再会
冬の薄暗さと冷たさが筆を動かした
ぐるるるるるるるっ。
胃袋が潰れる様な感覚。
どんな状況でも腹は減るものだ。疲れていようと、悲しかろうと、怒っていようと。
全身を、耐え難い不安感が覆っていようとも。
朝早くから電車に揺られて街に出ていた少年は人の往来の激しい駅前の大通りで立ち往生していた。元来人混みは苦手なのだが、今彼がそうしている様に肩を竦ませて震える程では無い。数カ月ぶりの外出という特殊な状況と以前あったとある出来事に端を発するトラウマが少年に根拠の無い恐怖感と妄想を植え付けているのだ。
人混みの中から手が伸びて来て連れて行かれるかも知れない。
誰かが自分を尾けて来ていて監視しているかもしれない。
以前の自分と面識が有った人間が居るかも知れない。
彼はただでさえ小さな身体を更に縮こまらせて深い隈のある目をギョロギョロと動かしながらトボトボ歩き出す。道を行き交う誰もが自分よりも遥かに大きく感じる。人の流れに付いて行けなければ踏み潰されてしまう様に錯覚した。
兎に角何処か馴染みの場所で一息吐こうと視界の端を流れてゆく看板を目で追う中で、未だ人並みの日常を過ごしていた頃休日によく訪れていた街の地理も朧気になっている事に気付く。
すぐ近くのコンビニにでも入ろうかと思って顔を向ければ、大勢の学生達が入り口でたむろするかイートインスペースでくっちゃべっているのが目に入った。彼等が来ている制服を認識するなり少年は固まってしまった。よりによって彼が目指していた所の制服だ。走って逃げだしたい衝動に駆られた。駐輪場辺りでジュースを立ち飲みしていた男女が少年の方を向いて指を差した。最悪だ。顔見知りだ。みっともない声を漏らして足をもつれさせながら逃げ出した。
彼は最悪の気分だった。用事も果たせず、びくびくしながら街を彷徨い、おまけに顔見知りに見つかって情けなく逃げ出すなんて。帰ろうと思った。アパートに帰ればインスタントラーメンだってある。外に比べれば部屋の方が暖かいだろう。外より家のほうが―――理屈っぽい事はもうどうでも良い。怖い。怖い。怖い。
あの頃の自分を知っている奴が居る。惨めな負け犬を見て笑っていただろうか。そうでなくても外出なんて。無理だ。もう無理だ。
人混みをかき分けて横断歩道を渡り、線路を囲むフェンスに沿って駅へ。老人の運転する自転車が突っ込んで来る。それを避ける学生にぶつかって転んだ。膝が途轍もなく痛い。急ブレーキで停まった老人は少年を見下ろし、苛立たし気に気を付けろと怒鳴って走り去った。当然周囲からの視線が集まる。泣きそうだ。背を曲げて顔を伏せて、歩く。途中サラリーマン風の男の人が、大丈夫かと聞いてきた。喧騒の中では誰も聞き取れないような声で、「大丈夫です」と答える。
ようやく群衆の中に紛れ込めた。障子紙が如き脆さを誇るメンタルはもう限界だ。信号待ちの人混みにつかまる。青、黄色、赤。後ろから人が押し寄せて来る。なのに前の集団はのんびり歩いているから前後の人々に挟まれる形になった。動けない。塊を構成する粒それぞれが自分勝手に動く所為で揉みくちゃにされた。息が出来なくなって来る。必死に顔を出して酸素を確保しようと藻掻いていると、あっと言う間に駅の改札から引き離されていた。
駅舎がどんどん遠ざかってゆく。流れには逆らえないが、このままだと何処か知らない場所まで流されるかも知れない。少年は隙間を探すが、なかなか見つからない。溜息を吐いたその時、背後から声がした。
「神崎、要」
その声、喧騒を切り裂いて耳に飛び込んで来た低めの女声に彼は戦慄した。本名を言い当てて来る相手。少なくとも姓名を違わず呼べる程の交流関係があった人間。そんな奴はもう居ない筈だった。居たとしても出会いたくなかった。今の惨めな自分を見てほしくなかった。
待て、という声に構わず見つけた隙間から人混みを抜け出し、歩道の車道に近い側を小走りで通り抜けた。見覚えの無い通りだが、まだ線路の隣だ。フェンスに沿って走ればもう一度駅まで辿り着けるだろうと踏んで、脇見も振らずに駅まで歩く。元から体力は無い方だった上に暫く外出していなかった所為ですぐに走れないと悟った。
荒ぶる息を押さえ付け必死に脚を動かした。流され来た道を戻る。歩道の内側を通り過ぎる人々にジロジロ見られた。実際は六十メートル程度の距離なのだが、要にとってはほんの少しの距離が途轍も無く長い距離に感じられた。
駅に入ると昼時の出入りが激しい改札機前の隅でズボンの左ポケットに手を突っ込む。切符を引っこ抜いて改札機へ向かうと喋りなが余所見をして喋りながら歩く学生のグループがぶつかって来た。また転んでしまい、強かにぶつけた膝と、思い切り踏まれた右手の甲から伝わる痛みにおかしくなりそうだった。そして要は切符を何処かに落としてしまった事に気付く。探さないと。地面に視線を這わせるが、一向に見つからない。焦燥感の所為か背中から汗が噴き出すのを感じた。
床に手を突いた要の脇から差し込まれる誰かの腕。強い力で体を持ち上げられる。要が身をよじって抵抗しても腕は離れない。相手の顔が見えないままズルズルと引き摺られ駅の外まで連行されてしまった。
「う、うわあ」
叫ぶと口を塞がれた。冷たい手が口に触れる。助けを求めようとしても道行く人々は彼を見ようともしない。手に持った板切れか話相手の顔だけ。だから平気で人にぶつかるんだ。遠慮無く手を踏めるんだと要は少なからず苛立った。
「騒ぐな」
駅の裏、アーケード辺りまで来ると彼を捕えている人物が言った。さっき人混みで聞いた平坦な声と同じ低めの女声。聞き覚えのある声だと気付き、要が叫ぶのを止めたのを確認すると背後から回された冷たい手が口元から離れて頬や首筋に伸び、手の平や甲を擦り付ける様に動いた。広い道には誰も居ない。これから何をされるのか分からない。残り少ない金を取られるか。そうでなければ何だ。何をされる?ナニをされるんだ。何時かの記憶がアタマの奥底から逆流してくる。
腹部の鈍痛。吐き気。下腹部の嫌な感触。望まない接吻。締まる頸。
「せ、めて、優しく、お願い、します」
「大丈夫だ。何もしないよ。…ビックリさせて御免な。もう立てるか」
手が離された。振り向くと高校の制服に身を包んだかつての友人の姿が映った。記憶から引き出されたおぞましい感覚がサッと退いてゆく。
「…えっ?あ、東屋さん」
「久し振りだな神崎。逢いたかったぜ」
たとえ要が人並みの身長であったとしても追いつけないであろう長身の女子高校生・東屋雅美は鋭い目を細めて笑い、旧友との再会を喜んだ。要は嬉しい反面現在の情けない姿を見られてしまったのが辛い気持ちもあり、笑っているのか泣いているのかどっちつかずな表情を浮かべていた。
「やっと、やっと見つけた。ずっと探してたんだ」
「…お久しぶりです」
「もう半年か、一年かな。もう逢えないかと思ってたぜ…お前今まで何処に行ってたんだよ!あたしも風見もお前に逢いたかったんだぞ。でも、話せる位には良くなったんだ。良かった」
「あの、東屋さん」
「繭樹のクソアマも、斎藤と取り巻き共も御咎め無しだし、猪篠なんかガッチリ青春してやがるし本当に…」
「東屋さん」
「あっ…悪い。腹減ってんのか」
未だ毎日を彼女等と過ごしていた頃は見た事さえ無かった狂喜の表情を浮かべる雅美は、ひとしきり探し物を漸く見つけた嬉しさを噛み締めると元通りの目付きの悪さから不愛想にさえ見える真顔に戻り、要の腕をガッシリと掴むとアーケードの奥へ歩き出した。
「あたしも昼が未だでさ。こんな寒い所で立ち話もアレだし何か食べに行こうぜ。拒否と抵抗は許さねえ。話したい事が沢山あるんだ」
「分かった、分かったからせめて手を放してよ。手え冷え過ぎでしょ」
金輪際逢えぬと思っていた友人との再会に気を取られた要は忘れていた。あの声の主が雅美だったのならば、逃げた際に背後から感じた彼を絡め取り放そうとしない重く粘ついた視線の主もまた彼女である事を。
そして考えもつかなかっただろう。もしも唯一の味方だと思っていた人物が実は長きにわたって獲物を毒牙に掛ける機会を伺っていた毒蛇だったらという事も。