向こう岸の亡霊
茨城県水戸のとある町に、俗にイケメン寺と呼ばれる古刹がある。
山号を白馬山明王寺(はくばさんみょうおうじ)。
山主は眉目涼しい美男で、祈祷の験もあらたか、老若とわず女子に人気が高かった。
この朝、山主はふたりの弟子を、行脚修行の旅に送り出そうとしていた。
若い山主は、平伏したふたりの弟子を前に言った。
「この祖跡拝登(そせきはいとう)は、宗祖、寛円(かんえん)上人の足跡をたどることで、深いご縁をいただく大事な修行です。道中、寛円上人はおまえたちを見ています。心して勤めなさい」
ふたりの弟子は、ぱっと額づいた。
ふたりはこれから、日本全国に散らばる宗祖の足跡百八カ所を徒歩でめぐる。
「渡した三十万は本来、行き倒れた時、人様に迷惑をかけないための涅槃金です。旅費ではないので、できるかぎり托鉢で進むように」
ひとりの弟子はまた頭を下げたが、もうひとりは中途で止まった。
「先生」
「はい」
「托鉢がすでに迷惑かと」
「――」
隣の弟子が彼の後頭部をぴしゃりと叩いた。
山主は言った。
「布施は、施主の徳を積むためのもの、迷惑ではありません」
「誰も徳を積みたくないと、ふたりとも餓死しますが」
「死になさい」
「……あい」
山主はいまひとりの弟子を見下ろし、小さく嘆息した。
テツ、とつい家族の声が出た。
「……何もなぐなったら、山でヘビひん剥いて食べればいい、って今、思ったな」
「え」
「おめ受戒したべ? 殺生禁止だべ?」
「……ですね」
美男の山主はすこしどんよりして言った。
「……この状態で野に放つのは不安だなあ。ええが? 寛円上人が見ているのは、コレ事実だかんな? しみじみ(まじめに)やんねと、ご加護いただけねばがりか、眷属からお叱りあっど。わがってっか。テツ、お市」
ふたりは床を叩くようにひれ伏した。
半月後、栃木県は鬼怒川にほど近い、とある駅前に、うす汚れた托鉢僧がひとり立っていた。
(おや)
駅の利用客は、めずらしい光景に目を留めた。
渋塗りの網代笠。白手甲の手に錫杖。鉄鉢を抱え、脚絆をつけた足で地を踏んで、低く心経を唱えている。
厳しい修行をしてきたのだろうか。
僧の背はそれほど高くないが、笠の下の肩が厚い。錫杖を握る指も節が大きく太かった。
小型の仁王に似て、人々は不信心を責められるように、足早に過ぎた。
当の托鉢僧――テツはむしろ遠慮して声を抑えていた。
「何コレ、すげえ」
学校帰りらしい制服の小学生たちが珍しがって寄ってくる。
「ね、なんて言ってんの?」
「ヨウちゃん、いっしょに撮ろ」
携帯を出し、撮影大会がはじまる。撮り終わると、子どもたちは何をしても誦経を続ける坊主に、狎れた。
「あ、お金」
小さい手が鉢の十円玉をつかみ取ろうとする。
テツは経を唱えつつ、錫杖を抱え、その手をつかんで、金を放させた。子どもが面白がって、衣の肘にぶらさがってくる。頭陀袋をのぞきこむ。
「不―生―不―……」
テツは経を唱えつつ、あっちいけ、と小さい頭を押し返す。子どもはギャハハと笑って離れない。調子にのり、悪―霊―たいーさんーと口真似しながら、鉢や頭陀袋に手をつっこむ。
「五百円みっけー!」
「不―増―不―減―やめい、やめなさいって」
「これちょうだい! うんいいよ! ありがとー」
テツがその襟首をつかもうとするが、錫杖が倒れかけた。子どもがするりと抜けて逃げる。
その隙にほかの子が鉢の十円をつかみ、ワッと逃げた。
「ちょ、おい! ――」
追いかけっこがはじまりかけた。が、
「すみません」
後ろに若い駅員がぼさっと立っていた。
「お客様の迷惑になりますんで、駅周辺での托鉢はご遠慮で願えますか」
「……」
「迷惑なんで」
子どもはすでに消え去っていた。テツはしかたなく錫杖を突き、引き上げた。
客待ちのタクシーの好奇の目を過ぎ、とぼとぼとロータリーを歩く。
「てっちゃーん!」
さびれたビルの前で、長ネギを振りまわして踊っている僧がいた。
「ネギもらったー! ネギ豆腐しようぜーっ!」
同行のお市。
ひょろりと背が高く、色白く、当人もネギ坊主に似ている。遠目からも、食料を得てうれしそうな目とニカッと笑った白い歯が見えた。
テツは人目をはばかりつつ、友のほうへ急いだ。
「ネギごときであんまりはしゃぐでないぞ」
「ミクみたい? てっちゃん、豆腐買って。あとポン酢とごはん。今夜はネギ鍋フェスだー!」
「無い。おまえ出せ」
「おれ無いよ。あんたに五百円玉持たせたじゃん」
「子どもにとられた」
「――」
お市の顔色が変わった。
「はい?」
「イタズラ小僧に」
「どこのガキだ! なんで取り逃がした。追え! 草の根わけても探し出せ! ヤサつきとめて、便所に隠れてても引きずり出して金吐き出させろ! ついでに親説教して、百万ぐらい布施させて、豆腐買えよゴラアー!」
ふたりは鬼怒川の河川敷で、夕餉のための火をおこしていた。
空腹のお市はおさまらない。
「鍋にネギだけってなんだよ。ただのネギ湯じゃん。どうせなら、ここで魚でも釣ってりゃよかったのに。鴨でも捕まえてりゃ鴨鍋だったのに」
「殺生は、ダメだな」
「だったら米でも麦でも植えてろよ!」
「……」
「――」
「あの試供品の味噌、もうないのか?」
「ないよ! こないだなんかの葉っぱにつけて喰っちゃったろ!」
涅槃金の三十万は、行脚に出て三日で無くなった。
以来、ふたりは樹下に眠り、托鉢で食を得る古式ゆかしい巡礼に倣わざるを得なくなっている。
お市はネギをブツ切りにしながら、
「おれの涅槃金だけでも残ってたら。あれがあれば、まだ豆腐どころか肉だって魚だって喰えたのに」
「おまえ、腹減るとホントうるせえな」
「おかげさまで正気を保つのがせいいっぱいなんだよ!」
お市はネギをザクザク切った。
山を下りると、ふたりはまっすぐに焼肉屋に駆け込んだ。修行生活にふっ飛ばすように、大いに肉食し、居酒屋をめぐって痛飲した。
「そもそもあのひとこと、てっちゃんの『焼肉いっちゃおっか』がアリの一穴だった。あれがなければ、その後の惨事は起きなかった」
「おまえも大喜びで喰って……」
「あんた兄弟子。上に立つ者! 教え導く立場! このユニットの責任者! 班長!」
三日目、ふたりが入った店は、飲み屋だった。女がまとわりついてきて、したたか酔っ払った時にはチンピラに囲まれていた。
ぼったくりバーだった。
ひと悶着あった後、テツは有り金つかみ出し、お市をひきずって出てきた。
「てっちゃんが、自分の分渡すのはいいよ。なんでおれまで? 十五万はおれの涅槃金だよ? この先、ケガしたらどうすんの? しかも持ち金全部って、どこの江戸っ子だよ? いなせが過ぎるよ。 水戸のお生まれよね? 小さい頃は納豆食って、だっぺだっぺ言って納豆――納豆と白いごはん喰いてえええ」
「ネギ、煮えたぞ」
丸石に置かれた鉄鍋の湯が沸いていた。放り込まれたネギも透き通っている。
ふたりは食前の偈を唱え、熱いネギをほろほろとほおばった。味付けは塩のみである。
テツはさかんに箸を動かし、
「どうしたんだ、このネギ」
「農家で売り物にならないやつ、わけてもらった」
お市も鼻息荒く、ネギをほおばっている。
ネギは何本食べてもネギだった。若い腹は膨れない。満たされない食欲に、初秋の川風がいよいよわびしかった。
お市は空の碗をせつなく見つめ、
「ごはんたべたい」
とつぶやいた。
「てっちゃん。ホントどうすんの」
「――」
「これから冬になるんだよ。食べられる実や草もなくなるよ」
「おれたち、小鳥みたいだな」
お市は泣き笑いした。
テツは湯に塩を入れて飲みながら、
「なんとかするよ。いざとなったら、どんぐりとか。地面掘れば、カエ――カイワレとか」
「いま、カエルって言った?」
「言いませんよ」
お市がわめきかけるのを、テツは止めた。
後頭部に視線がにぶく当たるのを感じていた。
ふりむくと、川を挟んだ対岸に、痩せた男が立っている。こちらを見たまま、じっと動かなかった。
お市も気づいた。
「あれ。ここキャンプ禁止かな」
しかし、注意するでもない。対岸の土手に、亡霊のようにぼんやりたたずんで、何も言わない。少し様子がおかしかった。
テツがやおら手を大きく振った。
「おおい」
と声をかける。
「こっち来ませんかー! あったかいネギ湯がありますよー」
何言ってんの、とお市が見ると、テツは小声で、
「あの人、やばい――」
「?」
「飛び込む場所を探してる」
お市もばっと立ち上がり、おおい、と両手を大きく振った。
男は火にあたり、しきりにすみません、とあやまった。
素裸に、お市の白衣を羽織っている。
男はふたりに呼ばれ、そのままざぶざぶと川を渡りだした。
川は数日前の雨台風でまだ水が多かった。途中で転び、吸い込まれるように流されていった。あわててテツが水に入り、その髪をつかんで引っ張り出したのである。
テツも隣で下帯ひとつになり、火にからだを炙っている。
「ネギ食べるとあったまるよ」
お市は自分の応量碗に灰で焼いたネギを入れ、男に渡してやった。
「すみません」
熱いネギを口に入れ、男はふがふがと礼を言った。
すでに先の異様な空気はない。
(二十後半? ――いや、三十? 四十?)
テツはくるくる体を炙りながら、男の人体を見ていた。
痩せて、骨柄は大きい。脂の抜けた白い顔をして、目が細く、ものを言う時に微笑むくせがある。
おとなしそうな男だった。ただ、声だけは話しなれている人間の、にごりのない声をしていた。
「どうも、本当にご迷惑をおかけしまして。おふたりが楽しそうで、見とれて。巡礼の旅ですか」
「……」
「おふたりはどちらのお寺で」
「水戸の明王寺」
「え、あの白馬の王子の――」
「白馬山明王寺」
テツはぶっきらぼうに世間話をさえぎった。
「あんたさっき、全然自分で泳ぐ気なかったでしょ。つるーっと流れていこうとしてたでしょ。ダメでしょうが」
男の顔から微笑が消えた。彼は碗に目を落とし、どうかしてたんですよ、とつぶやいた。
「ここのところ、疲れてて。何も考えられないんです」
「……」
ふと、男は目をあげた。
「ぼく霊に憑かれてますか? お坊さん、わかります? そういうのわかるんですよね?」
「え――」
「お祓いしてください! お願いします」
「――」
テツは困り、お市に目でうながした。
んー、とお市がくちばしのような口をして、
「お祓いは神社担当ね。お寺は供養。なんでも安易にスピリチュアルに解決を求めるのは、よろしくないと思いますよ。たいがいの霊より、生きてる人間のほうが強いんだから。人間が解決」
「凶悪な霊障なんです! 職場全体を覆って、元気が吸い取られていくんです。なにか魔が暴れてるんですよ。お願いします!」
「……」
テツはこそこそと木切れの先で火をいじった。男は声をはげまして、
「ぼく寝る前に、祈ってたんです。本当に苦しくて、ずっとお不動様の真言唱えてました。そしたら、偶然、お坊さんがここにいた。それがあのテレビでやってた明王寺のお坊さん! すごい法力僧の白馬の王子の! これお導きですよね? お不動様のお導きですよね!」
「――」
じつは、とテツが顔をあげた時、お市が小声で、
「てっちゃん。これ、請けよ」
「?」
「請けよ。飯代かせぐ」
「ダメだろ」
「やる。――あの、その職場というのは、どのような」
「おいやめろ」
お市はテツを押し、水のそばへ行った。
「人助けだよ! このひと困ってる。おれらも困ってる! 奇跡のマッチング! まさしくご本尊さまのお導きだよ! やろう!」
「落ち着きなさい。おれら、ただの新ぼっち(見習い僧)」
「できるよ。不動護摩供なら、もう見て覚えた」
「それ越法!」
カエルは食いたくないよう、と泣くお市を振り払い、テツは男の前に戻ってきた。
「申し訳ありませんが、いま修行中なのでお断りします。そういうご相談は、きちんとした行者の方に」
男の顔から表情が抜け落ちた。
「そうですか」
ふいに立ち上がり、くるりとふたりに背をむけた。肩からお市の衣が落ちて、素裸になる。そのまま大股で川へと歩き出した。
水へ入り、川中まで行くと、ふわりと浮いて川下へ流れて行った。
「コラァ! おっさーん!」
テツはわめき、川へ駆け込んだ。