ネズミ飛び出す沈み行く船
その晩、テツとお市はまた鬼怒川の河原で夕飯の支度をしていた。
「今日はお肉たっぷりの塩ちゃんこですよー」
お市は幸せそうにスープを作っている。山と買った野菜と肉にホクホクしていた。
「五百九十八円のもも肉がさ。ホームセンター寄ってからまた見たら、四割引になってたんだよー」
「へえ――」
「今日はもう、さわやかに腹減ったよね。マンモス退治した後の原始人ぐらい充実したハラペコ具合」
「……へえ」
テツは火の世話をしていたが、声がはずまない。
ひざを抱え、そのままころんと横に転がった。けだるく火を見つめ、嘆息した。
お市はふりかえり、
「あぶないよ、そこ。火の粉飛ぶよ」
テツはまた息をついて、小さく言った。
「なんで、おまえそんなに元気なの」
「……」
ふたりはいま賭けをしている。
下校した生徒たちが冷静になり通報していれば、ふたりは負ける。
逮捕され、前科がつく。実家の寺にも迷惑がかかる。破門もあるかもしれない。
それはしかたがないと覚悟できた。しかし、あのよわよわしい笑みを浮かべた新垣を連座させるのは、さすがに胸が痛かった。
テツはひそりと聞いた。
「正当防衛……だめかな」
「あははは。ふつーにテロだわ」
お市はキャベツの葉を剥きながら、
「たしかに多少荒っぽくてもかまわん、とは言いました。多少のね、小突いた、つっ転ばしたぐらいなら、いいわけのしようもあるけどね。思いっきり追っかけて、殴っちゃって蹴っちゃって、暴行傷害以外のなんでもねえわ」
「……」
「なんで急にはっちゃけちゃったのかなあ? もしや、殺しのライセンスでもあんの? セガールなの?」
テツは、おれもケガした、とばかりに、こそこそ人差し指で拳の節を撫でた。
やりすぎてしまった。
取り上げた携帯をお市が精査すると、いくつかから大階段での乱闘の録画が出てきた。すべて消去したが、とりこぼしていれば暴行の証拠になる。
テツも本気で殴ったわけではない。急所は避け、相手の骨を折らないようには注意していた。しかし、大勢を相手するうち、つい弾み、からだが躍ってしまった。
(刃物も持ってたしさ)
なんと言おうと、一瞬、悪ガキ退治にはしゃいでしまったことは事実だった。
「ま、大丈夫でしょ。あいつらバカだから」
お市はキャベツをちぎり入れ、
「おれも一応、煽っといたし、おまわりきたら、そんときゃそん時。御仏のご加護でなんとかなるさ」
けろりとしていた。
この男は学校を手伝うと言った時、嫌悪を露わに反対した。
――やめとけ。もうシロートの手におえる話じゃない。そんな程度のもんなら、もうとっくに片付いてるよ。
――世の中のこと、みんなあんたが正して回らなくていいんだよ。みんな、自分でやるべき問題なの。ここはここで、グダグダのまま楽しく調和してんだよ。先生も生徒も。法力ももたない新米僧の出る幕じゃありません。おれらは修行中!
が、テツが心を決めたと知ると、無駄なことは言わなかった。頭を切り替え、一瞬で計画を組み立て、指示を出した。
この事態になっても、お市は兄弟子の勝手を責めていない。
テツはすまなく思った。
「逮捕されたら、おまえは関係ないことにする」
「そういうのいいよ」
「……」
テツはいよいよ小さくちぢこまった。ごめん、と小声であやまった。
お市はやさしい声を出し、
「てっちゃん。明石家さんまって、ジミー大西がどんなドジしても怒らないんだって。人間だと思うから、腹立つんだ。ジミーは賢いゴリラやと思えば、腹は立たない――」
「…………」
「うん。そう」
「――おい」
テツは笑ってしまい、足を伸ばして相棒の腰を蹴った。
「やめなさい、ゴリ。ごはん裏返して」
お市は鍋の支度をしながら、今後の段取りや教師たちの様子を話した。
テツが生徒に掃除をさせている間、お市は職員室にいた。
教師たちは、僧侶の闖入におどろき、教頭の新垣に詰めよった。
『このお坊さんたちは何者なんです』
『小卒? いったい身元は確かなんですか』
とくに、あごのしゃくれた若手の教師は甲高く言った。
『あのひと、生徒殴ってましたよね? これ大問題ですよ。訴えられますよ。教頭先生、責任とれるんですか』
教師たちは口々に、警察に電話しろ、父兄にどう説明する気だ、と新垣を責めた。
お市は見かねて新垣の前に立った。
『警察を呼びたいなら呼びなさい。ただし、うちの寺は水戸の名物寺ですので、いっしょにプレスも呼ぶことになりますよ。その覚悟はおありですか』
マスコミがかかわる、と聞くと教師たちはたじろいだ。崩壊学校ではあったが、全国的にさらしものになるのは、やはりうれしくないらしい。
お市は鍋のアクを掬いながら、
「いっつも生徒にいたぶられてるくせに、いざ生徒がやられると、こんなめったなことしてバチがあたるだよ、って、恐れおののいちゃって――特にタチの悪そうなのがふたりいた。『カオー』と『じいやナイフ』」
「誰だ」
お市は気に入らない相手に、すぐあだ名をつける。
「カオー。秦前寺(じんぜんじ)って数学教師。目が丸くてあごがそりかえって、花王の月のマークみたいな顔してんだよ。まん中から激突された機関車トーマスみたいな」
「……」
「カオーはとにかく変化がイヤなんだよね。自習にして、ゲームやってる今の生活を変えたくない。でも権利意識は強い。ヒキニートが職員室にいると思ってもらえばよろしい」
「ふむ」
「もうひとり、じいやナイフは、芳賀(はが)。これは旋盤とか鋳造とか教えてる先生」
これは年配の教師で、この学校に長くいる主のような存在らしい。
お市は悪意をもって描写した。
「ちっちゃくて、目がぎょろっとしてほっぺの肉がたれてて、パグをしょうゆで煮しめて闇落ちした感じ」
「……」
「このひとは、反骨先生なんだねえ」
「――」
お市によれば、この男は人々が騒ぐ間、窓辺でなかば居眠りしているように聞いていた。
だが、長い眉毛の下からぞろりと大きな目をあげ、
『新垣先生。このガッコになんか問題ありますかね? おとなのお体裁のために、子どもは生きてんじゃないですよ』
その時、触れてはならないものに触れたように教師たちがまごついた、という。ひとりが即座に同意し、いそぎ話を変えた。
お市はピンと来た。
「おれが見るところ、あいつだね。学校の秩序を取り戻しましょう、って話が出るたびに、子ども様の権利の話をしてぶち壊してきた張本人は」
「――」
「子ども様のなさることなら、こんな学校でもパラダイスに見える、頭がパンクというか、壊れかけというか」
「お市さん、不悪口」
「ま、逆らい屋なんだろうけども、ただの面倒くさいやつっていうより、なんかちょっと畏れられてんだよね。組合に力でもあんのかもしんない」
ほかの教師は付和雷同らしい。あきらめきって自分の仕事だけやっている者、それもせずに自習で通している者。外国人のALTは逐電してしまい、代理も来ない。
「よくも悪くも脂ぎったとこのない人たち。金にいやしい感じはないかわり、生命力に欠けるっていうか」
「ふむ」
「昔は、元気な怖い先生もいたんだって。で、生徒の暴行により、ひとりいまリハビリ中」
「……」
「そして、おどろくまいか、この学校の先生の三分の二が転属願いを出してるそうです」
「――」
テツも鼻から笑いが抜けた。
だからさ、とお市は油揚げの袋を開き、
「ネズミが、沈み行く船から逃げ出しているわけだよ。そこへ乗り込んでいく物好きなおせっかい者」
「ヒーローだな」
「小二病っす」
テツは聞いた。
「がっきーの味方はナシか」
「ないね」
お市は少し傷ましげに言った。
「今日もおろおろするばっかで、まともに命令できなかった。先生たちにもなめられてる」
てっちゃん、と大きな目を向け、
「地蔵菩薩なんて、いいように言ったってダメだよ。地力がないんだよ、あのひと。早晩くじけて、潰れる。ついでにおれたちの背中を撃つよ」
「……」
「そん時、泣くなよ」
テツは眉をしかめ、少し火から顔を離した。川風に火の粉が舞っていた。
「あいつ、すっからかんなんだよ」
テツは言った。
「昨日、ここに座ってた時、干からびて、カラカラのスルメみたいだった。うすっぺたくて、よじれあがって。人間に見えなかった。そこまで力使いつくしたんだ。くじけても恨まねえよ」
「……」
「こちとら菩薩ですから」
「……」
お市は言った。
「カラカラのスルメ、来ました」
テツはふりむいた。
土手の上を、大きな白いビニール袋を提げた新垣が、よたよた歩いていた。
テツは、少しまずい、と思った。
秋の陽は短い。まもなく暗くなる。
「先生、今日はこの後――」
新垣が金色のロング缶を出した。
「ビール――大丈夫ですよね?」
キャー、エビスうううう、とお市が飛びつく。
「なんてわかるお人なんだ。先生、大しゅきー」
テツも口をとじた。アツアツの塩ちゃんこに、冷たいビールが添えられてしまった。
「喰お!」
三人は箸をとり、熱い鍋を囲んだ。
お市は何度ものけぞり、奇声をあげた。テツは吸い込むように食べものを掻き込んでいる。スープを含んだ鳥肉が、歯が軋るほどうまい。のどにはじける冷たいビールが痺れるように心地よかった。
新垣も遠慮なく箸を動かしていた。
「外メシ、最高ですね」
湯気を吐き、うれしそうに目をほそめた。
箸が杼のように飛び交い、キャベツひと玉と肉一キロ、油揚げ、ネギがまたたくまに消えていく。
「シメはうっどーん!」
お市がうどんを投入した時、テツが言った。
「うどん食ったら、今日はこれでおひらきだ」
お市も言った。
「がっきー、明日また来て。おれたち、これからお客さんがあるんだ」
「お礼参りでしょ」
新垣は言った。
「だから、ぼくも来たんですよ」
「……」
「ぼくが守ります。貧弱ですけど」
「――」
テツは新垣を見た。
鍋のうどんを見ている新垣の顔が、火影に照らされて明るい。今朝とは別人のように、頬に血が通っていた。
新垣は言った。
「生徒を注意する教師は、みんなこれでやられて、辞めていったんです。大勢で囲んで、脅しをかけてきます。たぶん、今頃、上のチームの子たちが召集かけてるはずです」
あ、と彼は補足した。
「三年生のボスチームが、さっきは揃っていなかったみたいなんです。でも、下がやられたとなると、用心棒よろしく出てきますよ」
むごい連中です、と言った。
「がっきー」
お市は面白そうに見ていた。
「危ないのによく来たね」
「――」
「でも、てっちゃんは平気だから。加勢しなくても大丈夫。それにやってくんのは、おまわりさんかもしんないんだわ。そしたら、ゲームオーバーだし、いても無駄」
「いえ、帰りません」
新垣は鍋からうどんを掬い上げながら、
「関係ないおふたりを引きこんだのは、ぼくですから。どっちにころんでも、ぼくはここにいます。いることぐらいしか、できないんで」
ずるずると太い麺を吸い上げる。ふたりを見ず、鼻息荒くうどんを咀嚼していた。
「……」
テツは言った。
「いてもいいが、手は出すな」
※ 不悪口 菩薩の十善戒のひとつ。乱暴な言葉を使わない。(そのまま言うと、英語で超悪口になるので注意)