山修行
(なんでこんなことに?)
山は紅葉に燃えて、あざやかな光を落としていた。落ち葉にまみれた山道は、濡れて傾斜がきつい。新垣は枝をつかみ、太股をあげ、這うように登っていた。
日曜、六花工の生徒は全員、男体山の登山路にいた。ジャージにリュックを背負い、わめきながら山道を駆け上がっていた。
「お、サルだ! サルいた!」
「班行動だぞ! バラバラになるな」
妹尾が生徒を呼んでいる。列の先頭で黄色い旗をたてているのは、田所だった。
(なんで)
新垣は足元にのたうつ根ををまたぎ、首をかしげた。
日曜は事務処理をするつもりだった。生徒も遊んでいるヒマはないはずだ。
しかし、――
『全校で遠足いく』
突如、お市が宣言した。
『病人以外、全員参加。バイトのシフトなど、変えられない人は、徳高い僧侶が交渉にいってやる』
《歌丸》田所ははじめ、難色をしめした。二千メートル級の山に、全校生徒を登らせれば、なにがおこるかわからない。教師が生徒をともなえば、保護責任が生じる。
だが、テツは、
『私人の坊さんが、そのへんの子どもつれてハイキングに行くだけです。いっしょに来てくれれば安全性が増すけど、無理しないでいいですよ』
田所は、それは脅しだ、と怒ったが、結局、ついて来た。
新垣も反対したはずだった。しかしお市は、
『いっしょに来て、入山料と電車賃払えない子のために、お金払ったげて』
当然のように言った。
なぜか妹尾や家族にさえ強く勧められ、弁当を負わされ、新垣は山へ追いやられた。
登ってすぐ、後悔した。ふもとの二荒山神社から一合目まで高い石段が続き、そこで体力が半ば尽きた。最近使っていない箇所の筋肉が、突然の酷使にパニックを起こしている。
「うお」
つま先が根にひっかかり、腰が浮き上がった。倒れかかるが、とっさに手が出ない。
「!」
リュックがひっぱられ、新垣は宙吊りになった。テツが片手でつかんでいる。
新垣はもぞもぞと礼を言い、
「お市さん、どうしたんですか」
お市は山に来ていなかった。
「パスした」
テツは笑った。
「あいつ山は苦手なんです」
「ええ……」
テツは木の杖を差し出し、
「田所先生からです。先生はゆっくりでいいから、ケガしないよう登ってください」
そう言うと、急坂を駆け上って行った。頭が見えないほどの大荷物を背負っていたが、ほとんど足音もたてず、獣が跳ぶようだった。
生徒たちは笹薮を蹴散らし、上り坂を踊るように登っていた。
行くまでは、
――そんな場合じゃねえし。
――ガキじゃねんだよ? 遠足とか。
渋っていた生徒たちも、絢爛たる紅葉に囲まれ、澄んだ山の神気に触れると、仔犬のようにはしゃいだ。
ここ数日の筋トレの成果もあって、からだがよく動く。弁当と菓子を背負っていた。仲間もいた。小学生男児だった時の興奮が、足裏から突き上がっていた。
彼らは意味もなく写メをとり、何か見つけるたびにバカ声をあげて叫び、ふざけて笑いこけた。
(ちょっと待って)
新垣はそのペースについて行けずにいた。登山路は一本道で、迷う心配はなかったが、上り坂が続く。太股が熱く焼け、あがらなくなってきていた。
(待ってくれよ。この年代の若者と同じペースって)
生徒の列はどんどん先へ過ぎて行く。
新垣は肩で喘いだ。
冷たい空気はいくらでも入ってきたが、肺が燃えるばかりでまったく楽にならない。髪の間から汗がいたずらに流れ落ちた。
「先生、だいじ(大丈夫)?」
ホロが傍らから、笑いかけた。彼の仲間たちもそばにいた。今日は利休も来ている。
新垣はうなずいたが、声が出ない。
トロピカルが、
「これ、裏向くといいっすよ」
ひょいと後ろ向きになって歩き出す。
「あぶないぞ」
「ホントですって。やってやって」
ほかの仲間も勧める。ホロが強引に、新垣のリュックをつかみ、後ろを向かせ、数歩引っ張った。
「あぶないから、よせよせって。わかったから」
向き直って歩き出し、新垣はおどろいた。なぜか足が楽にになっていた。
「ね」
「……」
五人は笑い、新垣を包み込んでいっしょに歩いた。
底抜けの体力と思われた高校生たちも、五合目を過ぎると、しだいに口が重くなった。
「なんか、ずっと坂なんすけど」
岩が多くなっていた。彼らはにわかにバタバタと座りだし、勝手に休憩した。菓子の袋をあけ、スポーツ飲料をらっぱ飲みする。
テツがそれを追い立てていた。
「だいじか。だいじだな。もうよし。ハイ立って立って」
テツはどこにでもいた。ひとりで座り込んでいる者がいると、班の仲間を呼び戻し、生徒をかき集め、牧用犬のように走り回っていた。
小休止が長い班には、
「そろそろ立て。山ノ怪が出てくるぞ」
荷物を掴んで、追い立てた。
しかし、生徒は、へいへい、とすぐまた座り込んでしまう。テツは駆け戻り、
「山ノ怪だあー! シメんぞ、ごらあ!」
片端からその尻を蹴り上げる。
「悪いごはいねがー。ケツのでけえ、悪いごはいねがー」
生徒たちは悲鳴をあげ、また急坂を駆け登っていった。
九号目を過ぎると、木陰が切れ、一変して赤いガレバとなる。陽にさらされた火山の赤肌を見て、生徒たちはげんなりした。
「これ何合目まであんだよ」
ガレバには大小の火山石がばらまかれたように散っていた。踏み転がすと、下にいる者に危険がおよぶ。
新垣は杖にすがり、砂を散らして転がる小石を見ていた。
足の筋肉が焼ききれたように重かった。激しく喘ぎつづけ、吐きそうになっていた。
(もう無理。もう無理)
先に登っていく登山者たちの尻を上目で睨みながら、ただ息を荒げている。上にも下にも行けない。
(なんでこんなことを)
ここへきて、肉が裂けるように怒りが湧いた。なにもかも理不尽だった。
仕事があるのに、こんなハードなハイキングに駆り出されたことも理不尽なら、就職担当を任されたことも理不尽だった。教師たちの反抗的な態度も理不尽なら、生徒の将来を一顧だにしない校長の存在も理不尽だった。誠を尽くしても、先が見えない事態が一番の理不尽だった。
自分はなんでこんなバカげたことにつきあっているのか。
――もう、勝手にしろ。
新垣は尻を落とし、座り込んだ。いくら座っても、呼吸がラクにならなかった。酸素が薄いのだろうか。
険しく目を据えていると、次々と一般の登山者が通りしな、
「大丈夫ですか」
と声をかけていく。
「もうすぐですよ」
と、自分も苦しげに喘ぎつつ、笑顔を向けて行く。
(……)
頭をあげると、赤い岩の間に白黒の僧衣が見えた。こちらをじっと見ている。
その脇にもいくつか顔が仔うさぎのようにならび、新垣を見ていた。そのうち何人かが手を振った。
(――)
新垣は苦しく顔をゆがめた。しかたなく手をあげた。立ち上がるしかなかった。
杖を掴み、からだをずりあげ、また重い足を前に踏み出した。
山道は十合目で終わりである。
ガレバを苦労してのぼると、生徒たちはいきなり山頂に立っていた。
目を瞠った。足のはるか下に、錦を広げたような戦場ヶ原がうねり、中禅寺湖が碧く映っていた。
その湖へ、真っ白な雲海の雲が音もなくなだれ落ちている。
水平線のような雲海のむこうは、関東の山が青くかすんでいた。
声はない。目に映る以上の神聖なものが、そこに在った。それを知覚する言葉はなく、思考もなかった。自分の耳朶に響く、荒い息だけが聞こえていた。
新垣もまた、そこにへたりこんでいた。空洞の笛のように、風に吹かれていた。天上に駆け上る雲、地球そのものを見るような山なみを前に、『自分』が溶けてしまっていた。
新垣はぼんやり、少年たちの笑顔を見ていた。
少年たちは顔や手指に飯粒をつけて、笑っていた。
彼らのほとんどは早弁してしまい、昼食をもっていなかった。
テツは見越したように大きなリュックの中から、握り飯とゆで卵の袋を次々出した。
――おにぎりは足りないから、半分に割って喰え。
するとふしぎなことが起きた。少年たちは自分も、と残っていた菓子の袋をふるまいはじめた。真ん中にシートが敷かれ、そこへみながそれぞれ、チョコやポテトチップなど菓子をひろげた。
妹尾は、
――女房から、差し入れ。
大量のからあげを差し出した。少年たちは歓声をあげた。
そんなつましいビュッフェながら、なぜか全員の腹が膨れるだけの量があった。みなが満足し、互いにもたれあって笑っていた。
「えええ。発表があります」
利休が立ち上がった。
「みなさま、お手持ちのスマホをごらんください」