしいんです。
その話を聞いた梓ちゃんがなぜだか取り乱して」
そう。なぜだかである。俺の脳裏をかすめる嫌な可能性には気づかないふりをする。
「あの子は梓、梓……」
大輔は梓を見つめながら、梓の名を繰り返した後、突然ハッとしたような表情を浮かべ、視線を梓から逸らした。
「どうされました?」
「いえ。なにも。
私は何も見ていません」
で、で、出た! 三猿家の見ざるの技。
それが俺の心の奥はさらに大きく乱し始めた。