日時の整理と、どこにいるかの見当がついた <C106>
八兵衛さんと主人公のつながりが一つ明らかになります。
やっと俺が多分ダンプカーとの事故で、意識だけ西暦2017年から西暦1817年へと200年前に飛ばされたことが判った。
「けんいち様の時代は、どんな年号を使っておられるのですか」
伊賀七さんの興味が、ちょっと別なところに移った。
話しが幕末の微妙な歴史から遠ざかって、俺はほっとした。
「未来の日本では、ここの時代と同じように、禁裏が定めた元号も使いますが、主な出来事は西暦と言って、ご禁制のキリスト教を起源とする4桁の年号も併用しています」
「世界には多くの国があり、それぞれの国が独自の年号を使うと弊害が大きいため、西洋で使われていた西暦を使うことが一般的となっています」
「この西暦は、キリスト教の教祖であるイエス・キリストが生まれた年を基準にしており、今が丁度1817年目。
これは、さっき確認してもらった関が原の合戦が丁度西暦1600年だったことから判ったことです」
「ちなみに、俺がいた未来は西暦2017年なので、引き算をするとピッタリ200年になります」
「二つの出来事の年間を測るために、甲子が何回経過したかを確認する必要が無くなるため、長い歴史を見るときに便利になります」
『これで、年のほうは概ね決着がついたのだが、太陰暦と太陽暦のほうはどうだろうか。
事故は7月24日だが、憑依したのは水無月11日、つまり6月11日だよな。
で、2017年の春分の日が3月20日で、その126日目が7月24日』
俺は頭の中で大の月、小の月の数と端数の日数を足し込んだ。
「伊賀七さん、今日は春分の日・春のお彼岸の中日から数えて何日目ですか」
伊賀七さんは、何やら暦を出して数え始めた。
「127日前になっている」
なるほど、日も含めて丁度200年ピッタリになっている。
「どうやら、俺の時代で使っていたのが太陽暦、この時代で使っているのが太陰暦ということで、月・日の違いがあるようですが、これを換算すれば正確な月日が解りますね」
そこでハッと気づいた。
「八兵衛さんは、いつが生まれた日なのかわかりますか。
俺が生まれた日は、西暦1999年12月15日です。
八兵衛さんの生まれと俺の生まれた日を紙に書いてください」
ひょっとすると、この八兵衛さん、数えで19歳と聞いたが、同い年かも知れない。
そして、俺の名前が「林健一」であることも告げた。
林健一、1999年12月15日
八兵衛、寛政11年11月19日
この小説は横書きなので算用数字だが、実際には漢数字で縦書きに書かれた。
寛政11年は1799年である。
そして、太陰暦の11月19日は、予想通り太陽暦の12月15日であった。
「どうやら、丁度200年のずれに見合う人に憑依したということのようです」
大したことではないのかも知れないが、八兵衛さんに憑依した理由がなんとなく解ったような気がした。
ここまででかなり時間を費やしてしまい、昼を過ぎて申刻(午後3時)に入ってしまったようだ。
俺はちっとも空腹を感じていないが、体の主である八兵衛さんは腹ペコを訴えてきている。
多分、俺は意識だけの存在なので、八兵衛さんの物理的な欲求は解りはするものの、それを自分のものとして感じないのだろう。
いわば、ゲーム内のキャラクターが八兵衛さんで、俺はそれをただ声で指示して動かしている感覚というイメージに近い状態と言える。
ここで伊賀七さんは、夕食を摂ることにしたようで、女中のトメさんを呼んで座敷に食事の用意をさせている。
この時代の農村は、一日二食が普通らしい。
朝職は玄米ご飯にお味噌汁だったが、夕食も似たようなものだった。
ただ、純粋な玄米ご飯ではなく、元の世界で言う十穀米になっている。
そして、汁物である朝食と同じ味噌汁に沢庵がついて一汁一菜。
ただ、ご飯はどんぶりメシ状態で、これで全部とのことだ。
「八兵衛さん、毎日の食事ってこんなものなのかい」
俺が聞くと、八兵衛さんはここ数日の食事を思い浮かべている。
いつも通りで、たまに、月に1~2回、何かごとのお祝いに近い状態で干物魚を焼いたものや納豆なんかがつくことがある、ということのようだ。
「毎日、こんなものでございます。
ただ、今日はご隠居様と同じ所で頂いているので、落ち着いて食べることができます」
「そうか、良くわかったよ。ありがとうな」
八兵衛さんとは、同い年ということが判ったが、なかなかタメ口の友人モードにはならない。
大変質素な1日2食の生活を目の当たりにした。
3食があたりまえで、しかも副食が豊富であたりまえ、と思っている世界が、どんなに恵まれているところだったのかを考えてしまう。
しかも、結構好き嫌いして、ご飯を残すのも平気でしていたのだ。
『俺の暮らしていた時代の食事事情は、とても口に出せないなぁ』
夕食の箱膳が下げられ、白湯を頂いてひといきつくと、書斎に移り、続きが始まった。
「林健一様とおっしゃいますと、幕府昌平坂学問所の林羅山先生とご縁のある方なのでしょうか」
伊賀七さんは聞いてきた。
確かに日本史で江戸時代の文化を語るとき、覚えておくべき朱子学者の名前として挙がっていた人物だ。
「いや、何の関係もありません。
たまたま同じ姓というだけなのだと思います。
ところで、ここから江戸までどうやっていくのか、どれくらいの日数をかけていくのかを教えてください」
さあ「いつ」の後は「どこ」の特定だ。
伊賀七さんからの名前をきっかけにした突っ込みを、軽くかわして、聞きたいことを聞く。
どこを特定する手っ取り早い方法は、江戸までの経路を聞くことじゃないかと思いついた。
「ここ谷田部から江戸まで16里あります。
谷田部から南に向って6里ほど行くと、取手宿に着きます。
そこから水戸街道に入って10里行くと江戸日本橋です」
俺は、見覚えのある地名が無いか、水戸街道沿いの宿場を書き出してもらった。
「千住宿、新宿、松戸宿、小金宿、我孫子宿、取手宿、藤代宿、若柴宿、牛久宿、荒川沖宿、 中村宿、土浦宿、真鍋宿、中貫宿、稲吉宿、府中宿、竹原宿、片倉宿、小幡宿、長岡宿、水戸宿」
知っている地名と合致するのが、松戸市、我孫子市、取手市、牛久市、土浦市、水戸市だ。
谷田部は、取手市の北、土浦市の西でそれを伸ばした交点という感じなのか。
江戸に意外と近いことが解った。
1里は約4キロメートルで徒歩1時間と見ればよい。
ならば、江戸から1日で行けるという、この世界では結構近い距離にあることがわかった。
俺が事故にあった川崎市麻生区とは結構離れているが、そこと同じ場所だととんでもない田舎だった可能性もある。
それからすると、ここが政権中枢から隔絶している場所でなくて、ラッキーだったのかも知れない。
居場所を特定するのは、水戸街道がポイントでした。
これで、いつ・どこが主人公の頭の中で一応理解されたことになります。