ビルの前の少年
試験一週間前。
「とっかん祭の準備はいったんこれまで!」
ホロが全校に放送した。
「ロボ組もステージ組も、頭切り替え。持ち帰り禁止な。期末終ったら、盛大にお祭りやりましょう!」
すでに準備はあらかた終っていた。
ロボ組は、すでにほとんどの作品を体育館に搬入し、テストするだけの状態だった。ステージ組の練習もまとまり、
――あとは勢いで乗り切る、
と腹をきめている。
ゲーム組は一番ゆとりがあった。すでにゲームを完成させ、レポートもしあげていた。
さらに彼らは教材を作り込んだせいで、ほとんどの暗記物を記憶してしまっていた。
「出てくるんだよ。『溶接棒は母材面に対して九十度』って、すらすらーっと出てくんだよ」
彼らはおどろきをもって話した。
「これ前世の記憶? なんなの? おれ前世、溶接棒?」
ほかの生徒たちの頭にも、記憶の宮殿が構築され、重要キーワードが住みついていた。
「こないだ、あの角の教室のロッカー運び出そうとしてるバカがいてさ。やめろっつったの。あれ、チャガタイ汗国だべ。あの部屋、黒板はオゴタイ汗国。窓はキプチャク汗国。こっちのロッカーはチャガタイ汗国なんだからさ。チャガタイさん、ホームレスになっちまうべよ」
テツのブートキャンプも続いている。この頃は、さすがに九々も卒業し、文句も長くなっていた。
「ゆく河の流れは絶えずして」
「ゆく河の流れは絶えずして!」
「しかももとの水にあらず」
「しかももとの水にあらず!」
一部生徒は数学に苦しんでいた。
利休は必死に説明した。
「だから、エックスとエックスは同じなんだから、この小さい字だけ足せばいいんだよ。単純な分数の足し算だろ。通分すんだろ。十二。よんとにではち、さんとさんできゅうだろ? だからこれがこのままエックスに」
わかんねえよお、とトロピカルが泣き声を出す。
「通分て言わないで、ピザって言ってくれよ!」
「だから、ピザを三つに切り分けたのを二きれと、四つに切り分けたのを三きれを」
「そんなに足したら、箱からはみ出るよ!」
「いんだよ! それはいくらはみ出るんだよ?」
「こんぐらい?」
利休は疲れた。
お市は茶を飲みつつ、利休をなぐさめ、
「あれでも、材料費の帳簿つけはできるようになったのじゃ。今までのテストと同じレベルなら、二十点はなんとかとれるじゃろ」
生徒たちはぎゃあぎゃあいいつつも、これまでになく希望をもっていた。以前より、授業の道理がわかった。
教師たちも『テストに出るぞ』という箇所をていねいに教えてくれている。追い落とそうとしている者はなく、なんとか進級させようと学校中が応援しているのがわかった。
一方、ホロは滅入っていた。
みなにとっかん祭のことはいったん忘れるよう言ったが、当人の頭にはひっかかっていた。
長嶺ミカナの事務所から、ついに電話がなかった。
栃木テレビのレポーターは、収録のあと、
――ミカナちゃんの事務所、ちゃんと行っておけよ。いま、きみら、いい運が来てると思うぞ。
と励ましてくれていた。
ホロはその後、ひとりで二回、青山へ行った。二回ともエントランスに入れなかった。
しかたなく書類に切手を貼り、そのビルのそばのポストに投げいれて帰ってきた。
試験が行われた。
最終日、試験が終わった教室に、新垣が飛び込んできた。
「羽鳥! 羽鳥! まだいるか?」
教室にはまだほとんどの生徒が残っていた。ホロは菓子パンを咥えたところだった。
「?」
「――神楽プロが、ミカナちゃんの事務所の社長さんが、おまえに電話!」
ホロだけでなく、聞いた生徒たちが全員で職員室に押しかけた。
「その一番を押して」
新垣に言われ、ホロはおそるおそる外線ボタンを押し、電話をとった。
はとりです、と言った声はおかしいほど小さかった。
生徒たちは息を殺してホロの顔を見守った。まわりの教師たちですら、音をたてずにその場に立っていた。
「――そうですか」
ホロはさびしく微笑った。受話器を肩にはさみ、みなにむけて手でバツを作った。
空気がぬけるように、生徒たちは悲嘆の声をあげ、くず折れた。
「はい。わかりました」
ホロは少し落ち着きを取り戻し、言った。
「おれたち、ミカナさんを応援してますので、そのことを知って欲しかったので、――大丈夫です」
ありがとうございました、と切った。
「土曜はレコーディングで、日曜は番組の収録と移動で、無理なんだって」
ホロが伝えると、生徒たちは床に転がり、悲痛にわめいた。
その晩、ホロが河原に来たのは遅かった。
テツとお市は、寝袋に入ったところだった。あきらかに先客が帰るのをみはからって来たのだった。
「なんだ、飯はもうねえぞ」
テツはそれでも起き上がり、火を作ってやった。
ホロはなかなか話さなかった。缶コーヒーを持参しており、それをお供えのように二本置いてから、自分も缶をすすっていた。
そしてやっと、芸能事務所の受付に入れなかった話をした。
「あのビルの前にいるとさ。すげえ、ビビっちまうの。ビルがどーんと立ってて。近づけねえ。ぼんやりしちまうんだ。魔よけの張り紙でもしてあって、おれは入れないみたいな。はしっこで、勝手に卑屈になるっつうか」
「――」
テツは何も言わない。
「映画でよく、薄汚いドブネズミ野郎って言う、あれが浮かんでくんの。ビルに罵倒されてる感じ。なにがミカナを呼ぶだ。身の程をわきまえろ、ゴミめ、みたいな――誰もそんな失礼なこと言ってないんだよ?」
「……」
芸能事務所の社長はイメージに反して、電話口でとても礼儀正しかった。
事情を説明し、これからも応援してやってくださいね、と頼んだという。
ホロは首をかしげて笑い、
「おれさ。あんまり緊張しないんだよ。テツさんとはじめて会った時、ああ、もうこれは負けだわ、ってわかった。格違いのやつ来た、死ぬわって。でも、こわいとか逃げたいとは全然思わない。――それにさ。この前のタニーさん?」
レポーターの芸人を見ても、テレビクルーを見ても、そんな気持ちにはならなかったという。
「だからさ。なんでこんなに怖くなったか、自分でも不思議でさ」
テツはコーヒーの缶を開け、黙って聞いていた。
まぶたが下がり、なかば眠りかけていた。
「最初の日、ビルの玄関から受付がチラッと見えてさ」
ホロは細い声で話した。
「すごい美人がきちんと座っててさ。あれ見たら、ああもうダメだって、――いや、美人かどうかわかんないんだけど、きっちり背を伸ばして座っててさ。前に誰もいないんだよ?――あれみたら、ああ、世界がちがう。行っちゃいけないって」
彼はすぐ口直しするように缶コーヒーを飲んだ。
テツも一口飲んだ。はじめて聞いた。
「おまえ、なんで体育の先生襲ったんだ?」
ホロは変な顔をした。
「話聞いてた?」
「うん」
テツは待っている。
風があおり炎がふくらんだ。遠いサイレンの音が風にまじっていた。
ホロは面倒くさそうに唸りつつ、話した。新垣が言った話と大筋は同じだった。
「先輩のことは、きっかけだったんだよ。あいつ就職担当だったからさ。逆らうと仕事ねえぞって、調子こいててさ」
ホロの口から聞くと、少しヒステリックな人物のようだった。
気分にムラがあり、不機嫌時には、生徒を正座させ、時間いっぱい怒鳴り続ける。柔道の授業がむやみと多く、特定の生徒ばかり執拗に投げ、ストレスを発散していた、という。
「それはいいよ。おれらもクズだしさ。でも、気に入らないヤツの就職だからって、あからさまにいやがらせすんのは、こまるんだよ。同じ資格とってても、キライなやつには、群馬とか、千葉とか遠いとこのよくわかんねえ会社あてがってさ。スーパーとか、弁当屋とか。好きなやつだけ地元のイイトコ入れてやって」
「――」
「仕事ってさ、こっちの人生にかかわることだろ? いち先生がひとの人生好き放題やったら、だめでしょ?」
テツは答えない。
ホロの言葉が多くなった。
「東さん――あの先輩はさ。親戚にヤクザがいて、――まあ、本人もちょっとひけらかしてたとこはあんだけど――べつに組員でも、売人でもなんでもないんだ。親父さんいないから、一流企業の工場入れてよかったって、お母さんもすげえよろこんでたの見たからさ。それがあいつのチクりで採用中止になって――みんなぐわあっと来てさ」
彼は首の後ろをうるさそうに掻き、
「殺せって話になって、殺すのはさすがにマズイから痛めつけた。でもって、おれは年少は行かなかったけど、それが気にくわねえのか、民事のほうでも訴えられて、治療費と慰謝料とで二千万だか? 親父の遺産から払った。――もう済んだことだよ」
テツははじめてホロを見た。
「済んだこと、なのか?」
「――」
ホロの空気に薄く膜のような硬いものが覆った。声だけは軽く、
「悪いとは思ってねえ。あいつがいなくなってすっきりした」
少年の黒い目に焚き火が映っていた。恨みのような生の火が動いていた。
そうか、とテツはそっけなく言った。
「おまえがそう思ってるならしかたねえ。話は終わりだ」
ホロが眉をひそめた。
その時、小さく電子音が鳴った。お市がごそごそと身動きして、話す。
「――はい。んん?」
お市はにわかに寝袋から這い出し、言った。
「がっきーから。学校が燃えてる」




