憂鬱な目覚め
「ひっ………ああ………また、今日もですか………トリスキよ、お許しください………」
トリスキ教徒の、本人の自覚では敬虔な神父であるはずのケンタは今日も目覚めるなり、むせかえるような女たちの匂いと汗(その他諸々の分泌物)の中心に居た、当然のように全員が裸だ。
自分以外はまだ深い眠りの中らしく、ベッドの脇のテーブルには酒瓶や錠剤が乱雑に転がっている。
使用済なのだろう、てらてらと濡れた、男性器を模したジョークグッズ(の名目で販売されているアダルト用品)のたぐいが視界に入った。
神父が迎える一日の始まりとしてはあまりにいかがわしさしかない状況にケンタは頭を抱え、自らの情けなさに涙まで浮かべそうになるが、とりあえずは事態の改善をはかるべきだと気付き、まずはベッドから抜け出す事にした。
ケンタは左胸に頭を載せて抱き着いていた金髪の少女をそっとどかし、豊満な胸を持つ浅黒い肌の女につつみこまれた己の右腕を引き抜く。
どのような状況で眠りに入ればこうなるのか、股間に顔をうずめて眠るショートヘアの女に浅く咥えられたままの『小さな分身』を脱出させる時にはいささか気を使った。
作業の際に感覚器官をチリチリと刺激した緩い快楽に強い罪悪感を感じつつも、女たちを目覚めさせることなく………一度や二度の話では無いのでさすがに慣れた………ベッドから上手に抜け出したケンタはシャワールームに向かうと、女たちをその音で起こす事が無いように非常に弱い勢いのシャワーを使い、全身から淫らな痕跡を洗い流した。
ケンタはベッドルームまで戻ると己の着衣を見つけ出し………幸運な事に汚れの痕跡は無い………手早くそれらを身に着けると部屋の外に出た。
着替えていた時に、昨晩に抱いた(のであろう)女たちの顔をチラッと覗き見たが、金髪の少女………年端もいかない少女の裸身に更に強い罪悪感が生じる………が顔見知りである事に気付く、他の女たちには見覚えが無かった。
ケンタの信仰するトリスキ教はこの世界で最も大きな宗教の一派である。
トリスキ教の教えでは食欲以外の欲望は控えるものとされており、その食欲も出来る限りは鳥の肉と卵に向けるべし、と厳密に定められている。
性の乱れなどもってのほかの話であり、性行為で快楽を得る事は悪しき行いで、民衆を導く神父はその生涯を清らかな体で過ごし、平たく言えば死ぬまで未婚の童貞として生きて、トリスキ教徒としての理想像を示すもの、とされているのだが。
ともあれ、この日ケンタが居たのは安手の連れ込み宿やラブホテルでは無く、見るからに高級さが感じられるシックな内装のホテルであった。
フロアのエレベーターホールには幾つものテーブルと革張りのソファーシートが並んでいる、先客は居ない。
ケンタはそのソファーシートのひとつに深く腰を下ろすと大きくため息をついた。
ベッドの上で眠る女たちをどうしたものかケンタは悩んでいた。
そのまま放置していくのは男として、と言うより人としてどうなのかとも思うが、下手に起こしてから帰ろうとするとそのままもう一回と言われかねない。
むしろ、ベッドにふたたび引きずり込まれるのは確定的に明らかと言い切ってもいいだろう。
女性関係を除けばあらゆる欲求を抑える自信はある、女性への欲求だって自分では全く自覚したつもりは無いのだ。
意識さえハッキリとしていれば、誘いを掛けて来る女たちがどれほどの美女の集まりだろうと快楽に流されるものではないはずだが、ケンタの身体の作りはどうなっているのか、女たちに付きまとわれているとふっと意識が遠のき、そのまま長時間戻って来ない事がある、その結果が先ほどのざまだ。
今日のようなトラブルが続発するケンタはその経験から金銭の大切さが骨身に染みこんでいた。
自由に使える金さえあれば、今日のような時に会計を済ませて先にホテルから出る事も出来るが、金が無ければそうもいかない。
ケンタがもっと若く、金と言うものを必要以上に軽視していた時に、世界で一番とも思えるような超高級ホテルのベッドで意識を取り戻した事がある。
その時に枕を共にしたのは世の女性がうらやむ有名なセレブリティだったが、彼女が人々の憧れの存在である事は当時のケンタの心の救いにはならず、そして今のケンタにも全く何の慰めにもならなかった。
相手が一人な分だけ今日より比較的………最悪の底を突き抜けていない分だけ………マシだったのだが、このような状況にまだ慣れてもおらず、我が身の罪深さに思わず叫び声をあげ、さすがに全裸は不味いとトランクスだけを履いて部屋から逃げ出し、感情を取り乱したままにホテルから飛び出そうとしたものの、やんわりと警備員たちに制止されて受付まで連れ戻され、目玉が飛び出るような高額の会計を支払う事も出来ず、すごすごと部屋まで戻った時に自分を出迎えたあの女の楽しそうな表情を思い出すと今でもはらわたが煮えくりかえる。
トリスキ教の神父と言うものはそう儲かるものではなく、一般的な神父はクレジットカードでさえ持てるかどうかは怪しいものだが、今のケンタは昔の教訓から副業を得ており、そちらの経済的信用によってクレジットカードを手に入れている。
ケンタは財布からクレジットカードの一枚を取り出して、つまらなさそうに表面の図柄を眺めた。
このカードの限度額にいささかの自信はあるが、あの時の超高級ホテルの会計を支払う事はいまだに出来ないだろう、それが出来るようになるのがトリスキ教の神父として正しいのかにも疑問を覚える。
そして今日もまた、清貧からほど遠く、身の慎みからもほど遠い使い道にこのカードを使うのだ。
悲しむべき事にケンタにとって女と遊ぶためのホテル代は完全な無駄遣いである、せめてホテルでさえなければと考えそうになって、トリスキ教の神父として逸脱した発想をした事に気付き、この世のどこにも所在が無いような悪寒に襲われ、肩をすぼめて我が身を掻き抱いた。
女たちとの乱交の後で逃げ出すようにホテルを出ていく神父の理想的な振る舞いなどケンタには解らないが、生まれ育った国で得たひとつの常識としては男はこのような時には率先して金銭的な支払いをするべきだ、と言う考えはある。
このような時に上手に逃げだせるのならクレジットカードなどそもそも不要だが、会計の問題を他人に丸投げして自分だけ帰ってしまうのは食い逃げのような犯罪と変わらない、どうしようもない貧困のためなら話は別だが、それならまだ女を自覚的に食い物にして生きて、女に堂々と支払いをさせた方が社会の構成員として上等だろうとさえ思う、まして自分はトリスキ教の神父である。
我が身に備わった他の常識に照らし合わせると、情事を終わらせれば用事は済んだとばかりに女を置いて一人でさっさと帰るような男は人間のクズであると言う思いも湧くが、朝から既に精神的に疲れ果てていたケンタは自己分析を早々に打ち切り、もう何も考えたくないとばかりにまぶたを閉じた。