校長のターン
(ないわ。文化祭とか絶対ないわ)
司校長は校内の熱気に、うろうろと落ち着かなかった。
封印したはずの文化祭が、勝手によみがえりかけている。生徒たちは模擬店だ、ロボだ、とすでに祭のように騒いでいた。
(冗談じゃないよ。文化祭ってあれだろ。バカがステージで火を噴いてボヤを出す。模擬店で食中毒を出す。よそのヤンキーが大挙して現れ、関が原みたいになる)
前校長は五年前の文化祭の事故で辞任した。その轍は絶対に踏みたくなかった。
「こまりましたねえ。生徒がトラブルを起こし、わたし――地域住民に迷惑をかけるのは目に見えていますよ。とても許可できません」
校長は許可しない、と繰り返したが、そこに教頭はいなかった。
チワワのようにちっぽけだった教頭は牙を剥き、守護神さながら生徒の前でがんばっていた。
じいやナイフ芳賀が茂った眉の間から陰気な目を出し、
「ぼくは、生徒の真の創造ならいいと思うんですよ。魂の衝動からやることならね。しかし、あんな大人に迎合したようなお祭りは、やだねえ。若者ってのはもっと、ロックであるべきなんですよ。転がり続けるロックなんですよ」
「はあ」
(なに言ってんだこいつ)
司校長は、この親父はすでにボケが来ているのか、と思う時がある。あまり近寄りたくない相手だったが、生徒に人気のある唯一の教師で、粗略に扱うと生徒のタタリがあると噂されていた。そのためか、職員室でも無視できない発言権を持つ。
校長はカオー秦前寺のほうを見た。
秦前寺は調子よくあいずちを打ち、
「ったく、中間テスト中だってのに、どういう神経なんでしょうねえ。これで卒業できてしまうってところが、甘いっていうか、わが校のバッカ工たるゆえんなんですなあ」
ふむ、と校長と書類の山に目を落とした。
にわかに思いついた。
「秦前寺先生、今度の期末テストは何日でしたっけ」
「十一月末――二十九、三十、十二月一日ですね」
「延期しましょう」
「え?」
「わが校生徒は学力不足です。もっと授業期間を延ばして、テストは、十二月の十一、十二、十三日にしましょう」
「――?」
文化祭の三日前であった。
さすがに秦前寺もとまどった。試験の日を動かせば、その後の教師の採点予定も狂う。
しかし、校長は気にしなかった。
「そうしましょう。あと、今期は厳正にテストしてくださいね。追試、補講などの救済措置はなしで。期末テスト、一教科でも赤点なら落第です」
秦前寺は口をあいた。
(本気か?)
一教科の赤点も許されなければ、この学校のだれが進級できるのだろう。
はじめ、生徒たちはこの宣告の意味がわからなかった。
――落第?
――赤点ひとつで? こんなにアホばっかりなのに?
生徒たちは、およそまともに授業を聞いたことがない。
これまでの進級は、教師たちのナゾの採点技術でなんとかなった。出席さえしていれば、進級、卒業できるはずなのである。
どうやら、その特別措置がないらしい。
最初にことの重大さに気づいたのは、三年生だった。
「ちょっと待て。卒業できねえってことか? 内定どうなんだ?」
彼らの大半はこの秋、内定を得たばかりだった。
新垣は校長室に駆け込んだ。
「なに考えてらっしゃるんですか!」
新垣は辞めた教師の代わりに、就職担当を引き受けている。今まだ内定を得ていない生徒たちのために、次の面接を手配していた。
「生徒が卒業できなかったら、内定出してくれた企業さんはどうなるんです! 二度とうちに求人出してくれなくなりますよ! 今後、うちの生徒たちはどこへ就職したらいいんですか」
司校長はすまして言った。
「でも、もともと内規ではそうなってるんですよ」
古くに作られた六花高の内務規定では、ひとつでも不合格科目があれば進級できないとなっている。しかし、現実的ではないため、同じ規定のなかに、
――最終的な進級、卒業の判断は校長がする。
という条項があり、これを優先させてきた。
「二十点は、ちゃんと勉強すればたやすく取れる数字です。準備期間が延びたんですから、しっかり勉強すればいいんです」
文化も大事ですが、学業をおろそかにしてはいけません、と校長は悪意のある微笑を見せた。
新垣は河原に駆けて行き、坊主ふたりに泣きついた。
「あのひとは何も考えてない。就職に手を出したら終わりです」
テツとお市は、すでに生徒からメールを受けて事情を知っていた。
「勉強すればいいのです」
お市は言った。
「学生なのです。当たりまえのことです」
新垣は苦しさに哄笑しそうになった。この高校では、そのあたりまえのことが成り立たない。
代わりに言った。
「お市さん、前に言ったでしょう。体育の先生がリンチにあったって」
「ふむ」
「あれも就職がらみなんです」
昨年、ある生徒が卒業間際に、内定を取り消された事件があった。
生徒に暴力団関係者とのつながりがあるとの情報が洩れ、企業が敬遠したのだった。
「その生徒は、暴力団の使いっぱしりをしていたようなんです。それが就職先にもれて、就職担当だった体育の先生が話したんじゃないか、と疑われて恨まれたんです」
「……」
「後輩の羽鳥(ホロ)たちが先輩のためにお礼参りに及び、事件になりました」
ホロの親が弁護士をつけ、慰謝料も相当に払い、結果、保護観察となったが、次に問題をおこせば少年院行きだという。
新垣は訴えた。
「卒業できなければ、彼らは絶望してしまいます。そしたらもう暴れるしかなくなってしまう。また事件がおきる。それをこらえても、留年したらバカらしくなって学校をやめてしまう。そしたら、中卒で仕事なんかろくにない。まともに働かず、いずれはヤクザに」
「先生」
テツはじっと見つめた。
「まだなにも起きてない」
「――」
その時、お市が懐からスマホを出して、ちらっと見た。
「がっきー」
スマホを見せた。画面にはブンブンからのメールが出ていた。
――あらたに『期末テスト・プロジェクト』が始動した。マジ死ぬ。和尚さん、とんち出して。
テツは腕を組み、目をしょぼつかせて生徒の話を聞いていた。
ミシュランがうめくように、
「なんつうか、模様なんだよ。プリントもらっても、なに書いてあるかわかんねえ。文字っつうか柄? ペイズリーかなって」
トロピカルも言った。
「テストってのは、おれにとって折り紙の時間だから」
ほかの生徒たちも似たりよったりだった。
「1にゼロをかけると、ゼロって不思議じゃね? 1どこいったんだよ」
「エレキテルを発明したのって、でんじろう先生じゃないんすか」
お市が小さい声で「バカの博覧会」とつぶやいた。
「すまんが、教科書を見せてくれぬか」
生徒たちはとまどい、見交わした。これまでろくに教科書をひらいたことがない。教科書などどこに行ったか、覚えていなかった。
「テストなら」
くしゃくしゃになった中間テストのプリントが出てきた。
お市は目を通し、ひらりと放った。
「おれには無理だ」
でしょう! とまわりの生徒たちがうなずく。
「いや、この初期段階でつまづくおまえたちに、どう理解させていいかわかんねえ」
「……」
生徒たちはわびしく、口をつぐんだ。
二年生のひとりが、
「面倒くせえ。もう留年でいいじゃないすか。うっちゃっときましょうよ。とっかん祭に集中で」
しかし、三年生がにがい顔で、
「簡単に言うな。家の事情で就職しなきゃなんねえやつもいんだぞ」
「……」
少年たちの空気がしぼんでいた。
一見、無法、自堕落に見える少年たちも、ひとりひとり家に帰れば、彼らなりに現実を背負っている。
いい加減な学校でも三年間しがみついていたのは、卒業資格が要るからだった。
――中卒だと、信じられないぐらい仕事がないぞ。
中退したOBや仲間が、うろたえている姿を見ていた。
多くの企業は高校生のアルバイトは雇っても、中卒は敬遠する。高校を中退したとたん、信用がなくなるのである。
「正直、おれは遊んでらんねえ」
パペットマンと呼ばれる痩せた生徒が言った。
「せっかく日産に内定決まったんだ。おれは卒業する。勉強する。とっかん祭どころじゃねえ」
じゃ、しろよ、とブンブンが冷たく言う。
「できるんなら」
「……」
テツはふと利休に聞いた。
「おまえはわりとわかるんじゃねえか。授業内容」
「まあ」
少年たちがおどろいた。利休は面倒くさそうに茶を飲み、
「あのね。うちのテスト、字を読めば、たいがいわかるもんなんすよ。問題中に答え書いてあるんすよ。英語なんか、ピコ太郎が歌えればほとんできる範囲だし。でも、こいつら、字読まねんだもん」
テツは生徒たちに言った。
「皆の者、利休先生に教えを乞え」
おお、と生徒たちはひれ伏した。
「木下村塾だ。日本の夜明けじゃ」