Ideal Summer
理想の夏に出会えなかったすべての人に
寄せては返す波の音。
目を閉じ、耳を澄ませば蘇る。
ひと夏の光景。
※※※
目を開けると僕は海にいた。
陽の光にきらめく紺碧はのどかな田舎町の風景によく馴染んでいる。
遠くで鳥の鳴くのを聞いた。幾羽かの海鳥が雄大な青空を翔る。
つんとした潮の香りが鼻につく。微生物の腐敗臭なのだと、どこかで聞いた覚えがあった。
これは夏に漂う死の匂いだ。
「どうしたの? ぼうっとして」
声の主はとなりに座る少女だった。小首を傾げてこちらを覗き込んでくる。
「なんでもないよ。ちょっと考え事」
「へぇ。何? やらしいこと?」
「違うから」
「ははっ 冗談だって」
少しの沈黙。
膝を抱えた彼女は僕から目を逸らして、躊躇いがちに問う。
「……明日、帰るんだよね?東京に」
いつも真夏の太陽みたいな笑顔を湛える彼女が、今だけは少ししんみりとした空気を纏って見えた。
「うん。そうだよ」
何でもないように装った。表情も声色も視線も仕草も。いつも通りの無気力な僕だ。
さてと、そう口にして彼女は立ち上がる。
んー、と唸りながら伸びをする彼女の細い体躯に少しの間、見惚れていた。
純白のワンピースの裾がひらひらと潮風になびく。漆黒の髪が散らばる。風に飛ばされないようにと、麦わら帽子に片手を添える。
その姿はひとつの完成された芸術品のような繊細な美しさを放っていた。
目の前に差し出された白い手に掴まって腰を上げる。漣が僕らの素足を濡らした。鼻歌交じりの彼女は踊るように僕の手を引いて歩き出す。
彼女は突然屈んだかと思うと海水を両手で掬って僕にむけて飛ばしてきた。反射的に仰け反った僕は藻に足を取られ盛大に転んだ。
「ってえ……」
「わはははっ」
お腹を抱えて笑う彼女は本当に楽しそうで。つられて僕も頰を緩めた。
「きゃっ」
不意に彼女は藻に足を滑らせ、僕に被さるように倒れた。水飛沫が虹色にきらめいた。
「きゃははっ」
薄着の身体同士が密着して、僕は気が気じゃなかったけど、彼女は気にも留めず笑い転げていた。
彼女が予め用意していたバスタオルを羽織って、一旦、各々の家に戻ることにした。僕は夏の間、世話になっている祖父母の家へと向かった。
濡れた服を着替え、僕らは駄菓子屋で落ち合った。漫画に出てきそうな、古くて雰囲気のある店だった。
錆びれたゲーム筐体。吊るされた三角くじの景品。泰然としたアイスクリームの冷凍庫。奥で店番をする老婦。
この目で見るのは初めてなのに、どこか懐かしさを感じる。僕はこの場所が気に入った。
昔奥ゆかしいガラス瓶のラムネを買って、店前のベンチに座った。栓を開けるのに悪戦苦闘する僕を彼女は笑いをこらえながら見ていた。
飲み口に詰まっていたビー玉が瓶の中に落ち、快音をたてる。同時にシュッと炭酸が抜ける音を聞いた。
瓶に口つけ傾けても、肝心のラムネはビー玉によって堰き止められて出てこない。
都会人を嘲笑うかのように、ラムネ瓶は次の試練を周到に準備していたのだった。
「これ、ビー玉が邪魔で飲めないんだけど」
「あー、それはねー。ちょっと貸して」
彼女は受け取ったラムネ瓶を傾け、瓶の凹凸に器用にビー玉を引っ掛けて見せた。
「なるほど。そのための凹凸だったのか」
「どう? すごいでしょ?」
そう言って彼女は僕のラムネに口をつけた。カラコロと転がるビー玉。こくこくと鳴る喉。
突然のことで呆気にとられた僕は何も言えずに、ただ彼女を見つめるばかりだった。
「ぷはっー。やっぱ美味しー」
「いや、自分のあるじゃん……」
「ほら、こっちの方が美味しそうだったからさ」
そう言って彼女は僕のラムネを手渡してきた。
「どっちも同じ商品だけど……」
「もおー、細かいことばかり気にしてると女の子に嫌われちゃうよ?」
そう言って、顔を背けた彼女の頰が紅潮しているのはきっと暑さのせいだけじゃない。
そのあとは普段通りの調子で談笑しながら町をぶらついた。
——ねえ、海辺で夜、一緒に花火しようよ。
彼女とおそらく最後になるであろう約束を交わして別れた。
花火セットは彼女が用意してくるという話だったので、僕はバケツとライターを持って出掛けた。
髪を攫う夜風がひんやりしていて気持ち良かった。
彼女はまだ来ていないようだった。
閑散とした海にあるのは潮騒だけで、いやに寂しい感じがした。
皆に忘れられてしまったのだ。そう海が泣いている気がした。
いつか先の自分を見ているようで気分が悪い。きっと僕も誰からも記憶されずに消えていくのだろう。そう考えると、生きていくのすら恐ろしく感じた。
「おまたせー!」
彼女の両手の手提げ袋からは大量の花火セットがはみ出していた。
「そんなにたくさん……」
「いいじゃん! いっぱいあった方が楽しいでしょ?」
僕はつい笑ってしまった。なんとも彼女らしい。そうだ。彼女にさえ覚えていてもらえれば、他の誰に忘れられたって痛くも痒くもないな。ふとそんなことを思った。
バケツに海水を汲み、ライターの炎に花火の先端をかざした。パチパチとはじける火花が、僕らの顔を明るく染める。
お互いに何も口にしなかった。でも、嫌な沈黙じゃない。むしろ心地よくすらあった。
一袋目の最後の一本が燃え尽きた。
「まだまだあるな……」
僕は頭を掻きながら呟く。
「全部なくなるまで一緒にやろうね」
「いやいや、さすがに明日になっちゃうよ」
「いいよ。明日も。明後日でも……来年になっても。ずっと……今みたいに一緒に」
はっとして彼女を振り返る。白い頰に一筋の光が伝った。
掛ける言葉が見つからなかった。
何て言ったらいいのか、わからなくて。こんな自分が不甲斐なくて。
「……花火、まだこんなにあるんだよ? ずっと一緒にやっていたかったの……また、会えるよね?」
「……うん。来年も君に会いにこの町に来るよ」
ようやく絞り出した言葉は拙かったけど、僕の意思をまっすぐに孕んでいた。僕の言葉に彼女は破顔し、抱きついてきた。
「私……」
彼女はそこで言葉を止め、大きく息を吸った。
——あなたのことが好き
波の音がずっと遠くに感じた。
※※※
耳元で鳴く海を鎮めるべく、僕はPCの画面に表示された動画視聴サイトのページを閉じた。
イヤホンを外して上体を起こすと、身体の節々が痛んだ。
夏。田舎町。海。白いワンピース。麦わら帽子。ラムネ。線香花火。
それらで彩られた僕の原風景。
しかし、僕が描いたひと夏の夢想は所詮、虚構であって現実になんて、なりはしない。
変わり映えのない、退屈で死にそうな世界。
でもきっとこれは、『理想の夏に出会えなかった世界線』。
僕はたまたま出会えなかったけれど、僕が理想とする夏はきっとどこかにあるはずだ。
そう考えてみると、こんな日々もどこか感傷的に思えてきて、ダメな自分を少し許せる気がした。
結局僕にできるのは未練がましく夢想に身を投じることくらいで。虚構であれ何であれ、それだけで僕には十分な気がした。
だから僕は何度だって思い描く。
理想の夏を。




