その後の世界 <C152>
「俺」が消失した後の概略をくっつけています。
文化十四年の6月11日(1817年7月24日)に、200年後の学校教育を受けそれなりの知識を持つ林健一が同じ年齢の八兵衛に憑依し、3週間後の7月2日(8月14日)に憑依が解けてしまった。
このわずかな間に、カラクリ人形・発明家で名を挙げている飯田伊賀七、日本地図を完成させる伊能忠敬、樺太を探検し独立した島と明らかにした間宮林蔵、町人出身ながら関流宗統五伝で私塾を開き高名な弟子を輩出した日下誠、幕府天文方で天文学の第一人者の高橋景保、といった当代一流の方々と接触し、未来の技術・歴史の一部を伝えることとなった。
歴史として、1833年から6年間も続く天保の大飢饉、天変地異は、1855年の安政大地震・1923年の関東大震災・2011年の東北大震災と津波被害を伝えた。
さらに、外交関係としては、開国して日本の植民地化を阻止し、1856年の日米修好通商条約の中身を不平等条約としないこと、金の流出を抑えることを要望した。
伝授した技術は、熱気球・機械式計算機・計算尺・蒸気機関・ベアリング・脚気・手旗信号といったところであろうか。
<1817年>
伊号式計算尺発売(伊能家)。
機械式計算機・木製試作機完成。
標準ベアリング図面公開。
<1818年>
イギリス商船ブラザーズ号が浦賀入港。船長のゴルドンが通商を求めるが、通商関係未整備との理由で拒絶。
「大日本沿海輿地全図」が完成し幕府へ献上。早期完成に計算尺・計算機が貢献。
「大日本沿海輿地全図」完成後、伊能忠敬死去。
筑波山・天灯ランタンによる供養行事の開催開始。
<1819年>
天文台蛮書和解御用掛を拡大し、蘭学以外に英語・露語、洋学を再編成し、通詞育成のため漂流民留め置き所を併設。
飯号式計算機量産版販売開始(飯田家)。
<1820年>
江戸・大阪間の手旗信号による連絡網整備。米相場の連絡、通信為替開始。
海防体制の整備。松前奉行から異国対応部門を独立させ外国奉行を新設。
攘夷暴発を諭す書の発信。
公家儒学者の伏原宣明に海外状況が入るように工作。
熱気球による有人気球成功(矢田部藩、飯田家)。
<1821年>
江戸・浦賀間の手旗信号による連絡網整備完了。参考:モリソン号事前対応準備
江戸・水戸間の手旗信号による連絡網整備完了。参考:大津浜事前対応準備
各地との連絡網整備着手。
製鉄のための反射炉試作。
筑波山・天灯行事が隆盛を極める。
計算尺・計算機の輸出許可を外国奉行から取得。関税に関する基準整備。
<1822年>
軍用船・大砲などの新装武具の開発・調達・管理を行う部署として兵部奉行を新設。
小型蒸気機関の試作品完成。
浦賀地区の整備開始。参考:安政地震/津波対応準備
居留地、疫病隔離地の整備開始。
横須賀・田浦の港湾整備開始。
観音崎に船舶監視所を設置。
江戸参府したオランダ商館長ブロンホフに計算尺・計算機を商品サンプルとして提供。
海外輸出への可能性を打診。
同時に、西洋との交易を長崎だけでなく浦賀でも行うことをオランダ経由で布告。
<1823年>
大阪・長崎間の手旗信号による連絡網整備完了。
天保飢饉対策として、寒冷地向けにジャガイモ栽培の奨励を指示。
同対策として、複数年分の米穀備蓄を指示。
浦賀における海外貿易を開始。
久里浜の港湾整備開始。
<1824年>
佐賀・鹿児島間の手旗信号による連絡網整備完了。
奥州街道沿い:江戸・三厩宿間の手旗信号による連絡網整備完了。
津軽海峡を横断する手旗信号設備着工。
小型蒸気機関を用いた外洋向け外輪船を横須賀造船所にて完成。
英米捕鯨船が浦賀に入港。薪水・食料などを補給。
浦賀・横須賀・田浦間10kmに軽便鉄道=1067ミリ規格を開通。
<1825年>
交易船による計算機の輸出開始。
田浦・横浜間30kmに鉄道を延長して運用。
浦賀・横須賀間の大津から分岐し久里浜に至る5kmに鉄道を延長して運用。
三厩宿・松前間の手旗信号による連絡網整備。
俺が残した知識は国力の増強をもたらし、国内に西洋にも劣らぬ科学技術を有した国という印象を与えることができた。
特に、1825年に西洋に本格輸出された計算機は各国で高い評価を受け、政府や大企業が購入することで利益を生み出した。
しかしながら、初期の膨大な利益は、特許権の知識を欠いた為、模倣した製品が多数出回るようになるまでの数年間の栄光にしか過ぎず、以降はライバルとなった西洋諸国とのつばぜり合いとなってしまった。
幕府は海防に力を入れる一方、海外との交易による一次利益を独占することで海防にかかる費用を賄うことに成功した。
これは通商条約が結ばれていないため、交易物は民間を通さないことで起きた現象である。
また、海防姿勢と機先を制した攘夷抑制書簡の発信、交易の開始により水戸より起きるはずであった攘夷論は陰を潜め、また公家・朝廷対策も手を抜くことなく行うことで、西洋諸国との通商を行う条約を結ぶ準備を整えていった。
この体制整備を行う一方、外国奉行では諸藩・公家から優秀な若手を募り、海外への短期視察・留学制度を企画・実施していった。
これは、攘夷ガス抜きと現状認識による開国やむなしを幕府に同調させる意味があった。
このような操作の結果として、江戸幕府は1868年以降も存続し、幕藩体制を残したまま近代へと突入してしまったのだが、この歴史はまた別の話しなのである。
以上で、文政7年の計算機は終了させて頂きます。
長編の歴史物はかなり難しいということを身をもって感じました。
歴史自体の認識や事実からの逸脱もかなりあるとは思いますが、調べるのが追いついておらず、ご容赦ください。




