逃げ切れなかった!
翌日、八時、生徒たちは登校してとまどった。
校門には新垣しかいない。新垣は名簿を見ながら、ひとりで掃除の指示を出している。
「ぼーずちゃんは?」
「平先生たちはしばらく来れない。……ええと、きみは――田中……中田だっけ」
生徒は興ざめた顔をした。
彼らは敏く、事情を察した。坊主たちは教師ストに負けたのだ。
一部の者は嗤った。
――いや、いたのが異常だったんだって。これが当たり前なんだって。
殴られないのはいいことだった。朝の早起きもつらかった。
しかし、しばらくして、彼らは気づいた。
――じゃ、文化祭もナシか?
なんとなく冬に、明るい、あたたかい予定があったはずだったが、それも消えたのだろうか。
その日は授業があった。
教員たちは何食わぬ顔をして教室に戻り、授業をした。
教室がきれいになっていることには触れない。これまでどおり黒板だけ見ていた。
ベニヤ板でふさがれた窓を見て、台風か、とからかう者はいた。
その夜、テツとお市は河原で鍋の支度をして待っていた。
お市は言った。
「大阿寺に行こうか」
「んー」
テツは火に背を向け、ごろんと横になっている。
三人分の肉を買ってあった。新垣が泣きべそかいてやってきた時のために、白飯も一合多く炊いてあった。
「てっちゃん、もう食べよ。今日は来ないよ」
お市は言った。
「おれらに顔向けできないんだよ。そういうもんだろ」
テツはまた、んー、とだけ答えた。背をまるめ、病み犬のように力なく伏せていた。
お市は勝手に鍋を火の上に載せ、少しきびしく言った。
「明日は出立だ。修行再開」
テツが、がばと身を起こす。
「来た!」
見上げた先に、土手の枯れ草を踏んで近づいてくる人影があった。
新垣ではなかった。
ツルに似た痩せぎすのハゲ頭、『歌丸師匠』であった。
歌丸は紙袋を提げていた。
「般若湯です」
中にはウイスキーの瓶があった。
テツは仏頂面をして手を出さなかった。お市は、
「ありがたくちょうだいいたします」
両手で受けた。
「ちょっとよろしいですか」
歌丸は、勝手に火の前に腰をおろし、
「明日ね。わたし、校長に改めてあなたがたを採用するよう、申し入れるつもりでいるんですよ」
テツはおどろいた。その向かいに座り、聞く姿勢をとった。
歌丸は言った。
「あなたがたはね。うかつですよ。先生たちも人間なんです。どんなに機能不全に見えても、いちおう、ここはわれわれのホームなんです。踏み込まれれば、防衛しますよ」
「――」
「それから、公立学校には、守るべき法律がたくさんあります。あの掃除用具のお金のことは、軽率です。殴るのは法律違反。でもね。わたしはあなたがたに出て行ってほしいとは思わない。それは手を使わないで殴るのとおんなじです」
お市はウイスキーを開けた。
応量器の小さめの碗に注ぎ、「グラスじゃなくて失礼ですが」と歌丸に差し出した。
歌丸は碗を手に、明かした。
「わたしもストに参加しましたが、気分よくはなかった。職員室で文句言っている自分たちが、かっこいいとは思えなくてね。それに、本当に学校はきれいになりましたよ」
新垣は、スト中の教師ひとりひとりに電話をかけていた。歌丸は話を聞き、こっそり学校に来ていた。
「体育館の中がすっからかんになっていて驚きました。プールも。それに、からっ風が吹いてる中、生徒たちがあなたといっしょになって、働いていた。殴られて怖いから、いっしょにいるようには見えませんでした」
彼は感慨深げに言った。
「子どもはね。朝起きないもんなんですよ。いくら親が怒鳴っても、先生が怖くても、からだが聞く耳もたないんです。でも、あの場には全員いた」
「――」
「掃除がそんなに楽しいはずないのに。ここの子はよほど退屈だったんでしょうね」
テツははじめて、教師、を見るような思いで、聞いていた。
「それにお市さんのアイディア、いいと思いますよ」
歌丸はお市にも暖かい目を向けた。
「あの文化祭の話が出てから、みんな掃除の仕方が丁寧になってましたよ。動きもまめまめしくなって。あの子らも日本人ですね。お客さんが来ると思うと、からだが動くんですね」
「歌丸さん!」
「わたし、田所ですが」
「そう、田所さん!」
お市は頬を輝かせ、手をとらんばかりに言った。
「あんたそのハゲ、伊達じゃないよ。日輪のごとく輝いてるよ! サングラスなしには直視できないまぶしさだよ!」
「坊主にハゲって言われちゃったよ」と歌丸は笑った。
変化はしずかに進行していた。
歌丸とお市たちが酒を酌み交わしている頃、ブンブンの家にはいつもの仲間が集まっていた。
ブンブンは辛辣に笑い、
「岡っちがさ。ペンキ買いませんかって言うのよ。なんで、つったら、壁の落書き落ちねえから、ペンキで塗りつぶそうってさ」
利休も茶を飲みつつ、苦笑している。
「坊主の洗脳、解けてねえな」
「あいつら、本気でアイドル来ると思ってたのかな――」
しかし、ぼそっとミシュランが言った。
「りかりん、来ねえかな」
「え?」
マンガを読んでいたトロピカルも白い頭をあげた。
「三浦りか、いいよな! おれ超好き。文化祭やったら、りかりん来んの? だったら、おれ文化祭やるわ!」
「え?」
その時、ホロがひそりと言った。
「長嶺ミカナ」
「え!」
ブンブンと利休は目をしばたいた。
ホロが小さい声で、
「ミカナ。来たらよくね?」
ブンブンは、言葉が出ずにいた。利休も口から茶をこぼしている。
ミシュランは毛の無い眉をしかめ、
「ありえねえ。ミカナなんて、もうババアだろ。呼ぶならりかりんだ」
「いや、ババアって、二十三よ? ミカナ、栃木の子だよ?」
「りかりんは神の子だ。りかりん一択」
「胸ねーべ」
「あるよ! あの黄色い衣装の時、ちゃんと谷間あったよ!」
「あれ、すんげえ寄せてっから」
しかし、トロピカルも、
「りかりんは性格もいい子なんだよ。気配りでさ。長嶺ミカナは神経質でスタッフも気ィ使うっていうしさ。っつか、歌うますぎ。もうアイドルじゃねえよ」
ホロは眉を吊り上げた。
「おまえ見たことあんのか。長嶺ミカナ」
「いや、ねーけど。りかりんだったら、武道館であるよ」
「武道館なんて、ゴマ粒みたいにちっこいのが、なんの気配りだ」
ブンブンと利休は、ぼんやりと三人を見ていた。
「利休、何が見える?」
「……バイオハザードだな。逃げ切ったと思ったら、仲間がすでに噛まれてました的な」
三人の論争はしだいに険しくなっていった。ミシュラン、トロピカルはりかりんのヒット曲を歌いだし、ホロが蹴りつけても、逃げつつ歌い続けた。
新垣の電話説得は続いている。彼はまたひとり、味方を得た。
顔が小さく、高身長で足も長いその教師は、生徒に『八頭身』と呼ばれていた。
八頭身も、はじめはほかの教師と同じくグズグズ理屈を言った。
新垣がひたすら、ごもっとも、と聞いていると、ついに八頭身は本音を話した。
『わたしもうちの状況がいいとは思ってませんよ。でも、教頭先生がいきなりほかの人間連れて来て、学校をよくするんだ、って言われても、――正直、見限られたってか、おまえらは使えないダメ教師だって、言われたみたいで』
だが、彼は言いつくすと、次第に冷静になった。
『なんか駄々っ子みたいですね。――私怨ですよね』
彼は気が済んだように、新垣に言った。
『明日は教頭先生の側に立ちますよ』