伊能忠敬邸 算術三昧 <C144>
月曜日早々から数学の話しで恐縮です。
後半はスキップして頂いて結構です。
■ 文化十四年、6月25日(1817年8月7日)深川黒江町
意識が戻ったのが、翌朝の朝食直前の時間だった。
やはり頭を沢山使うと、精神集中が長いと、それに見合う分休息が必要なようだ。
『あっ、戻られましたか。
昨日は歴史改変への思いだけでなく、蒸気船についても随分と説明されてましたから』
「あれから、皆さんどうだったのかな」
『健一様がお休みになって戻ってこられないこと、呼んでもお応えにならないことを説明してから、書かれた半紙の中身を巡って白熱した議論が行われました。
結局は、日本の富を西洋は狙っていて条約という名前の手枷足枷を嵌めて奪い取ろうとする、という図式に全て収まることを皆理解しました。
海外から来る異人が皆同じ考えという訳ではないのですが、結果としてそうなってしまうのだということが判りました』
かなり混乱したやりとりが行われたようで、八兵衛さんが紛糾するたびに俺に声をかけようとしたが、応答がなく呼び出しを断念したという経緯を、俺に語りかけながら思い浮かべていた。
『ご隠居様=伊賀七さんは、あまり議論には加わらず、機械式計算機のことをしきりと気にされており、議論が一服されたときにここを辞去されました。
昨夜は江戸藩邸に戻り、今朝矢田部に向けて急ぎ戻る、とのお話です。
どうやら機械式計算機が、小判の山に思えるようで、工房の拡張と計算機の開発に没頭するのではないでしょうか』
確かに、伊能翁といい、日下さんや高橋さんの反応は凄いものがあった。
最初、伊賀七さんはソロバンとの優劣を気にしていたが、ソロバンに頼っている現場の喰い付きの良さを見て、俺との議論をすっかり忘れてしまったようだ。
「これで里も今年は一息できるという感じなのだろうけど、天保の飢饉は6年間だものなぁ。
あと16年しかないのだよ。
飯塚としては100人を6年養うことができる準備、藩ではその100倍の人をなんとかしないといけないのだから、最後に縋られる幕府も大変だよなぁ。
こういった飢饉で、里が・藩が・幕府が疲弊してしまったのも無理はない。
でも、これが判っている今なら、驕らずに対応できるはずだ」
「皆様、ご安心ください。
今、妙見菩薩様が戻られました」
一斉に、菩薩様を載せている三方に向かい平伏する。
「昨夜、飯塚さまが退去されましたが、間宮さまもご同僚と話し合われたいことがある、とのことで今日はご不在になりますぞ。
あと、日下さまと小出さまは、朝食後こちらに伺うと申しておった。
まずは、朝食にいたしましょうぞ」
伊能翁の勧めに従い、箱膳が運び込まれる。
伊能翁が、武家の公務について補足説明をしてくれた。
「公務は基本5、10日はお休みなのじゃ。
それで天文方の高橋様は、今日公務がないことから昨夜からずっと入り浸っておる。
若い者相手に、難しい話しに巻き込んで遅くまで苛めておったなあ。
忠誨も内心困っておるのが見え見えじゃ。
間宮様は、どうやら海防のこともからむ話しから、この活動には是非若手を加えなければと思い詰めていたご様子じゃった。
できれば、松前奉行配下から若い人をひとり加えたいということで、その談判かと思われますな。
確かに、先を考えると異国と接点を持つところを引き込んでおくのは得策じゃて。
よう知恵が回るものよ。
生真面目で器用貧乏なところがある故、いつまでも松前奉行配下では居られぬことも見通しておるのじゃろう」
食事自体は、一汁二菜で麦飯になっており、脚気対応が本気ということが良く判る。
食事の所作も含めて八兵衛さんが勝手に動いてくれるので、予定をゆっくり考える時間が得られて助かっている。
『今日は受身か、それとも昨日の続きか。
まあ、間宮さんがいないから、歴史談話・海防談義は無しで済みそうだ。
政治向きの話は苦手なので丁度いい』
など考えているうちに朝食は終わり、ゆったりしているうちに、日下さん・小出さんコンビがやって来た。
「今日は最初に戻って、伊賀七さんが脚注されていたこの半紙に書かれている算術方法について、是非ともお聞きしたい」
朝から日下さんは熱い。
「皆様、今日は算術の日ということで宜しいですかな」
伊能翁が場を仕切ってくれ、その方向で話しを進めることとなった。
「では、算術の作法についてお話くだされ。
特に『=』という記号の考え方についてお教えください」
日下さんはここへ来た日にした質問を繰り返した。
「こちらで主流の関派の算術方式を全く知らないので、ひょっとすると同じようなことがもうあるかも知れませんが、ご容赦ください。
この『=』という記号は、この記号の右側にある式で得られる数値と、左側で得られる数値が等しいことを示しています。
この左右のそれぞれの数式に対して、同じ演算を行っても等しいという条件が変わらないことを基本として式を解いていきます。
演算とは加減乗除という四則演算だけではありません。
あらゆる演算を含みます。
この性質を利用して、例えばわからない数値を何かの記号=変数として式を作り、これを解く道筋を見えやすくします。
独立した複数のわからない数値をそれぞれ異なる記号=変数に置き換えた式について、相応の式の数があれば、解ける問題かどうかが直ぐわかるようになります」
要は高校の数Ⅰレベルの問題なのだ。
俺は簡単な『鶴亀算』の問題を方程式で解く方法を紙に書いて説明した。
「複数の変数を規則に従って並べると、その解法には一定の法則があることがわかります。
この方法を判りやすい形・方式にまとめると、『行列式』という作法になります。
行列式についての取り扱い方法の基本はこうなります」
俺は三元一次方程式を行列式にして、順番に解く方法を示した。
「一般式として、クラメルの公式というものがありますが、これは良く考えれば導き出される公式です。
この公式のように、いくつもの役に立つ公式がありますが、その全部を覚えている訳ではないので、必要に応じて導き出せばよいと考えます」
おおよそ、このようなやりとりをした後、日下さんと小出さんは式の書かれた半紙をかっさらい、妙見菩薩様に丁寧に平伏したあと、隣の部屋へ二人だけで移動した。
しばらく隣の部屋の様子を窺っていると、唸り声と感嘆の声、興奮を抑えた話し声が聞こえてきた。
もうしばらく、放っておいてよさそうだ。
俺は、残った伊能翁さん・高橋さん・忠誨さんを相手に雑談をすることになった。
次回は、午後の雑談から、八兵衛さんがちょっとした小旅行?に出ることとなります。




