葉芝秀吉
俺たちは今、ある旅籠の一室で葉芝と向き合っている。
上座には姫を据え、自らは下座に座っている。
「姫様、いやご隠居様でよろしいのでしょうか?」
姫は葉芝の言葉にご満悦顔で頷いている。
しかも、顎髭などある訳もないのに、何か顎に髭があるかのような仕草をしている。
「ご隠居様が亡くなられたとうかがった時はとても悲しくて、残念で仕方ありませんでした。この手で、四公討伐をと思ったものです。しかしながら、我が軍勢は敵軍勢と対峙中故、それもままならず。
しかし、生きていて下さり、それだけでも私は嬉しゅうございます。
ですが、ご隠居様」
そう言った時、葉芝の雰囲気が変わった。
さっきまでは大げさとも思えるほどの悲しさ、そして嬉しさを表情と声音だけでなく、体すべてを使って現わしていたが、体の動きを止め、顔つきも引き締め、言葉を止めた。
「なんでしょうか?」
「噂では明地様による謀反と言う話もあります。
そのような事はあるまいと思っておりましたが、ご隠居様がご存命でありながら、このような地におられる。
つまり、噂が本当だったと言うことでしょうか?」
「その話はややこしくなるから、今は置いておきましょう。
今、明地が帝位に就いている訳ですから、葉芝様はその家臣。そう言うことですよね?」
「そこをお気になされていたのですか?
明地様より四公討伐に向け、軍勢を差し出すよう指示はありましたが、芝田殿をはじめ誰も参陣しておりませぬ。それはつまり、まだ明地様の帝位を認めていないと言う事。
よって、私は決して明地様にご隠居様の事を報告するような事はございません。
いえ、それ以上に、ご隠居様が明地を討てと命じて下されるのなら、我が軍勢全てを以って、明地を討伐いたします」
「葉芝殿。
ご隠居に代わって、私が言うのもなんですが、うちのご隠居は明地殿との戦いを望んではおられませぬ」
「緋村殿。
そうでしたな。そのような事、公言する訳にはまいりませぬわなぁ。
結構、結構。
されど、ご隠居様、明地討伐、いいえ、帝位を望まれる際は粉骨砕身、お力にならせていただきまする。
心にお留め置きください」
そう締めくくり、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
そう言われて、何も言わないと言う訳にも行かなかったのだろう。姫が礼を言った。
「ははぁ。
有りがたきお言葉」
葉芝はそこで一度言葉を止め、辺りを見渡した後、言葉を続けた。
「そう言えば、他の皆様方のご紹介をしていただけていませんでした」
葉芝がそう言ったので、まずは八犬士たちが自己紹介を始めた。
葉芝は八犬士たちの話を一々大げさに驚嘆し、尊敬するかのような表情と言葉で受け答えた。
特に自分の正妻音々が育てた犬山道節も八犬士だったと知ると、こんな栄誉な事はないと大げさに喜び、その反応は特別なものだった。
そして、一通り八犬士たちの自己紹介が終わった。
「なるほど、ご隠居様は伝説の八犬士の方々を引き連れておられると言う訳ですな。
なら、我が軍勢など、ご隠居様の力の足元にも及ばぬやもしれませぬなぁ。
足手纏いにならぬよう、お力添えをさせていただきます。
で、こちらのお美しい女性の方々は?」
「私、猿飼の松でございます」
「猿飼の?
これはご無礼を。忠宗様はお気の毒な事を。
何か困ったことがありましたら、言って下され。
協力させていただきまするゆえ」
そう言うと両手を松姫の前に差し出した。
握手。そう理解した松姫が手を差し出すと、両手で握りしめ、葉芝は頭を下げた。
実際は若い女、しかも猿飼の家の姫である。葉芝の心の奥はいやらしさ爆発状態の筈だ。
「わ、わ、私は梓と申します」
「梓殿?
どちらの」
葉芝が少し小首を傾げている。きっと、名も無き者が姫の供であると思っておらず、家名を待っているのだろう。
「秀吉殿。梓は、ご隠居の友人ですが、ただの梓です」
俺が梓の事をそう説明をした。
「お、おお。そうでしたか。
葉芝秀吉でござる。
よろしくお願い申し上げます」
そう言って、梓にも葉芝は手を差し出した。
「よ、よ、よろしくお願いいたします」
梓が出した手を葉芝が両手で握りしめた。と思っていたら、葉芝の手がずれて、梓の右の服の裾の中に滑り込んだ。
「きゃっ!」
梓が小さな悲鳴を上げて、手を引き戻した。
「おお。すみませんでした。
ちょっと手がずれてしまいました」
葉芝はそう弁解したが、あり得る話ではない。
きっと、触りたかったに違いない。松姫にそのような無礼を働けば、後々問題となるかも知れないが、梓なら問題ないとなめられたに違いない。
「葉芝殿。
今のは度が過ぎた戯れですぞ!」
俺が怒鳴るように言った。
ここは葉芝の領国だがもめ事を起こしたところで、すぐそこが芝田の領国だし、八犬士たちを従えた俺達なら、困る事はない。
「梓殿。
すみませなんだ」
頭を下げて謝る葉芝に、梓はこくりと小さく頷いた。