ラングマン大公国
ドイツとフランスの国境地帯、そこにラングマン大公国と呼ばれる国がある。
立憲君主制の国家で、おおよそ淡路島程度の面積で、周囲を山に囲まれた盆地に、人口約3万2千人が住んでいる。
この国は、ラングマン大公と呼ばれる大公が統治している。
国は16の区に分けられ、それぞれに中心となる教会がある。
それぞれは教区であり、国の首都となるラングマン教区には、ラングマン大司教座大聖堂がある。
他の教区は、全てラングマン大司教座が代表となるラングマン大管区の管轄となる司教区となっている。
現在の大公は、辺境領主の一人であったグリード・ラングマンがその始祖とされる。
1050年ごろ、現在のラングマン大公国の領域にあたる地域を統治し始め、以後、この家系の当主が統治者としている。
さらに徐々に領域を外へと広げていき、山をさらに越え、川の近くまで迫ったといわれる。
この川は、現在のライン川のこととされている。
また、ラングマン司教が設置されたのは1100年のことであり、この司教の名前の由来となったのもこの辺境領主のラングマン一族であった。
周辺には修道院ができ、ラングマン司教は管区司教として影響力を持つこととなる。
1300年に当時の東ローマ皇帝より、この一帯を治める辺境伯としての地位を認められ、ラングマン辺境伯領が成立した。
1500年までには、侯爵となり、宮中において一定の地位を得ることに成功した。
しかしながら、選帝侯の地位は、最後まで得ることができなかった。
1648年のヴェストファーレン条約のころ、ラングマンは公爵となり、この領域の領主として知られるようになった。
これをもって、ラングマン公爵領としての認知となり、自らの領地の運営に励むようになる。
ただしラングマン公爵領は、現在のラングマン大公国のおおよそ2倍の領域を占めており、さらに街道の宿場となるような平地があったこともあり、その収入が主な収入源となった。
この宿場は現在もラングマン大公国の中にあり、現在の街並みが整えられたのは1780年ごろとされる。
また、ラングマン大聖堂もこのときに作られた。
対ナポレオンの戦争の際には、ラングマン公爵は中立を宣言したうえで、ナポレオンが攻めてきた場合には攻撃をすることにした。
だが、結局アルプス越えをする際にナポレオン軍はラングマン公爵領を通過することはなかったため、戦闘をすることはなく、領域を荒らされることはなかった。
この通過する際の兵力として義勇兵や公爵騎士と呼ばれる武装兵力を持つこととなっており、これらは後に軍となることとなる。
1803年、土地を半減するように皇帝から命令を受けこれに反抗。
結局半年にも及ぶラングマン戦争と呼ばれる戦争の結果、現在のラングマン大公国の領域と同一の領域となる。
この土地の分割の一方、1804年、オーストリア皇帝、神聖ローマ皇帝の連名により、大公となる。
このときより、ラングマン大公国と呼ばれるようになった。
1830年までにオーストリア皇帝の影響から脱し、独立国となった。
しかしながら王を名乗ることは、独立する際の取り決めによってできなかったといわれており、それが現在に至るまで大公となっている理由とされる。
ただし、この取り決めは今に至るまで表に出て来ておらず、真相は謎となっている。
また、このとき、すでにラングマン大公国内には9つの司教が並んでおり、大公国の首都司教としてラングマン司教がいた。
残りの教区は大公となった後にできたものである。
1900年、独立した兵団を軍と改めることにし、その中心として士官には公爵騎士から変わった大公騎士団が就き、義勇兵はその指揮下に入ることとなった。
ただ、大公騎士団のうち、数名は軍に入ることを拒否したため、騎士の称号を褫奪することとなった。
それでも世襲が許された者もいるが、1950年までには全員の地位が回復している。
この名誉回復も、1900年代前半に起こった複数の戦争の影響である。
特に、第一次世界大戦、第二次世界大戦の2回の大戦により、甚大な影響をラングマン大公国は受けることとなった。
1935年以後にはナチスによる侵略を受ける可能性があったラングマン大公は、知己であったグッディ子爵と連絡を取るようになる。
この連絡は暗号として使われることも多々あり、その際の連絡としては、バロン・ディルガウと呼ぶ符丁を使うこととなった。
このディルガウとは、ラングマン領内の伝承の一つで、グール伝説のうち、そのグールを退治したといわれている人物の名前である。
また、ラングマン大公国の騎士の一族の始祖でもあり、現在も名前は続いている。
連絡手としてディルガウは用いられ、騎士筆頭ともなっていた。
ちなみに、軍役拒否の最高位の騎士でもある。
そのため、グッディ子爵と連絡を取るようになった際には、名誉騎士と僭称していた。
彼は自らの名誉のために、グッディ子爵との連絡役を買って出て、そして実行した。
この連絡のためには手野財閥の力を借りたという。
中立国としての宣言を行っていたものの、周辺に承認されているとはいいがたく、そのために攻め込まれることも十分にあったために、これらの措置を行ったとされる。
なお、この宣言のために、周辺国からの難民を受け入れることもあった。
1931年、ラングマン大公はいよいよ国土防衛体制を発表する。
攻めてきたらやり返すといった言葉で表される単純なものであったが、これにより、大公国全土に対して防衛のための出動が軍に出された。
この軍には、軍の兵以外にも、一般市民のうち必要な人物も含まれており、最終的には人口のおおよそ5割が参加したという。
これらの総指揮にあたったのがラングマン大公であった。
彼の指揮により、少なからずの生命が守られたとされる。
特に、ナチスによって1941年から1944年にかけて行われたラングマン大公国侵攻作戦は、国土の3分の1を焦土とした。
だが、要塞となっていた各修道院や教会といったところを拠点とし、さらに地下トンネルによる物資や情報のやり取りを行うことにより、国としての体裁を保ちつつ、さらにナチスに対する攻撃を受け続けることに成功。
結果として、中部ヨーロッパに残された連合軍の反攻拠点、レジスタンスの活動拠点となり続けた。
なお、1941年のラングマン大公国侵攻作戦の実施を受け、ラングマン大公はナチスに対する宣戦布告を実施し、これをもって連合国の一員として名を連ねることとなった。
この侵攻作戦を受けている間、実際に国土を占領されるということはなかった。
しかしながら、周辺全域が敵となったため、物資の供給は滞り、国土の無事なところは畑となり、食糧生産を続けることとなった。
また、難民の流入も続き、彼らも食糧自給に協力することとなる。
1945年1月19日に最後の空襲があり、以後、国土に対する攻撃はなくなった。
ナチスの降伏の日、ラングマン大公は自らの名において、現在の戦闘態勢を終了することとし、これをもってラングマン大公国の欧州戦線は終結をみた。
国際連盟の原加盟国となっていたラングマン大公国は、国際連合にも原加盟国として名を連ね、初代国連大使とし、大公世子を指名した。
なお、大公世子が国連大使となったのは初代のみで、二代目以降は全て大公の血縁以外から選ばれている。
ラングマン大公国は、現在2つしかない大公国の1つとし、またいくつかの貴族階級が現存している。
神聖ローマ帝国時代に叙爵された家系がいまも存続しているのだ。
また、ラングマン大公は、大公となった際の取り決めにより、公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の5つの爵位を自らの権限によって授けることができる。
ただし、これらの爵位は、神聖ローマ帝国時代の皇帝から授けられた爵位の下とされ、また自らの土地を有することができないという、栄誉称号となっている。
さらにいえば、爵位領はないということであり、大公と爵位を実質管理している団体によって褫奪されることもある。
これらは皇帝からの爵位にはないことであるが、現在も貴族階級は数年に1度増えており、これに併せて騎士階級が並立している。
貴族であるが騎士ではない者もいるが、圧倒的に多いのは騎士ではあるが貴族ではないというパターンの人物だ。
この騎士は大公騎士団を組織するために集められており、それぞれ職階が決まっている。
これらを合わせて上流階級と称している。
この上流階級以外は国民と称している。
彼らによってラングマン大公国は成り立っている。
そしてこれからも、ずっと存続するだろう。